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(3)真珠色の涙

「いってくるよ」

「いってらっしゃい。気をつけて」


 初夏とは思えぬほど爽やかな風が吹き抜ける朝。エレナは、またしばらく家を空けるというヘルトゥを見送っていた。ここ最近の夫は(せわ)しない。朝早くに家を出たかと思えば、夜遅くまで出ずっぱりだ。けれどいつものことだから、エレナはことさら言い募ることもなく黙って見守るだけ。


 それはきっと夫にとって当然の妻の姿だ。夫が家にいる時も、いない時も、エレナはいつも自分が切り盛りしている洋菓子屋で慌ただしく働いている。寂しさを口にしている暇はない。


 自分のそういった、女性らしくない言葉遣いや働き方が嫌になってしまったのだろうか。軍で働いていた頃、エレナの頑張りを認めてくれたのは夫の方だったのに? 軍を辞めてパティシエを志した時も、応援してくれたのは夫だったのに?


 少しずつ小さくなるヘルトゥの後ろ姿を、しっかりと目に焼き付ける。見送りの挨拶は、いつも通りちゃんと言えただろうか。綺麗に笑えていただろうか。もともと笑顔は苦手だったけれど、今はどんな風に笑えばいいのかさえ、よくわからない。道の角を曲がり、夫の姿が視界から消えた時、エレナの顔はすっかり表情をなくしていた。


 ヘルトゥの仕事のことを、エレナは実は今でも詳しく知らない。表向きは歌うたいとして暮らしている彼は、時々政治的な役目を負っているから。


 だから、エレナには彼がこれから出かけていく場所が、どんなところなのかもわからない。仕事として出かけること自体が、実は真っ赤な嘘であったとしても、エレナにはわからないのだ。そもそもが相手を信頼しているからこそ成り立っていた関係。


「もう駄目だな」


 エレナは、ぽつりと呟いた。もはや彼女は、夫を信じられない。夫の言葉や行動の裏を毎日考えるようになってしまっては、ともに暮らすことなど難しいだろう。事実、ここしばらくの間に、エレナの心は少しずつすり減っていた。本当に夫は帰ってくるのか。そんことを考えながら毎度見送るだなんて、愛するひとを戦地に送り出しているようなもの。もっとも行き先が浮気相手の元だと言うのなら、夫にとってそこは戦場(いくさば)どころか、楽園なのだろうけれど。


 軍属時代は、どんな状況であれ任務達成まで食らいついたものだが、自分はいつからこんな風に逃げ腰になったのだろうか。エレナはひっそりと肩をすくめた。それをわかっていてなお、エレナには夫と向かい合うことなどできそうになかったから。


「甘い菓子を作っている間に、すっかり腑抜けたものだな」


 最低限の荷物をまとめ、エレナは家の鍵をしめる。もともとエレナの荷物は少ない方だ。ヘルトゥもエレナも、あまり物には執着しない。家に残されたものでヘルトゥが処分に困るということもないだろう。自分と同じように意味のないものたちだ、全部捨ててくれたってかまわない。


 店で働いている者には、しばらく店を休むつもりだと伝えてある。まさか彼らもこのまま店が閉まってしまうとは思ってもいないだろうけれど。自分の都合で店を終わらせてしまうのだから、次の働き口は何とか見つけてやりたいところだ。今から訪ねる親友の口利きで、何とかならないものだろうか。


『お菓子を作るときに指輪は邪魔になるだろうから、代わりにこれをあげよう』


 そうヘルトゥに言われて、結婚指輪の代わりにもらった店の鍵。日頃は鎖に通して首からかけていたそれを外してみる。鍵を手にすれば、蘇るのはともに過ごした夜の熱。力強いてのひら。柔らかい髪。吸いこまれる緑の瞳。広い背に残る赤い爪痕。空に浮かんだ三日月にも似た心変わりの印。弄んだチェーンが指先に食い込んだ。こんなに細い鎖なのに、どうしてだか千切れてくれない。


 唇を噛みしめ、地面に視線を落とす。やはり、夫に自分の口から別れを告げるのは無理だとエレナは思った。嫉妬に苦しみ夫へ恨みがましく言い募る自分と、困りきって微笑む夫。絵面がわかりきっているのなら、このまま勝手に出て行く方がいい。


 勝負に白黒つけないまま逃げるのは卑怯に違いない。それは、エレナの狡さであり、弱さ。けれど、最初から負け戦になるのがわかっているのだから、それも仕方がないはずなのだ。引き止められないことをわかっていて、喧嘩をふっかけるほど、エレナは強くはない。


 空っぽの部屋を見つけた時の、夫の気持ちを考えてみた。まさかと疑問を持つだろうか。やはりと合点がいくだろうか。どれだけ頑張ってみても、夫がどんな顔をするのかさえ、エレナには想像することができなかった。いっそ、ざっくりと傷つけばいいのに。


 ふっと、小さく息がもれる。馬鹿馬鹿しい。代わりの女性くらい、夫にはいくらでもいる。ひとり寂しい夜を過ごすことなんてないに違いない。


 夫を寝取られたみすぼらしい年増。夫が新しい女性をこの街に連れてきたならば、そう自分は笑われるのだろうか。たとえそうであっても、別に構いはしない。海底で眠る真珠のごとく、真実は自身の胸の奥に。嘘偽りにまみれて暮らすよりも、きっと幸せのはず。


『人生に疲れたら、好きなことだけを見つめてみればいい。自ずと大切なことが見えてくる』


 夫がくれた大切な言葉は、今でもエレナの心に残っている。そんな甘く優しい言葉をくれた相手は、今頃他の女の隣にいるのかもしれないけれど。それでもあの出会いは、エレナにとってかけがえのないものだった。


「愛してたんだ」


 一日の始まりを告げる、夜明けの空が無性に見たかった。もうすっかり明るくなってしまった空には、薄紫色の切れ端さえ見えない。憎む前に。恨む前に。静かに幕を降ろすこと、それだけがエレナにできる唯一の、夫への贈り物。罪深い夫に向かって誇れる自分の心。


「本当に、ずっと……」


 囁きは地面に落ち、小さく跳ねてどこかへ消えた。

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