(7)瑠璃色の海
街を出たエレナが滞在先として選んだのは、ごつごつとした岩山に囲まれた小さな港町。わずかな平地にへばりつくように立ち並んだ家屋は、どれも煉瓦造りという味わい深さだ。
決めた理由はただひとつ、エレナの目に飛び込んで来た鮮烈な青に惹かれたから。エレナにとって海の色は、ヘルトゥの瞳の色であるエメラルドグリーン。けれどこの町の海は、それとは違うどこまでも鮮やかな青だった。
荷物を足元に置き、エレナは道のそばから大きく身を乗り出してみる。切り立った崖だから、見晴らしは驚くほど良かった。ゆっくりと深呼吸をしてみれば、体の細胞ひとつひとつが生まれ変わっていくような気がする。久しぶりに感じた心地よさ。静かに目をつぶったその時、信じられないほどの衝撃がエレナを襲った。
とっさに受け身をとれば、崖から転がり落ちるぎりぎりのところで体が止まる。地面にひっくり返ったままのエレナに、誰かが近づいてきた。敵襲? いや、ここはそもそも戦場ではないのに? 混乱しているエレナに投げつけられた声は、思ったよりも甲高いものだった。
「ちょっと、こんなところで何してるの。まさか死ぬつもり? ここで飛び降りたところで、全身複雑骨折が関の山。最悪、顔がぐちゃぐちゃになって、生き残るよ」
ゆっくりと視線を上げれば、目に入ったのは細長い手足。まだ、筋肉がついているとは言いがたい子どものものだ。それから見えたのは、細い首。への字にひん曲がった口元。面白くもなさそうな表情で、こちらを睨みつけているのは緑の瞳。そのままさらに視線を上げれば、短い黒髪が海風にあおられているのがわかる。こんな田舎には珍しい、端正な顔立ちの少年だった。
「怪我しちゃった? まあでも死ぬよりましでしょ」
突き放したような口調とは裏腹に、それは冷たさよりも、温かさが見え隠れしているもので、つまりこの少年は、エレナを自殺志願者と勘違いして突き飛ばしたらしい。残念ながらエレナは自死など試みてはいなかったし、突き飛ばされたせいで逆に全身擦り傷を負うことになったのだけれど、少年の優しさが今は何より嬉しかった。
「優しいな。心配してくれているのか。大丈夫、海の色が綺麗だったから近くで見てみたかったんだ」
「別にそういうんじゃないし。ここら辺で水死体が上がったら、気分が悪いからさ。迷惑なんだよね、警察の聞き込みもあるし」
エレナの返事に、あからさまにほっとしたのか、少年の表情が緩んだ。その姿にどこか愛おしさを覚えて、エレナは目尻を下げた。もとより子どもは好きだったが、こんな風に軽口にまで微笑ましさを覚えるようになったのは、自分が年をとったからなのだろう。
「さて。ここに立ち寄ったのも何かの縁だ。せっかくだから、しばらく滞在させてもらおうか」
「宿なら、向こう側にいいところがあるよ」
「おや、宿屋の息子さんか。ありがたい、それでは世話になろう」
「……ついてきて」
ぷいっとそっぽを向く様が懐いていない野良猫のようで、エレナは笑いを必死でこらえた。思春期の息子が自分にいたとしたら、こんな感じなのかもしれない。自分の腕に抱くことのなかった子どもを想像して、エレナは少しだけ切ない気持ちで少年の後ろ姿を追いかける。光の加減で、少年の黒髪が濃紫に揺れるのが見えた。目が離せない、吸い込まれるようなその色の名は至極色というのだったか。
連れてこられたのは、付近の町並みと同じく煉瓦造りの宿屋だった。ずいぶん昔から営業しているのだろう、古びた煉瓦がとても趣がある。しっかりと手入れはされているらしく、丁寧に磨かれたステンドグラスと植え込みの花の鮮やかさがとても印象深かった。
「女性ひとりでも気にせず泊まれるよ。そんなに新しい建物じゃないくせに、値段もまあまあするけれど、安全には変えられないし」
「もちろん、右も左もわからないんだ。ありがたく、泊まらせてもらおう」
エレナがそう言いながら扉をくぐれば、宿屋の女将だろう、ずいぶんと恰幅の良い女性がすっ飛んできた。
「まあまあ、お客様ですか。ようこそいらっしゃいました」
「息子さんに案内されてね」
「あらまあ、あの子が。いつもは手伝いなんてなにひとつしないんですけどねえ、まったく珍しいこともあるもんですよ」
そう言いながら、女将の顔は嬉しそうにほころんでいる。エレナも少年に声をかけようと思ったが、いつの間にか彼は姿を消してしまっていた。何とも難しい年頃だ。素直にお手伝いをしたことを母親には言いにくらしい。
次にまた少年に会った時に、しっかり誉めてあげよう。エレナは部屋を案内する女将のあとを追いかけながら、宿の二階に上がって行った。




