(5)灰色の星空
星の降る夜だった。もうすぐ星祭りの日だと気がつき、ヘルトゥは夜空に向かって手を伸ばす。あまり欲しいものを口にしないエレナは、だからこそ星祭りや女神記念日などを特別大事にしていたことを思い出し、胸が痛んだ。何もいらないよ、一緒にいてくれればそれでいいから。そんな芝居掛かったセリフを、心から言ってくれた愛しいひと。
足早に進んだかと思ったら、歩みを止め空を見上げる。ヘルトゥはそんなことを繰り返して、ようやく自宅に戻ってきた。早く帰りたい。いっそ帰りたくない。矛盾する気持ちがないまぜになって、ヘルトゥの心が悲鳴を上げる。出がけに顔を曇らせていた妻を思い出し、ヘルトゥは小さくかぶりを振った。
あの日のエレナは、確かにおかしかった。まるでヘルトゥが妻以外の女性と体を重ねたことに気がついていたかのような反応。けれど、怒りも責めもしない彼女を前にして、ヘルトゥは立ちすくんでしまった。心が離れる瞬間を目の当たりにしてしまえば、自分のような愚か者にはできることなどなにひとつないのだと思い知った。
エレナは自分が思っているよりも、気持ちがすぐに顔に出る女性だ。うまく言葉が出ないと彼女は落ち込むけれど、嘘をつけないエレナの表情を見れば、彼女の言いたいことはなんだってわかる。だから、自分の隠し事には気づいていないのだと思い込みたかった。あるいは勘違いなのだと忘れていてほしかった。そんな可能性の少ない未来に賭けたいほど、ヘルトゥはエレナの反応に怯えていた。
帰宅した時、エレナはどんな顔をしているのだろうか。考えようとしてもエレナの姿は幻のようにたち消えて、ちっともまとまってはくれない。エレナに捧げるべき言葉を用意できないまま、ヘルトゥは家の扉を開けた。
「……ただいま」
その言葉に込められた愛おしさを、自分は妻に伝えることができていただろうか。きっと死ぬまで根無し草を続けると思っていたのに、まさか妻を得、異国にとどまることになるとは。故郷とは異なる位置で輝く星々も、もうすっかり彼の中で馴染んでしまった。それがあまりにも心地良くて、手放すことなど考えたくもなくて、ヘルトゥは目を閉じる。
りんりんと、星の降る音が聞こえた。
『おかえり』
空耳が聞こえたことに苦笑する。久しぶりに帰って来た自宅の灯りはすべて消え、しんと静まり返っていた。それだけではなく。
「家の空気がこもっている……?」
廊下の手すりには、少しだけ埃が積もっている。家の手入れを欠かさないエレナにしては珍しいことで、ヘルトゥは唇を引き結ぶ。違和感とともに胸騒ぎがして、階段を駆け上がる。夫婦の寝室を開け放てば、そこはいつもよりもがらんとしていた。ヘルトゥを時折蹴り飛ばす豪快な寝相で、気持ちよさそうに眠っているはずの妻の姿は、そこにはなかったのだ。
「エレナ、やはり君は……」
部屋の中を見渡せば、エレナのお気に入りの服が確かになくなっていた。どれも彼女が自分で選んだ、動きやすく汚れにくい機能性重視のもの。ヘルトゥが選んだ華やかなものは、すべて置いていかれている。つまり、友人とともに女子会をしているというわけではないらしい。エレナが彼女の友人たちと会う時には、それなりの格好をするのが常だった。
ヘルトゥがしばらく留守にしたからといって、エレナがひとりで遠い土地への買い出しに出かけることはない。そこまで遠い場所から取り寄せる必要があるならば、それこそいくらでも商家の友人たちに頼むことができるのだから。
よく見れば大事にしていた小物もなくなっていた。すっかり古びて、今は飾るばかりになっていた色褪せた組紐まで。そんなものを全部持って、まるで、この家から出て行く必要があったかのように。
「さよならも、言えなかったね」
嘘をつくこともできない素直なエレナは、何故あの日に限って、ただ静かに笑っていたんだろう。見えない想いは、きっと真珠のように頬を伝っていたはずなのに。足が震えてまともに立っていられずに、床に膝をついた。エレナの反応がいつもと違っていたことには気がついていた。エレナを引き止める言葉のひとつでも囁いていたら。こんな風にエレナが出て行ってしまうことはなかったのだろうか。
『いってらっしゃい』
取り繕うように笑っていたはずのエレナの表情が、ぐるぐる回って溶けていく。エレナの静かな声だけが耳から離れない。すべて気がついて、どうして何も言わなかったのか。言えなかったのか。言いたくなかったのか。エレナの気持ちが、考えが、ヘルトゥにはわからない。
涼やかな星の音は、いつの間にか消え失せていた。
どうしようもなく吐き気が込み上げてきて、ヘルトゥはうずくまる。ずっと見ないふりをしていた悪夢に、足首をつかまれた。もう立ち上がれない。
星は空の道しるべ。旅人はその星の位置で、どこへ向かうべきかを知る。ああ、それなのに。窓の外、満天の星空は消えて灰色に塗りつぶされた空だけが広がっていた。視界はすでに大粒の雨に覆われている。その雨がいつ降り止むのか、ヘルトゥにもわからない。砂漠のように枯れ果てるまで泣き続ければ、いっそ楽になれるのかもしれなかった。




