(4)苦色の告白
エレナは自宅からほど近い、大通りのとある店舗にやってきた。派手すぎず地味すぎず、絶妙なディスプレイに思わずエレナもショウウィンドウを覗き込んでしまう。心の内がどんより雨模様のエレナでさえ引き込まれてしまう仕事ぶりに、眩しさを感じるほどだ。
エレナの親友夫婦が経営する店は、なかなかどうして良い仕事をしている。以前は成金上がりと陰口を叩く人間も少なからずいたが、貴族階級の嫁――エレナの親友――を娶ってからは、それもめっきり減ったらしい。
虫も殺せぬような容姿を持ちながらも、貴族ならではのサロンをうまく利用し、流行を自分たちで作るほどのしたたかさをもつエレナの親友。彼女が人間関係を円滑に回すように心を砕いたからに他ならない。
それにくわえ、夫婦ともに買付から販売まで、自分達の手でこなす根っからの商売人気質。どんなに突然訪問しても、店が開いている時間帯なら夫婦のうちどちらかは店にいる。変わり者と言われるほどの誠実さが、エレナはいっとう好きだった。
「まあ、どうしましたの。こんな時間に」
唐突な訪問にも限らず、いつも通りにこやかに出迎えてくれたのはイザベル。彼女の夫は、ちょうど子どもたちと一緒に外に出掛けているらしい。なるほど、それならば話がやりやすくて助かると、早速エレナは、用件を切り出した。今だけは、幸せそうな家族の姿を目に入れたくはなかった。
「すまないがこれを預かって欲しい」
手渡したのは、はた目に見てもしっかりとした上等な木箱だ。中には数枚の書類としっかりとした厚みがある茶封筒。書類に目を通した上で、イザベルはエレナに問いかけた。
「これは?」
「見ての通り店舗を含んだ家と土地の権利書と、それから多少の現金だ。申し訳ないが、しばらくの間、預かって欲しい。さすがにヘルトゥがいつ帰ってくるかわからないのに、家の中に放置するわけにもいかなくてな。ヘルトゥが戻らないようなら、処分方法はイザベルに任せる」
信頼しているとはいえ、あまりにも人任せな発言だ。しかしイザベルはそれをとがめることなく、エレナに問いかける。
「エレナは長期でお店を留守にしますの? 何か理由がなければ、わざわざこんな大切なものをわたくしに預けることはないでしょう?」
「……ああ、実はあの家を出るつもりなんだ」
「旅行ではなく?」
イザベルは小首を傾げた。エレナに聞きたいのは、もっと本質的なことだ。それはもちろん、エレナにもわかっていたこと。エレナは仕方なく重い口を開いた。どうせこの件で、いろいろと彼女にお願いをしなければならないのだから。
「……そうだ。その……」
エレナは言葉を続けることができずに、ゆっくりとかぶりを振った。そのまま首にかかっていた鍵を外し、イザベルに渡した木箱の一番上に入れる。これで伝わるはずだった。この店の鍵が結婚指輪代わりだったことを、イザベルは知っていたから。
イザベルが目を大きく見開いた。気遣わしげに優しく手を握られる。それほどエレナが気落ちしているように見えたのか。あるいは彼女の夫からすでに話を聞いていたのかもしれない。聡いふたりだ。酒場でこぼしたエレナの愚痴から、たいていの想像はできたに違いないのだ。
「エレナがそう決めたというのなら、それはもう決定事項なのですわね。冗談でそんなことを言うわけありませんもの」
「どうして出ていくのか聞かないのか」
「エレナが話したいのなら聞きますわ」
だから、無理に話す必要はないと伝えられて、エレナはほっと肩の力を抜いた。どう伝えるべきか、エレナ自身もまだ決めあぐねていた。
「すまない。今は何も言いたくないんだ。きっと何を話したところで、相手の悪口になってしまうから。そんなみっともないところは見せたくない」
「あら、散々にこき下ろしてやれば良いのですわ。けれど、わかりました。愚痴を言いたくなったら、いつでも歓迎ですのよ」
明け透けな物言いは、きっとエレナを元気づけるため。その優しさが何よりも嬉しい。エレナは思わず、自嘲気味に呟いた。
「ヘルトゥが帰ってきて、必要ならばここを訪ねてくるだろう。なにせ、わたしはイザベルたち以外に親しい人間もいないのだから」
「友人は数を競うものではありませんわ」
イザベルにたしなめられて、エレナも微笑む。そのままもうひとつのお願いについても、口に出してみた。何から何まで、お願いしてばかりだ。それでもエレナはどんな手段を用いても、今日中に家を出ると決めていた。
「店で雇っていた者たちの働き口を探している。申し訳ないが、力添えをしてもらえないだろうか」
エレナはずっと気になっていたことをイザベルに打ち明けた。
あの店を欲しがっているひとに売ることができれば一番良いが、あいにくエレナにはそのツテも時間もなかった。
さすがに夫が留守の間に妻が家と土地を勝手に売ってしまったらまずい。それに彼らだって専門外の場所で働くよりも、あの店でそのまま働ける方が安心するはずだ。
「もちろん。そういったことにかけては、わたくしたちの方が詳しいですもの。お手伝いさせていただくわ」
気負うことなくイザベルが微笑み、ほっとエレナは息を吐いた。彼らの当面の生活費として、いくばくかの金も預けておく。この金もイザベルならば、適宜彼らに分け与えてくれるだろう。
「いろいろと、すまないな」
「エレナ、こう言う時は『ありがとう』ですわ」
同じようなやりとりを、かつてヘルトゥとしたことを思い出し、エレナの胸がまた微かに痛んだ。
エレナはイザベルたちの人脈に頼ることを好まない。それは今までの関係で十分よくわかっている。そんなコネを使うことをよしとしないエレナが頭を下げて願い出たことに、イザベルはエレナの本気を感じていた。思わず言うつもりのなかった言葉を、イザベルは投げかける。
「ねえ、エレナ、離婚したからと言って家や土地をあの方へ返す必要はありませんのよ。むしろお店と一緒に、慰謝料代わりにぶんどってやれば良いのではなくって? そうすれば、お店の子たちの心配もしなくてすみますもの」
そんなイザベルの口調が面白くて、エレナの心のふたが緩む。そのせいでつい、言わなくてもいいことまで口からあふれてしまった。
「店はこのままでは閉めるしかないんだ。味がね、わからなくなってしまった。ずっと口の中が苦くて気持ちが悪いんだ。何を食べても、飲んでもね。こんな状態じゃあ、パティスリーなぞできやしない」
「ああ、そんな、エレナ……」
イザベルが思わずといったように、顔を覆い隠した。どうしてイザベルが泣くんだ。そう笑おうとして、エレナは少しも口角が上がらないことに気がつく。だからエレナは、頭を下げる。
「本当にすまない」
壊れたオルゴールのように、エレナは同じ言葉をただ繰り返した。




