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(17)鈍色の真実

 宿の二階にためらうことなくやってきたヘルトゥ。エレナはいたたまれない気持ちになりつつ、部屋の中に招き入れた。


「どうして、ここに?」

「エステバンが、教えてくれた。君がイザベルに出した絵葉書を持ってきてくれたんだ」


 ヘルトゥが差し出したのは、確かにエレナがイザベルに宛てた絵葉書。この辺りの海と白い教会、それから煉瓦造りの町並みが描かれている簡素なものだ。正直それだけでは場所を特定するには至らないはずだった。


 居場所が知られることを恐れたというよりも、相手側には必要ないと思っていたからこそ、住所さえ書かずに出している。手がかりになるのは、消印と絵葉書の風景だけ。似たような村や町は、この海の周りにいくつもある。特出して目立つ情報などない。それをひとつひとつ確かめてきたというのだろうか。


「ご苦労なことだ」


 嬉しいと思うより、戸惑いがさきに立った。ここで、涙の一粒でも流して感激するのが女というものなのだろうに、エレナはむしろ頭の芯がすっと冷えるような気がした。迎えにきてくれたと思って、手を離されるのが怖いからかもしれない。顔を合わせたくなくて、期待なんてしたくなくて、そっぽを向いた。


「誰かと一緒だったのかい?」


 だからだろうか。そのままになっていたティーセットとお皿にヘルトゥがめざとく気がついた。ねだられるままに作りすぎたポルボロンは、数個を残してすべて綺麗にたいらげられていた。あの細身の体にどれだけの菓子が入るのか、怖いものみたさで知りたい気もする。エレナは自然と口角をあげた。その顔をヘルトゥが無言のまま見つめているなんて気にも留めずに。


「ああ、こちらに来て仲良くなった……友達がいて」


 親子ごっこをしているなんて恥ずかしくて言えないが、まあ彼の存在はざっくりとまとめれば友達だろう、たぶん。エレナが間を置きつつ冗談めかして答えれば、ヘルトゥがエレナを引き寄せた。そのまま強く腕の中に閉じ込める。


「……エレナ、私は遅過ぎたのかな。もう君の隣は埋まってしまったのかな?」


 迷子のような震え声だった。帰るべき家を見失ったかのような。道しるべをなくしてしまったかのような。まるで、エレナのことをかけがえのない大事な相手だと言わんばかりの声色に、エレナは怒りを覚える。ヘルトゥから距離を取りたくて突き飛ばせば、ますます強く抱きしめられた。


「わたしのことなんて、どうでもいいんだろう?」

「そんなことはない!」


 強く否定しながら、ヘルトゥがエレナの首筋に顔をうずめた。弱々しささえ感じさせて、乞い願う。その仕草に、憐憫(れんびん)よりも優越感を感じる自分にエレナは驚く。いつの間に自分はこんなに性格が悪くなったのだろう。


「帰ってきてくれないか」

「お姫さまには振られたのか?」


 ヘルトゥが困ったように首を振った。何かを言いかけて無理やり口を閉じたような。あるいは喉に魚の骨が引っかかったままのような。なんともいえない、苦しそうな微笑み。


「私に必要なのは姫じゃない。光なんだ」

「まったく。ふざけた話だ」


 舌打ちをしながら呟けば、夫がゆっくりと目をつぶった。どうやって説明していいのか、ヘルトゥ自身にもわからないのだろう。説明されたところで、ヘルトゥの理論はエレナには理解できないのだろうけれど。


「問い詰めはしないんだね」

「正直、気にはなる。でもわたしは、理由を聞いたら許さなくてはいけなくなる。きっと許してしまう。だから、聞かない。」


 それに話をすれば、きっとヘルトゥは少し楽になってしまうから。だから聞いてなんかやらない。その罪悪感という重荷は、ずっとこの男が背負っていればいいと思う。


 自分を追いかけてきたということは、この男は別の女性を抱いた上で捨てたということだ。この男の優しさは結局、ひとの心を完膚なきまでに傷つける。それが致命傷になるほどの深手を負わせるのだと、なぜ気がつかないのだろう。周りのひとを傷つけまいとして、結局悪手を選んでしまう愚かなひと。それが、目の前の男だった。


「歌をね……歌えなくなってしまった」

「だから帰って来てほしいのか。歌を取り戻せるように?」

「いいや。光を得られるのなら、歌を捨てたっていいと思っているよ」

「随分言い慣れているな」


 突き放したエレナの言葉は思った以上にヘルトゥの心に突き刺さったらしい。初めて知る色に滲む緑を、エレナは仄暗い気持ちで見つめてみる。自分にすがりついてくる夫の存在は、怖いほどに心地いい。


「エレナ、愛している。どうか側で、私を照らしてくれ」


 エレナが今この瞬間にヘルトゥの手を振り解けば、この男はもう二度と迎えには来ないのだろうか。フライパンに追いかけ回されながら謝り続ける海の男たちほど、彼は鈍感にはできていない。なんでも簡単にこなせるように見えて、とても打たれ弱いように思う。傷つきたくなくてすべてを諦め、周囲から距離をとって生きていくのだろう。かつてエレナが出会った頃のヘルトゥのように。


「セレナータ、びっくりするほど酷いものだった」

「言い訳のしようもない」


 何事もないように歌って見せたけれど、夫はきっと死ぬほど恥ずかしかったはずだ。エレナが想像できるよりも強い矜持を、夫は自身の歌に持っているはずなのだ。その歌をまともに歌えないほどに傷ついたヘルトゥ。ぼろぼろの歌声を衆人にさらしてまで、エレナの許しを乞い願ったヘルトゥ。そのどちらもが信じられないほど甘美で愛おしい。


 エレナは嬉しいのだ。ここまで傷ついたヘルトゥを見るのが、エレナは嬉しくてたまらない。なんとも歪んだ感情に、エレナはぎゅっと唇を噛んだ。このままでは、唐突に笑い出してしまいそうだったから。


「家に帰ろうか」


 ヘルトゥは一瞬、信じられないというように目を見開いて。それから何も言わず、微笑んだ。


「自分が迎えにきたくせにそんな顔。こういう時はありがとうって言うのだろう?」


 エレナは努めて優しく言ってみせた。力を抜いて、ヘルトゥに自身の体をゆっくりと預ける。これ以上、どこにも逃げるつもりなどないのがわかるように。

 ヘルトゥが痛いくらいにエレナの手を握りしめてくる。もう二度と離さないと言わんばかりの仕草が無性におかしくて、エレナは少しだけ泣いた。

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