(16)新緑の小夜曲
穏やかな昼下がり。少年とおやつの時間を楽しんでいたエレナの元に、とんでもなく下手くそな歌が流れてきた。思わずカップを取り落としてしまいそうな唐突さで。
ああ、これが彼が教えてくれたセレナータか。エレナは口に含んだままの紅茶を吹き出してしまわぬように、ゆっくりと飲み込んだ。
正直に言ってしまえば、救いようのない音痴だった。リズムも音程も、てんで調子外れ。声量だって安定しない。酔っ払いですらもう少しまともに歌うはず。この歌で恋人にプロポーズをするなんてさぞかし勇気がいることだろう。
それでも、伝統を守り、衆人の前でプロポーズをすることを選んだ男性の心意気が粋だと思った。自分のためにここまで頑張ってくれた恋人を見れば、きっと相手も悪い気はしないだろうから。歌い手のお目当の女性が窓を開ければ、周囲から歓声が聞こえるに違いない。
あるいは、仲直りのための歌なのかもしれない。あの少年も言っていたではないか。家から出て行ってしまった妻を迎えに行くために、歌を捧げるのだと。港町の荒くれ男たちが、許しを得るために妻に想いを伝えるだなんて。見た目以上に彼らはロマンチックなのかもしれない。あるいは迎えに来てくれることを期待して、家出してみせる女性たちこそが乙女なのだろうか。
少年はといえば、歌など聞こえていない風でポルボロンを楽しんでいる。さすがは育ち盛り。どれだけ食べても満腹にはならないらしい。耳を澄ませば、ポルボロン、ポルボロンと未だ必死で唱えているのが聞こえる。普段は見せない子どもらしい仕草が微笑ましくて、エレナは思わず声を立てて笑ってしまった。
ひとさまのラブストーリーに耳をそばだてながら作るお菓子は、さぞかし甘いものに仕上がるだろう。店は手放したはずなのに、それでもやはりお菓子作りはやめられそうにない。次は何を作ろうか。エレナは手元にはもうないレシピの書かれたノートを、脳内で一枚一枚めくってみる。
「せっかくだから、窓を開けてみなよ」
「……覗き見する趣味はないよ」
子リスのようにポルポロンを口に詰め込む少年にせっつかれて、エレナは苦笑した。自分の気持ちだって持て余して逃げ出してきたのだ。他人の恋愛に口出ししても仕方がない。それに窓を閉めていても、男の歌声はこれだけ聞こえるのだ。告白が成功すれば、それもきちんと伝わるだろう。ここまで頑張ったからには、歌い手の男性にはなんとか報われてほしい。
「いいから、見てみなって。きっと、良いことがあるからさ」
「本当に。仕方のない子だな」
どこか馴染み深いウインクを飛ばした彼を見て、エレナは諦め気味に笑った。そうまでしてこの地域の伝統行事を見せたいのか。宿屋の女将に言われた通り、客人をもてなしてやりたいのだろうか。確かにセレナータも2フレーズ目に入っている。これより後になってしまっては、覗き見もやりにくくて仕方ないだろう。
ゆっくりと窓をあける。さて、歌声の持ち主はどんな人物なのだろうか。
まず目に入ったのは、夜明けを思わせる薄紫色。次に見えたのは、深紅の異国の衣。最後に飛び込んで来たのは、鮮やかな翠玉。いや、そんなまさか。彼が、ここにいるはずなどないのに。
「ヘルトゥ……どうして……」
エレナは立ち尽くす。一体何をしにこんな田舎町にやってきたのか。夫は若くて美しい新しいお姫さまを手に入れたはずなのだ。子どもひとり産んでやれなかった女の元に、何の用があるというのだろう。
それにそのひどい歌い方。夫は何よりも歌に愛されていたはずだ。旅人として国から国へ渡り歩いていたときには、歌うたいをして暮らしてきたのだからその実力は折り紙つき。それが一体全体どうして、こんな錆びついた歌になってしまったというのか。
「とりあえず、部屋に入れてやりなよ」
唖然とするエレナをよそに、やはり少年はつまらなそうにエレナに言った。
「みんな見てるし」
はたと気がついて周りを見渡せば、誰もがエレナの反応を期待して見守っている。どうやら宿屋でひとりで過ごしていたエレナのことを、みんな知っていたらしい。そうして、納得したのだろう。彼女が家出をした妻であり、夫が頭を下げに来るのを待っていたのだろうと。そんなわけないのに。ヘルトゥのことを待ってなんていなかったのに。
「本当に? 本当に待っていなかったの?」
待っていなかったのだろうか。自分はかけらも、ヘルトゥが追いかけて来ることを望んではいなかっただろうか。エレナはそっとかぶりを振った。捨てられることが嫌で、自分からヘルトゥとの縁を切ったはずだった。追いかけてきてくれたと思っていいのだろうか。結局のところヘルトゥは、別れ話をしに来ただけなのではないだろうか。きりきりと胃が痛む。少年が、小さく頷いた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「……部屋に上がってくれ」
エレナの答えにわっと歓声がわく。石畳の上でひざまずいていたヘルトゥはゆっくりと立ち上がり、周囲に向かって優雅にお辞儀をしていた。断られるだなんて、思ってもいなかったのかもしれない。結局エレナひとりが驚き、焦ったというわけか。
「すまないが、ここにひとがくる。お茶会は終わりだ」
肩をすくめながらエレナが振り返ったとき、少年の姿はもう部屋のどこにも見えなかった。




