(8)深紫の少年
宿を決め荷ほどきをしたら、あたりはすでに薄い藍色に染まっていた。それならば、残るは腹ごしらえだろう。いまだ食欲はわかないが、人間、飲まず食わずでは生きてはいけない。
どうせ朝食は宿屋でとることになる。ならば今夜は外で済ませることにしよう。エレナは女将に紹介された店に足を入れる。小綺麗とは言い難いその店は、賑やかでなんとも親しみやすい。酒と料理を楽しむ客の笑顔が、エレナの馴染みの店で見るものと似通っていて、この店が住人たちからいかに愛されているかがよくわかった。
思わず懐かしく思いながら席にもつかずにぼんやりしていれば、どんと背中からまた突き飛ばされる。振り向けば、宿屋の息子さんがこちらを睨みつけていた。やれやれ、すっかり体がなまっているらしい。前回といい今回といい、まったく気配を感じられないとは。
「こんなところでひとりでぼんやり過ごしているなんて、襲ってくれと言ってるようなもんだよ」
「勘弁してくれ。ここのお客が、みんないきなり背中から突き飛ばしてくる人間というわけではないだろう。大体こんな時間に子どもがこんな場所に来てはいけない。早く帰りなさい。お母さんが心配しているぞ」
「母さんのために来ているんだから、かまわないさ」
どうやら、宿の女将に頼まれたらしい。不慣れな観光客が心配だったのだろうか。それほど自分は危なっかしく見えるのか。エレナは正直頭を抱えたくなってしまった。利発とはいえ、目の前の彼は年端もいかない少年だ。さすがに夜分に連れまわすのは気がひける。
「食事を終えたらさっさと引き上げる。わかったな」
「ねえ、魚と芋の揚げ物が食べたい」
「はいはい」
子どもと一緒ということを考え、酒の他にジュースを注文する。いくつか酒の肴になるようなものと、子どもの腹にたまりそうなものを見繕った。味がわからないからこそ、馴染みの食感くらいは大切にしたいというのがエレナの本音だ。ところが届けられたふたり分の料理は、みなエレナの近くに置かれてしまう。もちろん用意されたカトラリーはひとり分だけ。
店員としても、子どもは遠慮してもらいたいのだろう。つまみ出されなかっただけ、ましと思わねばなるまい。エレナは仕方なく小皿に取り分けて、フォークとともに少年の前に差し出した。自分は手掴みでも仕方がないと判断したからだ。
ところが、少年はと言えばまさかのナイフで突き刺して食べ始める始末。頭を抱えるエレナの姿は目に入らないらしい。行儀も何もあったものではないが、その姿はなぜだか妙に様になっていた。
「それで、なんでこんなところに来たの? 博打で借金でもしたの?」
「まさか。ただちょっと嫌なことがあってね。逃げて来たんだ」
芋の刺さったナイフを振り回しながら、少年がエレナに尋ねた。思わずエレナは真顔になる。
「どうせ、旦那さんが浮気でもしたんでしょ」
「……やっぱり浮気されるような甲斐性なしに見えるか……」
この町にひとりで来た理由を一発で当てられて、エレナは肩を落とす。それほど自分は悲壮感が漂っているというのか。落ち込むエレナのことを、少年は興味もなさそうにちらりと横目で見やった。
「っていうか、甲斐性なしって男に向かっていうセリフなんじゃないの」
「いや、浮気されるような女だからなんて呼ばれても仕方がないんだ」
「変なの。別にあんたが旦那をないがしろにしてたわけじゃないんでしょ。だったら、フライパンでも持って追いかけてやれば良かったのに。ここらへんじゃ、しょっちゅう見かけるよ」
ほら、と言われて窓に目を向ければ、確かに通りの向こうでフライパンを持った勇ましい女性が男性相手に大立ち回りを繰り広げているのが見えた。エプロンをつけた女性は決して体格が良い方ではない。それが海の荒くれ男といった風貌の男性を追い立てているのだ。そんなあんまりといえばあんまりな光景に、思わずエレナは吹き出した。
「ああやって怒ればすっきりするでしょ。ストレス解消にもなるんだよ。大体、旦那さんに浮気されたくらいでいちいち逃げ出したりなんかしたらね、相手は謝るチャンスをなくしちゃうんだよ。目の前で泣き喚いてやれば良かったのに。そうしたら、相手は取りすがって、あんたに謝ったのにさ」
「残念ながらわたしの夫は女に執着するような人間ではないのだが……」
「どうかな。あんたが知らないだけじゃない? ほら、あのひとも、道にひざまずいて謝ってるよ」
なんともたくましい海の男が、女性に必死に許しを乞うている。周囲の人間たちも見慣れた光景なのか、やいやいと囃し立てるばかり。その声に押されたのか、あるいは男性を追いかけまして怒りがとけたのか。女性は男性に手を引かれるように家へ帰っていった。
「体格的に優位な男性がなぜ謝る? 女性よりも、彼の方が圧倒的に強いだろう?」
「奥さんのことが好きだからでしょ。だいたい喧嘩をしないと、仲直りはできないからね。きっかけがないと謝れないことは、子どもにも大人にもあるでしょう。毎日されちゃあ迷惑だけど、ああやって周りを巻き込むくらいでちょうどいいんじゃないの」
「そういうものか?」
「今回は割と簡単に片付いた方だよ。これがこじれて奥さんが家出なんかしちゃったら、今度はセレナータを歌わなきゃならなくなるんだから」
酸いも甘いも知り尽くしたような少年の答えに、エレナは口をひん曲げる。セレナータとは、このあたりでプロポーズの際に男性から女性に捧げる歌のことらしい。喧嘩の仲直りでも、同じように歌を捧げることがあるのだとか。つい歌うたいであるヘルトゥのことを思い出して、エレナは胸が痛んだ。
「じゃあ、何で浮気するんだ?」
「さあ。それは僕にもわからない」
「同じ男なのに?」
「……ああいうのと同じにしないでくれる? 世の中には奥さんに対して誠実な男の人もいっぱいいるんだからね」
エレナははたと気がついた。親子ほども年の離れた少年に、自分は一体何をむきになっているのだろう。さっさと食事を済ませて宿屋へ戻るべきだ。黙々と食事を再開したエレナに、少年はいたずらな顔で囁いた。
「親子ごっこをしようよ」
「親子ごっこ?」
「そう、あんたは今、僕に相談をするなんてありえないって思ってるはず。でも、息子になら相談くらいできるでしょ。何でも愚痴ってくれて構わないよ、母さん」
にやりとウインクを飛ばしたその顔が、どこか懐かしくてエレナはフォークを取り落とした。




