(1)薄紫色の嘘
夫の浮気に気がついたのは、一体どうしてなのだろう。きしむベッドの上で、いつも通り抱かれながらエレナの唇が静かに弧を描いた。彼――ヘルトゥ――のふるまいにおかしなところなんて、何ひとつなかったはずなのに。優しい、優しい、あまりに優しすぎる指先が憎たらしくて、少しだけ歯を立ててみる。
あえて理由を挙げるならば、妻の洞察力……だろうか。「妻」という言葉の響きがあまりにも軽くて、滑稽で、エレナは思わず笑い声を漏らした。夫の機微を理解できる妻ならば、そもそも寝取られるような間抜けにはならないだろうに。揺れる想いに気がつかず、心変わりをしたそのあとに気がついてどうなるというのか。それならばいっそ何も気がつかない間抜けのままでいた方が、よほど幸せというもの。
「おや、楽しそうだね」
「ああ。なんだか、おかしくてたまらなくて」
裸の夫が不思議そうな顔でじっと彼女を見つめて来る。逆に覗き返せば、どこか眩しそうにその目をすがめられた。別の女にうつつを抜かして帰ってきたのだ。さすがに少しはやましくもなるということか。いや開き直られることを思えば、これはこれでまともな反応なのかもしれない。
「エレ……っ!」
エレナは、何か言いかけたヘルトゥの唇を自身の唇でふさいでしまった。下手な言い訳は無用。今は喘ぎ声以外、何も耳に入れたくない。そのまま初めて出会った時から変わらない、緑碧の瞳を覗き込んでみた。翠玉はこんな時でさえ透き通っている。ゆっくりと唇を離せば、どこか不思議そうに尋ねられた。
「何か見えるのかい」
「銀の魚と彗星の欠片が」
静かな海の底に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えて、自然と体が傾いた。目尻から、余すところのないように、隅から隅まで夫の体をなぞってみる。背中をなぞる指先に触れたのは、エレナの知らない小さな爪痕。丹念に触れなければ気づくこともないかすかに盛り上がったまだ新しい傷。見いつけた。心の中で、鬼が小さく呟いた。
もともと夫は、エレナと結婚したこと自体が不思議なくらいの美貌の持ち主。彼と結婚してから十年余りの月日が経つが、年月と共に男というのは色気を増す生き物なのだと知った。重ねた口づけがぬるりと熱い。
「っ!」
「ああ、悪いな。気持ち良すぎて」
わざと伸ばしていた爪を背中に立ててみた。こちら側から見えない背中には、新しく赤い月が出来上がっただろうか。エレナが先ほど指先で見つけてしまった、か細い月の上に。久しくなかった背中の傷は、エレナにだってわかる浮気の証。舌の絡ませ方も、髪や頬を撫でる仕草も、体の繋げ方さえも疑い始めればまるで違う気がした。
子どもを産むことのなかった薄い腹を見る。ここから新しい命が生まれていたら、何かが違っただろうか。子どもが欲しいのだとは、ついぞ夫は言わなかったけれど。エレナは小さく息を吐いた。胸の中に降り積もった澱が、そっと溢れ出していく。
夫は確かに、今この瞬間は自分の隣にいる。けれど、明日も明後日も夫が必ず帰って来ると断言できるだろうか。夫の帰る場所が別人の隣になることはないと誰が言えるだろう。いつの間にかぼんやりとしていたらしい。夫がエレナの頭を撫でる。
「もうおやすみの時間かな?」
「……まさか」
恐れるくらいならばさっさと確かめてしまえ。親友たちは、そうエレナを叱り飛ばすだろうか。それともそんな男などこちらから願い下げだと、酒を引っ掛けつつ笑うだろうか。エレナにはそのどちらも選べそうにない。どうして、夫は別の女性と睦みあったのか。彼らに聞いてみたいとも思ったが、結局のところ、夫の心は夫にしか理解できない。
夫は優しくて、いい匂いのする、綺麗で、残酷な男だ。妻である自分など居ても居なくても、どうでも良いのだろう。エレナがさよならと言いえば、きっと夫は仕方がないねと形ばかり寂しそうに微笑み、あっさりと手放すはず。嫉妬し、怒り狂い、あるいは泣き崩れて、引き留められることなどないに違いない。
夫が抱いた名前も知らぬ女性のことを想像してみる。あまりに優しい手つきを考えれば、折れそうなほどに華奢な美少女が相手なのかもしれない。自分よりも若くて美しいであろう女性を想像して、エレナはため息をつきそうになるのを慌ててこらえた。
王子さまとお姫さまは幸せに暮らしました。物語の決まり文句が上滑りしていく。王子さまとお姫さまと、それからわたし。そこにエレナは含まれない。寂しくてたまらなくて、夫の体にすがりついた。
「どうやら、まだ足りないみたいだね」
「ああ、まだ足りない」
この世界には、何かが足りない。海に落ちたのか、山に埋められたのか。それすらもはっきりとしないのに、虚しさだけは日増しに大きくなっていく。重ねた身体からは、むしろ前よりも隙間が目立つ。足りない音、消えた色、歌うたいにも絵描きにもこの寂しさは埋められない。
十年、そう、十年だ。決して短いとは言えない時間。それはこの男にとって、あっさりと手放してしまえるほど軽いものだったのだろうか。隣にいるはずなのに、夫は見知らぬ他人のように見える。痛む心など、捨ててしまえたらいいのに。
夫の髪がふわりと揺れた。夜明けの空に似た薄紫色が、エレナの視界一面に広がる。今この瞬間も体は絡めあっているはずなのに、夫はあまりにも遠い。
「寒いのかい」
「……そうだな、凍えそうなくらいだ」
どうしようもないほど、寒くて体の震えが止まらない。互いの熱が交われば、一層心が冷えていく。それがあまりにも悲しくて、エレナは夫に向かってしどけなく微笑みかけてみせた。嘘は苦手だったはずなのに、涙は一粒もこぼれなかった。




