(6)緋色の怒り
翌朝。一睡もできぬまま、ヘルトゥはとある店を訪ねた。エレナの不在の理由が予想通り家出だったとして、事情を知るのは彼女以外にあるまいとヘルトゥは踏んでいたからだ。
ヘルトゥがノックするよりも早く、店の扉が開いた。どうやら彼女はヘルトゥが来ることをあらかじめ予想していたらしい。イザベルは、挨拶もなしにヘルトゥを店の奥に案内した。
「まあまあ、これはお久しぶりですわね。近頃、随分とお忙しいようですけれど、何か新しいご趣味でも見つけられたのかしら」
小首を傾げながら一気に言い募るイザベル。丁寧を通り越して慇懃無礼な振る舞いに、イザベルの冷ややかな怒りを感じる。ヘルトゥはさもありなんと視線を落とした。自分の想像通りエレナが出て行ったのならば、イザベルの怒りももっともなものなのだ。
「エレナから預かりましたの」
椅子に腰掛けたヘルトゥの前に放り出されたのは、小さな木箱。ヘルトゥは、乱暴に置かれた木箱に目を丸くした。どんなに腹立たしいことがあっても笑顔で受け答えするのがイザベルの信条であることをヘルトゥは知っていたから。
「これは?」
「さあ? どうぞご自分でご覧になったら?」
肩をすくめながらゆっくりと蓋を開ければ、最初に目に入ったのは店の鍵。エレナのために用意した結婚指輪代わりのプレゼント。彼女が肌身離さず大切にしていたそれが、そこにはあった。華奢な鎖で吊るされているはずの古びた鍵は、なぜかずしりと重かった。
次に出てきたのは、家と土地、それから店の権利書。ご丁寧に家にあった現金もある程度まとめてあった。エレナは生活していけるだけのものを持って出て行ったのか、思わずヘルトゥが心配になるほどに、財産は手つかずで残されていた。
最後に出てきたのは、エレナの名前が記入された離婚の書類だ。ああ、彼女はやはり自分の意志で出ていったのだ。それを改めて実感して、ヘルトゥはゆっくりと天を仰いだ。
「エレナはなんと言っていたかい?」
「何にも。エレナはあなたの悪口どころか、この件について何も言いませんでしたわ。ええ、一言も」
木箱の中には、手紙の類は何一つ残されていなかった。エレナが何を考えて出て行ったのかは想像することしかできない。詰られても良かったのに。彼女が何を思ったのか、ヘルトゥはただそれを知りたかった。
「君は、何も聞かないのだね」
「わたくしが口をはさむことではありませんもの。謝るも、謝らないも、あなたの自由です。エレナは思い込みの激しいところもございますけれど、決して冗談や軽い気持ちでこんなことをするひとではありません。本気でこうするに至った理由があるはずです。だからわたくしは、わたくしの大事な友人がこんな行動に出るほど、彼女を傷つけたあなたを許さない。それだけですわ」
「わたしも、自分が許せないよ」
ヘルトゥの自嘲めいた返事を戯言と受け取ったのだろう。イザベルが馬鹿にしたように鼻で笑った。
「わたくしの夫が妾を囲うような人間でなくって良かったと、今初めて思いましたわ」
そういえば、彼女は結婚した当初、夫との行き違いから、自ら夫の妾候補を探していたのだったか。あのときちっとも相手の心に気がつかなかった朴念仁である彼女の夫に揺さぶりをかけたことを思い出し、ほろ苦く微笑んだ。
偉そうにアドバイスをしてはみたが、十数年後にはこのざまだ。すれ違い、相手が怒って強硬手段に出るどころか、一言も言わずに逃げられてしまった。
「いつもさっさと逃げる立場でしたものね。突然放り投げられるのは、思ったよりも傷つくでしょう?」
「……そうだね」
かつてエレナの前から姿を消したことまで当て擦られ、ヘルトゥは肩をすくめた。イザベルに書類を預けていったということは、エレナは実家には戻っていないのだろう。イザベルに会いにきたその足で、この街を出ていったのだろうか。部屋からは見えない街の向こうに、ただ想いを馳せる。
「エレナがいつわたくしのもとを訪れたのか。どうして尋ねませんの?」
「彼女は不器用なひとだ。心が離れたならば、もう戻っては来ないよ」
軽口を叩いた瞬間、頬に熱が走る。打たれたのだと気がついて、じっとイザベルを見つめれば、ぶるぶると片手をおさえて彼女は震えていた。他人に暴力などふるったことがないのだろう。イザベルの青ざめた顔は、叩かれたはずのヘルトゥが痛みを覚えるほどだった。
「帰ってくださいな。ええ、今すぐお帰り下さいませ」
「……顔色が悪い。ゆっくり休んだ方がいい」
「あなたにだけはっ! 言われたくありませんわ!」
憎しみを叩きつけるようにヘルトゥを睨むイザベル。その瞳に追いたてられるようにして、男は店を出た。抱え込んだ木箱を持て余し、ヘルトゥは足を引きずるように歩き始める。
エレナは蜃気楼のように消えてしまった。昼の光がヘルトゥを攻め立てるようにぎらぎらと突き刺す。夏の暑さのせいだろうか、足元がゆらゆらと揺れておぼつかなかった。




