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(18)七色の未来

 宿を引き払う日の朝、エレナは世話になった宿屋の女将に挨拶をしていた。エレナが迎えに来たヘルトゥの手を素直に取ることができたのも、すべて少年のおかげだからだ。


 彼がいなかったなら、エレナは自分の心と向き合うこともなく、こうやってふたりで一緒に帰ることもなかったに違いないのだ。彼は的確に相談に乗ってくれた。まるでエレナはヘルトゥとともにあるべきだと、エレナ自身が見ようともしなかった願望に最初から気がついていたかのように。


「息子さんには本当にお世話になって……」

「あらまあ、いやだわ。うちの子がお役に立つなんて。ほら、お前もそんなところにいないで挨拶なさい」


 女将が少年を引っ張ってくる。母親の勢いに負けた様子で、面白くなさそうにふてくされた少年。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 その姿を見て、エレナは目を見張る。女将の息子だという少年は、エレナとともに過ごしてくれた彼とはまったく異なっていた。この少年は、一体誰だ? 相手もまた、エレナとの面識はないらしい。うろんな眼差しでじっとエレナを見つめてくる。エレナはひとまず、礼を述べる。


「本当にありがとう。おかげさまで楽しく過ごすことができたよ。ちなみに……お子さんは、息子さんだけでしょうか?」

「いいえ、娘が三人おりましてね。今度孫が生まれるんですよ」

「それはそれは……。本当におめでとうございます」


 エレナは動揺を隠しながら、頭を下げた。では、この町をずっと案内してくれていた少年は誰だったのか。心細く震えていたエレナの心に寄り添っていてくれたのは? エレナは疑問を解決すべく、ヘルトゥに告げる。


「すまない、帰る前に教会によってもいいだろうか」

「もちろん」


 海辺の白い教会は、今日も静かにたたずんでいる。だからこそ誰かが入ってくればすぐにわかるのだろう。教会の神父がエレナに声をかけた。視線が緩やかに隣の夫に向かう。もともと穏やかな雰囲気の神父が、一層嬉しそうに微笑んでいた。


「会いたい方が見つかったようですね。これも女神さまのお導きなのでしょう」

「ありがたいことです。ところで……改めてお伺いしても良いでしょうか。あの時、神父さまが町に伝わる昔話を教えてくださったのはなぜなのでしょう?」

「そうですね。今だからこそ申し上げますが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、もしやの事態があるのではないかと思っておりました。伝承をお教えすれば、少なくとも生きる希望が湧いてくるのではないか。そう考えたことは事実です。御気分を悪くされましたか」

「……いいえ。そうでしたか。ひとりで長居していては確かに目立ったことでしょう。お心遣い痛み入ります」


 エレナは思い出す。

 子どもが立ち入るべきではない酒場で、誰も彼を注意しなかったことを。カトラリーの類がひとセットしか出てこなかったことを。

 市場で串焼きを買ったら、店主に目を丸くされたことを。

 教会で祈りを捧げていた時に、神父さまが痛ましそうにこちらを見つめていたことを。


 じんわりと、胸に温かさが広がってくる。ずっと、会いたいと思っていた。もしも流産することなく出産できていたなら、どんな子どもだったのだろうかと。ともに笑い、ともに泣き、たくさんの時間を過ごしてみたいと思っていた。彼もそれを望んでくれていたのだと、そう思ってもいいのだろうか。涙が出そうなのをこらえる。彼が見ているかもしれないから、今は笑って出ていきたい。


「もういいのかい?」

「……十分だ。一番お世話になったひとにはお礼を言えなかったけれど」

「どんなひと?」

「とってもチャーミングで素敵な男の子だった」

「……少し、妬けるね」


 珍しく顔をしかめているようにも見えるヘルトゥの顔。それを見てエレナは意地悪く笑った。いつかヘルトゥにも、彼のことを話してもいいかもしれない。けれどしばらくの間は、自分と彼だけの秘密だ。ヘルトゥのことをいつか心から許せたら教えてやろう。傷ついたエレナを癒してくれた、甘い甘い存在のことを。


 ふたりはそっと手を繋いで教会を後にした。ゆっくり歩みを進めれば、来た時とは逆に海風が背を押した。まるで、前へ進めと言うかのように。人生は思うようにはいかない。若いときも。年をとってからも。


 ヘルトゥに出会った時も自分は悩み傷ついていた。それから十年余りたった今もまた、別の悩みに結局苦しめられている。この年になれば、悩むことなどもはやないと思っていたけれど、それはきっと幻想なのだ。ひとは生きている限り、常に悩み、恐れ、失敗する。それでも自分達はもがきながら歩み続ける。悔いが残らぬように。光を求めるように。


 エレナの手首でブレスレットが揺れる。心に残った傷さえもゆっくりと自分のものにして生きて行くのだ。飲み込んでしまった異物と苦しみを、気が遠くなるような時間をかけて、穏やかに輝く真珠へと変えていく貝のごとく。


 夏空は抜けるように青く澄み渡っている。遠くに虹がかかっているのが見えた。









 オフィーリア国のとある街。そこにある名店を、いくつか紹介するとしよう。


 ひとつは、おしどり夫婦が店主を勤める商会。日用品から宝飾品まで、ここでしか取り扱っていない品物が店の中にところせましと飾られている。店に入ったら最後、両手をいっぱいにして店を後にすることになるだろう。


 もうひとつは歌と料理が自慢の酒場。女店主の粋な料理と、お抱えの歌うたいのステージは、時を忘れるほどに素晴らしい。女店主の気分が良ければ、彼女と歌うたいのデュエットを聞くことができるのだという。うっかり飲み過ぎて、家に帰り損ねることがないようにご注意あれ。


 最後のひとつは、こぢんまりとした洋菓子屋。甘さの中にどこかほろ苦さを持ち合わせたお菓子の類は、老若男女を問わず、人気が高い。子ども好きな店主がいれば、買い物に来た親子連れはさらに気持ちよく買い物をすることができるだろう。彼女は成人前とおぼしき子どもたちには、必ずおまけとしてポルボロンをプレゼントしてくれる。そのサービスを始めた理由は、今でも謎のままである。

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