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(15)薄紅色の戸惑い

「ねえ、母さん。お腹空いた。ポルボロンを作ってよ」

「作ってやりたいのはやまやまだがな、あいにく作ってやる場所がない」


 ベッドに寝っ転がり、足をばたつかせながら少年がねだる。親子ごっこどころか、恐るべき遠慮のなさだ。もしかしたら自分は、ていのいいサボりの口実に使われているのかもしれない。そう思いつつ、エレナはこの少年との気安い関係が好きだった。


 こんな優しい少年に育ったということは、女将の母親としての教育の仕方が良かったのだろう。あっけらかんと笑うからりとした気性の女将は、同性であるエレナの目から見てもとても好ましかった。


「ここの台所を借りればいーじゃん」

「では、それを女将に伝えてきてくれ」

「やだよ。そんなことしたら捕まっちゃう。いーじゃん、大きい街で有名なお菓子屋さんをやってるんでしょ〜。え、まさか、嘘なの。バレないと思って、テキトーに自慢話を盛ったの? やだ、何それ。大人って汚いなあ」

「誰が嘘つきだ」


 頭を抱えながら、エレナは台所を借りに立ち上がった。この口から生まれたような少年には、逆立ちしたって勝てるわけがない。それは口下手であるとともに、無性にこの少年を甘やかしたくて仕方がなくなるせいだ。これが母性本能だというのだろうか。


 もしかしたらこの少年は、将来女たらしになってしまうのかもしれない。ヘルトゥと同じく当たり前のように女性に囲まれる少年を想像して、エレナは深々とため息をついた。ああいうのは、教育上よろしくない。もう少しまともに育ってほしい。個人的な思いを込めつつ、そっと祈りを捧げる。まあこれは、女将の采配に期待するしかない。


「あら、まあ、台所ですか。もちろんお貸ししますよ。雑誌にのるようなお店を開いている方が作ってくださるのなら、ぜひたくさん焼いてくださいな。周りに配ってくれるということであれば、材料もこちらで融通いたしましょう」


 おずおずと申し出たエレナのお願い事は、思ったよりも好意的に女将に受け取られてしまった。どうやらおおごとになりそうだと感づいたエレナは、慌てて女将を止めるべく食い下がる。


「いや、お菓子といっても特別なものではなく。あくまで作りたいのはポルボロンで……」

「まあ、ポルボロン。この時期に作るのは面倒ですからね。みんな喜びますよ、ええ本当に。ああ、出来上がりが楽しみですわ」


 やはりあの少年の口の達者さは、母親譲りらしい。エレナが口を挟む間も無く、なぜか大量のお菓子作りが決定していた。どこからこの様子を見ていたのか、気がつけば少年がにやにやと面白そうに眺めている。


「見てないで、手伝ってくれ」

「えー、めんどくさい」

「頼むから」


 さすがは宿屋だ。宿泊者向けの調理場らしいそこは広々としている。エレナは腕まくりをしながら、せっせと材料を計る。店も引き払うつもりでこの町にやってきたというのに、どうして自分はお菓子作りなどやっているのだろうか。内心首を傾げながらも、黙々とエレナは作業に励む。小麦粉をふるいにかけ、砂糖、バターと混ぜる。粉砂糖がふわりと舞って、夏だというのに雪が降っているようだった。


 口では文句を言いつつも、少年もなんだかんだで楽しそうに作業をしている。どうやらお菓子作りは初めてらしい。その手つきの良さに料理人かパティシエになることを勧めてみれば、なにが気に障ったのかしばらくそっぽを向かれてしまった。


 機嫌がなおったのは、ポルボロンが焼きあがった頃。出来立てのポルボロンにすかさず手を伸ばした少年を、エレナは軽く叱りつける。


「出来立ては脆くてくずれやすいんだ。手出し無用だぞ」

「ちぇっ」


 口をとがらせた顔を見て、エレナはいたずら心が湧く。長年の経験を生かしてポルボロンをそっとつまむと、少年の口に放り込んだ。


「あっつ。ちょっ、え、うわあ、なにこれ。口の中で溶けていくんだけど!」

「そう。だからこれを口の中に入れて、お菓子が溶けてなくなる前に『ポルボロン』と三回唱えたら願いが叶うと言われているんだ。せっかくだからやってみるといい」


 何か真剣に叶えたい願い事があるのか、生来の負けん気の強さか。面白いほどの速さで、少年が口内にポルボロンを放り込む。あんなに詰め込んで、喉に詰まらせなければ良いのだが。


 エレナは困ったものだと頭をかきつつ、楽しげに紅茶の準備を始めた。せっかくだから、自分たちはこのまま部屋に戻ってティータイムとしゃれこもうではないか。


「母さん、やっぱりお菓子作りが好きなんだね。やめることないじゃん、店。続けなよ。ようやく叶えた夢だったんでしょ」

「……そうだな」


 店を続けるということは、ここを出て住み慣れたあの街へ戻るということだ。それはこの口は悪いが気心の知れた少年との別れを意味する。それがなんだか寂しくて、ついポルボロンをつまんで口の中に入れてみた。


 ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン。

 やっぱり今でも、口の中からお菓子が消えて無くなる前に願いごとを唱えることはできないけれど。この優しい時間がもう少しだけ続くことをエレナは願った。

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