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(2)緑の目の魔物

 自宅近くの居心地の良い酒場。エレナはそこでぼんやりと食事をしていた。


 夫の浮気は思った以上にエレナの心に重くのしかかっている。食欲など湧くはずもない。とはいえ、かつて軍属だった経験から、四の五の言わずに食事を詰めこむべき必要性も認識していた。料理を作る気力などかけらも出てこないが、無心に咀嚼することはできるはずだ。それが砂を噛むように味気ないものだとしても。


「ひどい顔をしてるね」

「ああ、わかっている」


 そんなエレナの覇気のない姿が気になったのだろう。店の女主人は、サービスとしてお酒を一杯出してくれた。名が通っているにもかかわらずこの店には置かれていないカクテル、グリーンアイズ(緑の瞳)。まるでエレナの夫のためにあるような、透き通った緑が美しいカクテルだ。


 氷をくるくると指でかき回して、行儀悪くしゃぶってみる。昨夜味わったものと同じ、ココナッツの香りが広がった。口の中がまたじわりと苦いもので満たされる。駄目だ、やはりこれは飲めそうにない。エレナは手持ち無沙汰を誤魔化すように、またゆっくりと氷を指でかき回した。


「相席は可能だろうか」


 不意に男に声をかけられて、エレナはまばたきをする。なるほど、周囲は混雑してきているらしい。ひとりで席を占領してしまっては申し訳ない。料理を残すのは信条に反するが、さっさと席を譲って帰るとするか。慌てて立ち上がろうとして気がついた。相手は親友の夫であり、エレナにとっても友人である。周囲に親友の姿はないから、彼だけで息抜きに来たらしい。それならば返事は決まっている。


「ああ、もちろんだ」

「それはありがたい」


 エレナは腰を下ろすと、もう少しだけ飲むことにした。せっかくのいい機会だ、男性陣の本音とやらを聞いてみるのもいいかもしれない。向かい合って座っている男にエールと肴を勧めながら、かねてからの問いを投げかけてみることにした。


「突然で申し訳ないが、妻の他に妾を持ちたいと思ったことはあるか?」

「っ! な、何をっ! 突然、急に?!」


 驚きすぎたのだろうか、友人が咳き込みながらグラスをひっくり返した。しっとりとした木のテーブルに貴重な酒が勢いよく吸い込まれていく。ああ、もったいない。エレナは戻すことのできないエールを嘆いた。覆水盆に返らず。こぼれたミルクは戻らない。まさにその通りだと妙に納得する。


「汚いぞ、もう少し落ち着いて飲んだらどうだ」

「な、ちょっ、そもそも誰のせいだと!」


 ナプキンを差し出せば、呆れたように反論される。エレナの口から唐突に男女関係の話題が出たことに驚いたのか、それとも彼にとっては痛くもない腹を探られたような気分なのか。些細なことだとエレナは意に介さず、さらに質問を続けた。


「豪商でやり手と名高い青年実業家殿だ、妾でいいからぜひ……。そんな誘いは多かったのだろう?」

「はあ、まったく。妻はひとりいれば十分だ。後継もちゃんと生まれたからな……いや、この言い方は語弊がある。彼女以外の女性などいらん。子どもが望めなかったなら、後継ぎは別に養子をとってもかまわなかった」


 気持ちがよいほどの言い切りっぷり。政略結婚だったはずのふたりだが、最近はおしどり夫婦として社交界でも評判なのだから当然の結果か。


 子ども、そうか、子どもか。ふむとうなずき、エレナは再び爆弾を放り投げる。思い出したくもない鮮やかな紅色が、脳裏をよぎった。


「では、妻に対して満足できなければ、よその女性と関係を持つのは、男なら普通だと思うか?」

「待て、待て。君は何を言っているんだ? 本当にどうかしている。エレナ、一体何があった?」


 端正とはいえ、どうにもこうにも悪人顔の豪商は、頭を抱えながらエレナに問いかけてくる。見た目によらず潔癖で、浮気などしたこともない彼の言葉に、エレナはまたわずかに胸が痛んだ。彼には見えない角度で、静かにため息をする。


「エレナ、こういうことは、男とか女とか関係ないだろう。性別でくくれる問題じゃない。浮気をする奴もいればしない奴もいる。独身でも娼館に行かない奴もいるし、逆もまたしかり。率直にいってひとそれぞれだ。エレナ、誰の相談に乗っているのかは知らないが、僕たち他人が口を挟む問題じゃあない」

「そうだな、その通りだ」


 エレナは同意した。そう、友人の指摘する通りなのだ。結婚前も女遊びをすることもなく、結婚してからは妻一筋の男もいれば、エレナの夫のように掛け布団代わりに女を抱いて寝てきたような男もいる。どちらが正しくて、どちらが間違っているとは一概には言えない。ただ、目の前の男の方が、今のエレナには誠実なように思えた。


 結局、浮気をするかどうかはそのひと次第。そして浮気の理由は、つまるところ本人にしかわからないものなのだろう。エレナが思っていた以上に、ヘルトゥだってエレナに不満を募らせていたのかもしれない。


「最後の質問だ」


 エレナは指を立てて、静かに問いかけた。


「突然、知人に抱いてくれと言われてすぐに抱けるものか? 例えば、わたしがここで頼んだとしたら」

「……酔っているのか。いい加減、冗談が過ぎるぞ」

「ふふ、悪かった。ちょっと聞いてみたい気分だったんだ。男と女は違う生き物だから」


 胸が締め付けられるように苦しい。当たり前にやっていたはずの呼吸の仕方を忘れてしまったような気がする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。それとも自分が覚えていないだけで、エレナは海の生き物だったのだろうか。場違いに陸なんかに上がったものだから、干からびて地面でのたうちまわるしかないのかもしれない。陸の王子に恋をした、哀れな人魚姫のように。


 まさか、姫なんて柄じゃない。景気づけに、飾るだけになっていたカクテルを一気に飲み干してみる。滴るような緑は、ただ口の中に苦しさだけを残して消えて行った。

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