第二章
その夜、山崎はタクシーの後部座席に土井と新井を乗せて、そのスナックへと向かっていた。
「おい、お前ら。いい歳こいて後ろでキャーキャーうるせぇんだよ。なにをそんなに浮かれてんだか。まったく・・。けどそんなに良い女なのか?そのスナックのママさんってのは。」後ろを振り向
崎は注意した。
「そりゃもう山崎さん。拝みたくなる程ですよ。この新井なんか、涙まで流しちゃって。なぁ?」
「ええ、もう心がキュンッとして、優しさで包まれて・・。このまま時間が止まればいいなんて思っちゃって・・。」二人は不思議なくらい浮かれていた。
「ふーん。」何か新手の新興宗教みたいだなと山崎は思い、座り直して相手をやめた。
(少なくとも呑み屋で感動ってのは、俺はしたこたぁねぇわ・・。)と。
スナックの前で、三人はタクシーを降りた。市内の何処にでもありそうな、普通の店構えだった。ただ、店の名が変わっていた。
(「時の隙間」・・?)山崎は看板に目を落とし、佇んだ。
「山崎さん、早く早く。」とせき立てる土井を虚ろに見ながら、ゆっくりと山崎も店に入った。
店内には客は誰も居なかった。普通のスナックで、八人掛けのカウンターと六人掛けのボックスが二つあった。けれどもその店内は隅々まで綺麗に清掃されており、ママさんの人柄が偲ばれた。
そんな店内に入ると、土井と新井がそこのママさんと親しく話していた。
「あらー!土井坊、新坊、今日はありがとねー。待ってたんだよ!二人の好きなもの拵えてさぁ。」
「うん。ありがと。いつもは週末しか来られないけど、今夜は大金持ちのお付き合いでさ。」
(土井坊新坊だぁ?こりゃまた、アットホームなお店なようで・・。)ゴホンと一つ咳払いをして、山崎はママさんを見た。
「あ、こんちは。」山崎はそのママさんを見ながら、チョコンと頭を下げた。
「あら。あなたが噂に聞く、山崎さん、山崎監督さんね?お待ちして居りました。さぁ、どうぞどうぞ、お座りになって。」招かれるまま、三人はカウンターに腰を降ろした。手際良くママさんはお
を前に配ると、山崎の顔をじっと見つめた。そして唐突に、
「山崎さんじゃ遠くなっちゃうから、山ちゃんで良いかな?」そうニコッとして言った。それを聞いた山崎は思った。
(山崎、山村、山川ってのは、みんな山ちゃんだかんな・・。)
「ああ、良いすよ。」山崎は軽く頷いた。
「ありがと。じゃあ山ちゃんは何呑む?」
「生ビールで。」
「はいよ。」とママさんの動く足取りは軽い。
(だがどう控えめに見ても、六十は越えているだろう。)隣で何やら笑い合ってる土井と新井を見ながら山崎は思った。
(こいつらは、自分の母親くらいのママさんの所に、足繁く通ってんだわ。はぁ・・。マザコンというか・・、それともホームシックなのかなぁ・・。それも分からんでは無いか。此処に来て、早半
んなぁ・・。
とは言うものの、まぁ、昔は綺麗な女性だったんだろうけどさ。それに・・俺も人のこと言えねぇか。十歳違うくらいだろうしな・・。)ママさんを目で追いながら山崎は思った。
「はいよ。」とママさんは山崎の前にビールを置きながら、首を傾げてニコッと笑った。
「ねぇ、山ちゃん。今、私の事ババァだなって思ってたでしょ?」
「え?あ、いやいやいや。そんなこと思ってませんよ。」山崎はドキッとして、目を丸くした。
「それと、土井坊と新坊はマザコンじゃ無いかってね。」またしても、ニコッと笑う。
「いや・・そんな事は・・。」それ以上言葉が無かった。
「あんた、良い眼してんねぇ・・。」とママさんは山崎の眼を覗き込みながら言った。山崎は呆気に取られ、見つめ返すしか無かった。
「人の心の声を聞く・・。この店の中は、私の触手でいっぱいなんだよ・・。」ママさんは意味ありげにそう言うと、更に大きく眼を見開いて山崎を見つめた。
(洗脳の始まりか?)と山崎は思った。だがお構いなしにママさんは続ける。
「疑う心は、信じたい心の裏返し・・。あんたは此処で、その真実を聞くためにやって来たんでしょ?」
「え?ええ、まぁ・・何となく・・。」そんなママさんに、山崎も気圧されていた。
「それなら私に、一杯奢っておくれな。もうすぐ待ち人も来るだろうから。」山崎はそのママさんの顔では無く、瞳を見つめていた。そのとても澄んだ瞳に、なにやら不思議な力を感じた。
「ああ。これは気が付かなかった。どうぞ、いっくらでも。」
「ありがと。じゃ、遠慮無く。」ママさんはビールを注ぎながら山崎を見てニッコリと笑った。
(成る程・・。こりゃあ、やられるわ。)そう山崎は思い、土井と新井をチラと見た。彼らはお互いのスマホを見ながら、なにやら無邪気に笑い合っていた。
「じゃあ、初めましての乾杯ね。私のことは、真美ちゃんって呼んでね。」そう言われて前を向くと、真美はカウンターからビールジョッキを差し出した。
「ああ、そうだね。」そう言って山崎は真美と乾杯した。暫くの間、二人はじっとお互いの眼の中を覗き込むように見合っていた。
そんな時、ギィッと音が微かに鳴ってドアが開いた。
「あら、遅かったじゃ無いの。」入ってきた客にママは目を向けて声を掛けた。
「ごめんね。いろいろと手間の掛かる患者もいるもんだから。」入って来た女性は、荷物をカウンターの隅に置くと山崎を見つめ、そして真美に尋ねた。
「こちらが?」
「そう。噂の山崎さん。あ、この人は小早川悦子さんって言って、お待ちの病院の看護師長さん。それと私の同級生で親友なの。」真美からそう紹介されて、山崎はその女性に軽く会釈した。
「あ、山崎です。初めまして。今日はお忙しいところお呼び出ししたりして、すんません。」山崎はそう言って頭を下げた。
「いえいえ。どうせ暇な身ですから。それに男性から呼んでもらうなんて、何かドキドキしちゃって。でも想像してたより、かなり良い男だわねぇ。ねぇ、真美ちゃん。」そう言うと看護師長の悦子
崎に微笑みながら隣の席に腰を降ろした。
「あらあら。また悪い癖が頭をもたげちゃったの?でもこの人はそう言うタイプじゃ無いみたいだけどね。ねぇ?」真美は意味ありげに山崎に微笑んだ。
「あ、いや・・。まぁ・・。」山崎はとんでも無い巣窟に入っちゃったなと思った。
「真美ちゃん。私にも生ビールくれる?」悦子が注文すると、真美は山崎にチラと目をやった。
「悦ちゃん、今夜はこの山崎さんがご馳走して下さるんだってよ?」そう真美から言われた悦子は、驚いたように山崎に振り向いた。
「ええ?そんなに気を使うことも無いのに。」
「いや。来て頂くようにお願いしたのは、俺ですから。」山崎はそう言って微笑んだ。
「そうなの?でもなんか、悪いわよねぇ。でもまぁ、そう言う事なら遠慮無く頂いちゃおうかな。じゃあ、乾杯しましょう。この出会いに、ね。」
グラスを合わせると、その悦ちゃんはジョッキを一気に干し上げた。
「ああ、美味しい。喉渇いてたから尚更ねぇ。はい、お替わり。」と言いながらジョッキを真美に渡した。そして山崎にニコッと微笑んだ。
「ハハ・・。良い飲みっぷりですねぇ・・。」山崎はただ驚いていた。
「そう?でもやる時はやらなきゃね。オンとオフはしっかり分ける。これが私の信条なの。あなたもそうなんでしょう?バリバリ仕事やって、言うべき事はしっかり言って。あなたが警察で取り調べ
時もそうだったって聞いてるしね。」悦子にそう言われて、山崎は隣に座っている土井に振り向いた。その視線を受けた土井はすっと目を逸らすと、そうっと背を向けた。
「成る程・・。ネットワークねぇ・・。」山崎は誰にでも無くそう呟いた。
「でもね、それで良かったのよ。警察も馬鹿なんじゃ無いかと私も思ってる。あんな骨折、人の力で出来るって思ってんだから。」そう言うと悦子はビールを呑んだ。
「ああ、やっぱりそうなんですか。」そう言う悦子の言葉に、山崎は相づちを打った。
「そう。でも、何で締め上げたんでしょうね?あれ以上締め上げたら、あの足首は足から切断されてたでしょうね。」悦子は事も無げにそう言った。
「そんなに・・。」山崎は眉間に皺を寄せて悦子を見た。
「ええ。あなたもそれが聞きたくて、あの日勝田をお見舞いに来たんでしょ?
実はねぇ・・。私もその事を聞きたいと思ってて・・。
それは私だけじゃなくて、この辺りに住む人は誰だって知りたいと思ってんじゃ無いかしら。だってそうでしょ?そんな恐ろしい事の出来る犯人がまだ捕まらずにウロウロしてるとしたら、おちおち
居られない。子供にだって目を離せないじゃないの。
勝田も運び込まれた時、ひどく怯えていた。先生が原因を聞いたって、何にも話さない。ただ震えてるだけでね。だから私も、その原因が知りたいの。
ねぇ、彼は何て言ってたの?聞いたんでしょ?それを教えてくれたら、私もどんな情報だって教えてあげる。」
悦子は山崎の眼をじっと見つめた。山崎も、この悦子がただの酔狂で聞いているとは思えなかった。その眼には知性と真剣さが表れていた。そう言えば、前に立ちこっちを見つめている真美にしても
。そしてそれは、まるで飢えた女豹二匹に睨まれているような状況だなと山崎は感じた。
「ええ・・。確かに聞きましたよ・・。」山崎が静かに言うと、隣の土井と新井は話しを止めた。
「でもね・・。その話しをしたから、勝田は何者かに掠われた。そんな気もするんですよね。そんな怖い話しでも、聞きたいですか?」山崎がそう念を押すと、真美と悦子は真剣な眼差しで、小さく
。土井と新井は動きを止めたまま、じっと固まっていた。
「じゃあ、お話ししますよ。あの日、勝田の足を折った者・・勝田はそれは、魔物だったと言ってました。」それから山崎は、勝田に聞いた通りに話しを続けた。聞いている四人は、微動だにしなか
。
「で、警察にもこのまま話しをしたわけです。鼻で笑われましたがね。」それを聞いた真美はカウンターの向こうから身を乗り出していた。
「やっぱり・・あの白蛇山には、何かが棲んでる・・?」真美が呟いた。
「や、山崎さん!お・・俺達って、そんなとこで作業してるんすか?」突然土井が叫んだ。
「同じじゃ無いすか!あの、長瀬さんが言ってたのと!そんな事、一っ言も俺たちに言わないで!」
「まぁ、落ち着けよ。」そんな怯えたような土井に、山崎はジョッキを口に運んでから、優しく土井の肩に手を掛けた。
「俺はそんなもの見て無いし、お前だって見て無いんだろうが。そんなオカルト話しでみんなの不安を煽ったって、仕方無いだろ?それで仕事止める訳には行かないんだからさ。」
「だって今日だって、あの現場やれって・・。」土井の目は怯えて、泳いでいた。
「ああ、ありゃ冗談だよ。悪ぃ悪ぃ。ちょっと滅入ってたんで、からかって気分転換しようかなってふざけただけだよ。でもな、土井。こんな話し、不用意にばらまいちゃ駄目だぜ。川野部長もその
して、今日電話かけて来たんだから。」
「川野部長が?」土井はまだ興奮冷めやらぬ顔つきで尋ねた。
「ああ。何でも朝一番から、稲村から連絡が入ったんだと。なにやら嗅ぎ回っている地元紙の方は自分が圧力をかけたが、これ以上問題を起こさず、速やかに作業を進めるようにってね。それをはい
おとなしく聞いていた川野さんはその後、
「何言ってやがんだっ!」て、八つ当たりで俺に電話かけて来た。
川野部長が言うには、「奴はこの現代の多様化した情報網ってもんを知らんのだっ!何を偉そうに、圧力掛けただ。何処からだって水は漏れる。こんな面白い人の不幸を、マスコミが放っておく訳無
うが。その内大きな報道関係が嗅ぎ付けて、この企画は頓挫するかも知れんぞっ!」ってね。そんなこんなで川野部長も上からやいのやいの言われて、本当に胃が無くなっちまうかも知れないって弱
ってたけど、最後はこんな事には絶対に首を突っ込むなと、俺を心配してもくれていた。
まぁ、川野さんの頭ん中は今グチャグチャだ。長瀬の件と、更に北山と勝田の事件だ。そこへ持って来て、今度は稲村の鼻折れ事件だ。又?と言うのと、一体何が起こってんだ?とも思うわな。そり
ってそう思う。
それでこの店に連れて来てもらったわけだが、相手は不可思議な魔物かも知れないだろうが。何処で聞いてるかわかりゃしない。だから面白半分にばらまくなって、お前達には警告するわけさ。」土
井は山崎のその言葉に背筋を伸ばして、真剣に何度も頷いた。
「そうよねぇ・・。あの病院は、山から二キロ以上離れてるし、それこそどうやって嗅ぎ付けるもんだか・・。でも・・何だか私は違うような気がする・・。」カウンターの向こうで、真美が目を落
。
「違うって、何が?」山崎が不審な面持ちで尋ねた。
「その・・。何って言うか・・。うーん・・。私がね?もしその魔物だとしたら、姿を晒して、しかもそこまで痛めつけた相手を、わざわざ生かして置かないと思うんだよね。そこにはその・・何か
あるような気がするんだよね・・。ひょっとしたらそれは、勝田に話しをさせるために生かして置いたんじゃ無いの?で、用済みになったから、掠って行ったと・・。」
その真美の言葉に、悦子も同調した。
「うーん・・。成る程ねぇ。そうね、私もそうだと思う。その話しをさせて、恐怖を拡げて、工事を中止させる。その意図かも・・。そうだとしたら独りでその秘密を囲っている方が、もっと怖い事
わねぇ・・。」悦子のその言葉を聞いた途端、奥にいる新井がピクッとした。そして、
「おっ!お・・、じっ!じっ・・。」と大きく嗚咽したような声を目を見開いて発した。
「な、何だよ!新井!ビックリすんなぁ!」隣にいた土井は、椅子から飛び上がりそうに新井を振り向いた。
「お・・俺、じっ、実は見た・・。」そう切れ切れに言葉を発した新井は、何かに怯えたように震えていた。そんな新井を見た山崎は、身を乗り出して新井に叫んだ。
「何だぁ?おい新井!見たって何だよ!」そう山崎が声を荒げて聞くと、
「お、俺、北山の重機から・・、ヒュッって何かが飛び出すの・・、見たんだ・・。」と、弱々しく新井は答えた。
「北山の?おい新井、何で今まで言わなかったんだよ。」山崎は問いただした。
「だ・・だって・・。確かにはっきり見た訳じゃ無いし・・。それで、モヤモヤしてたら、山崎さんが任意同行で連れて行かれて・・。お・・俺もそんな事になったら嫌だし・・。」新井は今にも泣
そうだった。そんな新井に、山崎は落ち着いて話しかけた。
「ははぁ・・。それで今の小早川さんの言葉にビビッちゃったって訳か。」山崎は穏やかにそう言うと、ふっと息を吐いた。
「山崎さん、悦ちゃんって呼んで?」悦子はそんな山崎を見てそう言った。
「え?」山崎もいきなりそう言われて、悦子に振り向いた。
「これからは、秘密を共有する仲でしょ?」悦子はそう言うと、ニコッと微笑んだ。
「そうよねぇ。山崎さんは山ちゃんで良いって言うし、私は真美ちゃんだよね?」
「はぁ・・。まあ、それでも・・。」山崎は二人を見て、軽く頷いた。
「で?新坊。何を見たって?」真美はカウンターに肘を降ろして、ニッコリと微笑んで新井を見た。しかしその眼光の鋭い眼に見据えられた新井は、目を見開いて正直に語り始めた。
新井の話しはこうだった。
あの日、山崎と二人の悶着を見た後、新井は二人を見ながらも自分も持ち場へと向かった。その持ち場とは、北山の重機からは二十メートル程の場所だった。
そして暫く其処で自分の作業をしていたが、ふと二人の重機が動かない事に気が付いた。首を傾げて時折チラチラ見ていると、北山の重機からそれこそヒュッと白い物が浮き立ち、山の陰に消えたの
。あれ?とも思ったが、目の錯覚かとも思い目を擦っているところに、誰かに呼ばれて他の現場へと移動したと言う。
それでその後騒ぎが起こって、言い出すにも何やら言い出せず、それからは事件に巻き込まれたくは無いと胸にしまい込んだのだと言う事だった。
「そうか・・山にね・・。それなら足跡も付かん訳だわ・・。」山崎は新井の話を聞くと、思案顔で煙草に火を点けて考え込んでいた。
「ねぇ、山ちゃん?私の話を聞きに、此処に来たんじゃ無かった?」悦子が突然話を変えた。
「うん?あ、ああそうだ、そうだよ。今朝の事件の事だよ。ねぇ、悦ちゃん。」山崎はふと我に返り悦子に頷いた。
「うん。じゃ、もう一杯頂いても良い?」悦子が微笑んでそう言うと真美も、
「あ、じゃ私も頂こうかな?」と、やはり微笑みながら山崎に振り向いた。そして二人の女性はジョッキを捧げつつ、ニヤッと笑った。山崎はそんな二人を見て、思わず背筋を伸ばした。
(こいつらさっきっから、いったい何杯呑んでんだよ。まるでウワバミのようだな・・。ん?まさかこいつら、白蛇の化身だったりして・・。)そんな思いで山崎が二人を見ていると、
「あれ?どうしたの?山ちゃん。」悦子がふと山崎を妖しげに見つめた。
「え・・?あ・・いやいや・・。どうぞたんと召し上がって下さいな。」そう言って山崎は微笑んだ。
「今、一体どんだけ呑むんだって、思ったでしょ?」真美が又、心を読んだ。
「いやいやいや。そんなケチ臭いことを言う男じゃありませんよ俺は・・。まったく・・。」山崎は苦笑いを浮かべた。その時、
「あの・・。先輩・・。」と、か細い声が聞こえた。そう聞こえた隣を見ると、土井と新井が、空になったジョッキを捧げて山崎を見つめていた。それを見た山崎は、おもむろに深く頷いた。
「おう、お前らもたんと呑め!俺は今夜は、腹をくくった!」そう言って山崎は、わざと固く口を結んだ。
そしてみんなで軽く乾杯をした後、真美はしみじみと山崎を見つめた。
「ねぇ、山ちゃん。いろいろ聞いてるとさ。あの山には、その何かが棲んでるって前提で動いた方が良いんじゃ無いの?」
「うん?ああ・・まぁ・・。俄には信じ難いが、そうだねぇ・・。どれだけの力を持つ者なのかねぇ・・。」山崎もまた、しみじみと答えた。そしてふと我に返った。
「そうだ、今朝の話しだよ。それを聞かなきゃ・・。
そう言えば稲村邸はあの山から見れば、病院のもっと向こうにあるよな?」そう言う山崎に、真美が答えた。
「ああそう言えばそうね。病院からは五百メートルくらいかな。」
「ほう・・。で?今朝の事件って、どんな事件だったのかな?」そう言って、山崎は悦子に顔を向けた。そしてその真剣な眼差しに、悦子は深く頷いた。
その悦子の話とは、不思議だが、しかし単純な話しだった。
その朝、稲村は起きると側近の者を従えて、いつもの散歩に出た。毎朝自分の庭をグルッと一廻り散歩するのが、稲村のいつもの日課だった。何故側近が居るかと言うと、彼曰く、用心のためだと語
た。
「俺は人の欲望を奪い喰らって、これまでこんなに肥えてきた。だからそんな奴らのどんな怨念や憎悪でも、俺はまたその思いを栄養として、それを消化する。そんな気構えでなければ、何事も成せ
ないか。しかしそのためにはな、徹底した用心が不可欠だ。」というのが彼の口癖だった。
その彼がいつものように腕を後ろ手に組んで散歩していると、どこかに引っ掛かっていたのか、いきなり大きな枝が唸るように葉っぱの音を轟かせて稲村の顔目がけて振り下ろされた。そしてそれは
稲村の鼻を捉えて、彼は後ろへと鼻血の筋を引きながら倒れ込んだ。居合わせた側近達は何も出来ず、ただ狼狽えて救急車を呼んだ。
それで病院に担ぎ込まれた稲村は最初はただ呻いているだけだったが、正気を取り戻すとそれはもう大変な怒りようで、散々木に悪態をついた後、今度は庭師を呼べと怒鳴った。
呼び出された庭師二人は最初キョトンとしていたが、稲村から「お前達は俺の命を狙っている!そうだろうがっ!」と決めつけられて、随分と驚いた様だった。
そして大声で二人に解雇を告げ、更に側近には「直ぐにあの木を根元から断ち切ってしまえっ!」と怒鳴ると、後はもううな垂れて横になってしまった。との事だった。
「可哀想に今頃その木は、チョンと斬られてしまったんでしょうねぇ。」そう言って悦子は言葉を結んだ。
「へーえ。そんな事って、あんのかなぁ・・。」山崎は少なからず驚いた。
「あるわけ無いでしょうに。そんな・・木が人をタイミング良く襲うなんて・・。やっぱりその、魔物の仕業なのかしらね・・。」そんな真美の言葉に、
「遠隔操作ってやつで?」と山崎は真美に眉を寄せて聴いた。
「さぁ・・。それは・・。」と真美も山崎を見つめて首を傾げた。
「そうだな・・。そんなこと、分かるわけ無いよな。
で?稲村はどれくらい入院してんだろうか?それと、どこの部屋に入ってる?」と山崎は今度は悦子に顔を向けて聞いた。
「そうねぇ。一週間くらいかな?それと、病室は三百五号室。勝田が入ったのが三百一号室だったから、その並び。角部屋でね。でも今度は大丈夫。側近がドアの前で寝ずの門番するらしいから。」
「ふーん。けど、勝田の時もドアに鍵が掛かってたって言うじゃないか。」そんな山崎の問いかけに、悦子は答えた。
「うん。そうなんだけどね。でも稲村はそんな魔物なんて信じないって、前にも言ってた。いつか風邪かなんかで来た時、例の口癖を言っててね。
私が冗談めかして、そんな事を言ってると怨霊が出ますよって言うと、そんなものは居ないって。自分は怨みは分かるが、怨霊なんぞ信じないってね。もしそんなものが居たら、俺が死んだら蹴散ら
れるって笑い飛ばしてた。」
(どっかで聞いた台詞だな・・。)と山崎は思った。
「でもねぇ・・。怨霊ってねぇ・・。」悦子がボソッと呟いた。その呟きに、真美は悦子をじっと見つめた。
「ねぇ、悦ちゃん。あなた、何か隠してる?・・」そう言って、真美がじっと悦子を見つめていると、悦子は椅子に座り直し、ジョッキを傾けた。
「ふぅ・・。やっぱりこんな話しになると、真美には見透かされちゃうか・・。ずっと言いつけを守って来たんだけどね・・。」そう言って、迷うように目を伏せた。
「話して良い事なら、話してしまえば良い。なんだか分からないけど、そんな暗い思いをいつまでも独りで抱え込んでると、いつかその心が病んでしまう。俺はこれまでの経験からそう思うよ。」悩
るような悦子を見て、山崎は心配そうに悦子にそう声を掛けた。
「そ、そうだよ・・。秘密は囲っちゃ駄目だって、さっきそう言った・・。」新井が端から覗き込んで言った。
「ふぅ・・そうよねぇ・・。じゃあ勇気を出して、聞いてもらおうかな。そうした方が良いような気がするし、天国に居る父も、もう許してくれると思うから・・。でもね、これはうんと古い話しな
。」そう前置きした悦子は、空になったジョッキを真美に渡しながらみんなを見回した。そして新たに満たされたジョッキに口を付けてから、悦子は語り出した。
「これはそう、もう三十年も前の話し。父が亡くなる少し前に、私がその父から聞いた話しなの。
父はその頃、もう癌で伏せっていてね。もう余命幾ばくも無いと自分でも分かってた。その頃私は看護師としてあの病院に勤務してて、私の父も、その頃あの病院の先生だったの。
「仕方無いさ・・。」と笑う父を、私は娘としても看病していた。
その日、夜勤だった私を深夜に呼び出した父は、誰も居ないのを確かめると、私に内緒声でこう言ったの。
「悦子・・これは、誰にも話してはならん・・。」と。それから、
「あのお山にも・・決して・・登ってはならん・・。分かったな・・。」と。父の息はもう苦しそうだった。私が、分かったから、もう安静にしてと枕元の灯りを消そうとすると、父は私の服の裾を
、今しか話す時は無いからと、苦しそうだけど真剣な眼差しで私に言ったの。」
その悦子の話しというのは、今の稲村の父、信吾朗の話しだった。
当時、悦子の父である巌はその信吾朗が亡くなるまで、ずっと稲村家の主治医を兼ねていた。お呼びがあれば、直ぐに駆け付ける、それこそお抱えの主治医だった。巌の勤めている瀬波病院にも、稲
財産がごっそり注ぎ込まれている。だから当然と言えば当然だった。
そんな信吾朗が、或日倒れて寝込んでしまった。直ぐに巌が駆け付けると、信吾朗はすでにげっそりとやつれていた。巌が早速診察しようとすると、信吾朗は巌の手を押さえて、
「原因は、分かっている・・。しかし今やっと、この辺りの開発に着手しようとした矢先で、とても無念だ・・。」とも言った。
巌は病人の戯言だろうと思い、せっせと診察を始めた。看たところ、特に何処にも異常は無く、単なる栄養失調だろうと診断を下した。家の者にもそう伝え、点滴の道具を運び入れた。しかしいくら
治療を行っても、信吾朗の容体は一向に良くならないばかりか、日々痩せ細っていくばかりだった。
「そしてやはり、今お前に話している私の様に、信吾朗は私に語ったのだ・・。」と、巌は重い息の中、擦れ声で悦子を引き寄せ言った。
信吾朗が亡くなったその日、巌が見守るその信吾朗は痩せ細って干涸らびて行く様にも見えた。信吾朗は巌の手を握りこれまでありがとうと礼を言った後、しかしこの無念は、誰かに伝え置くべきも
も弱々しく言った。
巌の隣には、まだ中学生の嫡男である稲村信一郎も居た。自分の無念を我が子へと伝える。そしてその信一郎の相談役と補助を、縁が無く口堅い巌に依頼したのだった。
そして信吾朗は、その父重吾と稲村家の祖先の話から始めた。
自分が成人して家長と成った時、初めて家に伝わる蔵書を紐解いた。
その蔵書を偏したのは三代前の信衛門という人で、或る者に殺されたと書かれていたのはその父の信佐と言う者だった。
信佐は当時、女衒を生業としていた。女衒とは、若い娘やら少女を遊女として売って銭を稼ぐ生業である。その当時、この辺りの者達の先祖もその女衒によって、合法的に、或いは強引に売られてい
も居るらしい。それは誰とは無しに根深い怨念話として、ここらではひっそりと語り継がれている。
その信佐が倅を連れて、おゆうと言う名の女の子を貰い受けに来た或る冬の日の事。いよいよ借金の肩代わりにそのおゆうを家の外に連れ出した時、すばしこいおゆうは、信佐の隙を見てそっと逃げ
。
信佐がそれに気が付いて探した時には、田の畦道をあの山目がけて走って行くおゆうの赤い着物がもう遠くに見えていた。しかし信佐は諦めずに執拗に追い掛けた。何故なら、それまで見た事も無い
び抜けて器量が良かったからだった。
「逃すかぁっ!」と目をひん剥いて、信佐は飛び出して行った。
しかしそれから二日後の昼、ヨロヨロと帰って来た信佐を村人が見つけ、信衛門に伝えた。もっともその頃は信衛門などと立派な名前では無く、信佐倅としか書かれていなかった。
その倅はおゆうの家に信佐を担ぎ入れようとしたが、村中から激しく拒まれた。仕方無くその倅は、村の鄙びた閻魔堂に信佐を運び入れ横にさせた。
真冬の寒い夜だった。虫の息の信佐は、それでも倅に語った。
「俺ぁ、あの山の蛇に殺される・・。何にも・・悪い事ぁしてねぇのにな・・。お前は・・俺の後を継ぐお前はっ!それを忘れるんじゃ無ぇっ!・・。」そう言い放った信佐は、突然倅の目の前でみ
枯れて、干した魚の様になって亡くなった。
「信衛門という人は、きっと気が優しくて、頭も良い人だったんでしょうねぇ。」悦子は一口ビールを飲むと、ふぅ・・と溜息を吐いた。そして又語り始めた。
「その父親の亡骸を丁寧に葬ると、信衛門は身を清め仏門に入り、何年か後、またその村に戻って来たらしいの。粛々と先代の悪業を詫び、また村人の行を助けたようで、最初は石を投げ付けていた
、段々心を開くようになって、この地に根付いたの。
父が信吾朗から委ねられた第一巻の蔵書の巻頭に、こんな言葉が記されていたのを、私は未だに覚えている。その言葉とはね。
『ゆめゆめ慈愛忘るべからず。己の弱き心象を己が掌に映し顧みて、すべからく昇華すべし。山の影は己の影なり。影おどる時は、其は己が心の揺らぎと知るべし。故に、ゆめゆめ影おどらすべから
。』と。でも、その蔵書の裏表紙には、こんな言葉が書き記されていたの。
『影おどり、炎揺らめく時、我が思いは、全て昇華す。』と、墨で強く殴り書きの様に書かれていたの。信吾朗の先代の重吾が書いたものなんじゃないかと私は思った。あまりにも字が違いすぎてい
。でもその蔵書は、信吾朗が亡くなると、父は稲村家に返したそうなの。」
そして悦子のその後の語りとは、こんな内容だった。
信吾朗はそれを読んだ時、何故だか体中の血がたぎるのを身に覚えた。
そして信吾朗は自分の父重吾も、やはりミイラの様になってこの世を去ったのだと明かした。
「父の重吾はあの山を密かに憎んでいた。その憎しみがどういうものなのかは分からないが、きっと自分と同じ様に、その血がたぎるのを覚えたからかも知れない。
それに、貧しいながらも慎ましく暮らしていた我が家ではあったが、それでもやはり女衒の末裔だと折に触れ差別を受けた。
それは信佐が追い掛けて行った、おゆうと言う少女が戻って来なかった事に起因している。その供養の為に祖先の信衛門は村に戻ったと記されてはいたが、何故またこんな因縁の纏わる土地なんぞに
のだろうか・・。そのまま何処かで行脚などしておればよかったものを・・。そしてそれが・・そもそもの新たな因縁の発端なのだ・・。」と、信吾朗は巌に愚痴をこぼした。そしてまた、祖先は祖
分は自分のはずだと、苦しそうにそう言っていた。
それからまた、信吾朗は巌に語り続けた。その話とは・・。
ある歳の大晦日。信吾朗の父の重吾は村の行事に参加せず、家で酒を呑んでいた。毎年大晦日は、村の男衆が山の祠に参る慣わしだった。信吾朗は子供心にもそれを知っていたから、何故父がそれに
いのか不思議だった。
そしてずっと酒を呑み続けていた重吾は、もう寝ようかという時分、俄に松明に火を点けた。そして妻が必死に止めようとしているにも関わらず、その妻を重吾は激しく突き飛ばし、これまで見た事
凄まじい形相で、
「俺ぁ、これからあの山を燃しに行く!それで、それで!全て終わりじゃあっ!」と叫ぶと、闇の中を走って行った。そんな重吾を、信吾朗とその母は、ただ見ているしか無かった。
「今思えば、多分父はその日、誰かから又悪口を叩かれたかしたのだろう。それで、父の忍耐や感情はついに溢れ出てしまったのかも知れない。」と信吾朗は話した。
そんな血相を変えて飛び出していった重吾ではあったが、翌日の朝、山の祠の前で倒れていた。それは祠へと初詣に参った人が知らせてくれた。一睡もしなかった信吾朗とその母は、急いで重吾を助
かった。
その重吾は山の祠の前で、死んだように横たわっていた。妻が揺り動かすと、重吾は気が付いた。が、その目はすでに生気を失っていて、どろんと濁っていた。
その傍で信吾朗は山を見上げた。山は少しも燃えてなどいなかった。いつも彼らを見下ろしていた山は、依然としてそのままだった。
そして村の衆はぶつくさ文句を言いながらも、重吾を家まで運び入れてくれた。しかし心配してくれる者など、誰も居なかった。
その布団の中から重吾は、倅の信吾朗の手を握ってこう言った。
「信吾朗・・強うなれ・・賢うなれ・・。」と。そして、
「我が血筋に伝わる呪いを断て・・。その為には・・あの山を消さねば成らぬ・・。」と。
「その方法とは!・・。」と、重吾が眼を見開き苦しそうに叫んだ時、重吾は醜く乾いたミイラへと瞬時に変わり果て、虚空を睨んで事切れた。その通常あるまじき最期を見た信吾朗とその母は、悲
げて後退った。しかし、重吾の手は信吾朗を離さなかった。
その感触は今でも覚えていると、信吾郎は巌に語った。
その後信吾朗は成人し、母から家に伝わる蔵書を手渡された。それを見た途端、先人達の記憶と思いが突然我が身に入ったように血が沸き立ち、身震いした。そしてその先人達の思いを遂げようと、
は決意した。
「そして周到に計画を進め、後もう少しという所で、その魔物に嗅ぎ付けられた。何処から漏れたのか、さっぱり分からんがな。やはりその魔物には及ばなかったと言う事なのだろうか・・。
だがなぁ・・先生・・。ただ自分は・・あの山を無きものにして、普通の平和な山村の暮らしがしたかっただけなのだ・・。怨みでは無い・・。ただ、心の平穏が欲しかった・・。」と、信吾朗は険
から涙を流し、暫し慟哭していた。
しかしその反面、その後彼は喘ぎながら薄ら笑いを浮かべてから、巌を厳しく見つめた。その眼は憤怒の光りを放ち、顔つきも信吾朗の顔では無くなっていた。
「ふん・・。だがな、奴等の手口はもう・・分かっている・・。それはな・・奴等は俺の尻に・・。うぐっ・・。」
そう呻いた瞬間、まるで風船が萎む様に、しかもなんの音も無く、信吾朗の体は細くなっていった。そして巌が脈を取る間も無く、信吾朗は彼の父と同じ様に、干涸らびた屍と成って果てた。その有
ていた信一郎は、悲鳴を上げるより早く飛び上がって、尻餅を付いていた。
巌は信吾朗の妻に事を告げると、直ぐに検死を行った。衣服を取り去り、丹念に調べた。しかし、外傷は見当たらなかった。ただ、信吾朗が死ぬ前に言った尻の穴からは微量の出血が見られた。巌は
遺体を運び、もっと綿密に調べたいと信吾朗の妻に言ったが、聞き入れられなかった。この家から、この様な亡骸は外には出せないと・・。
「この子の為にも、どうかお願いします。で無ければ又・・。」と、信吾朗の妻は泣いて懇願した。
「父は迷いもしたけど、そうすることにしたんだと言ってた。心不全と死亡診断書に書き入れ、亡骸はそのまま誰にも見せずに火葬に付したんだとね・・。」語り終えた悦子はビールを喉に流し込む
てて皆に言った。
「そうそれから、この事は誰にも話さないでね。この場限り。そうじゃ無いと、恐ろしい事があなた達に降り掛かるかも知れないから・・。」一人一人の顔を見て念を押した。
「そうだな・・。」と、煙草に火を点けながら山崎が呟いた。
「あの山に近づき過ぎたり、その秘密を暴こうとすると、ミイラに成っちまうらしいな。触らぬ神に祟りなしって事か・・。でもなぁ・・じゃあ俺らはどうすりゃ良いんだよ・・。」山崎はそう言う
落とした。
「山崎さん!どうするもこうするもありませんよ!そんなおっかない現場は放り出して、さっさと帰りましょうよ!命がある内に!」土井は目を見開いて山崎に訴えた。
「そうですよ!命あっての物種だって、いうじゃないですか!」新井も後ろからそう叫んだ。
山崎はそんな土井と新井を見やると、静かに語りかけた。
「土井、新井、お前らはいったい幾つに成るんだよ。そんな事出来る訳無いだろうが。それにお前らは、何で飯食ってるつもりなんだよ。」山崎はそう諭すように土井と新井に答えた。
「そんなこと言ったって・・。」そう山崎から言われた土井と新井は、まるで親から叱られている子供のように項垂れた
「会社とか世間ってのはな、目に見える現実と常識ってやつで動いてんだよ。そんな不思議話で、はいさよならって訳にも行かんだろうが。
まぁしかし、その裏の陰で起きてる事も、確かに現実なんだけどな・・。
だから取り敢えず、あの現場はあのまんまで放って置くしか無いわな。誰にやれとも言えねぇし、警察もまだたまには来るしな。
ふぅ、やれやれ。奴さんが退院するまで一週間か。その間に、何か考えなきゃだよなぁ・・。」そう言って山崎は、ふぅと息を吐いた。そして何気なく腕時計に目をやると、我に返った。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ帰らなきゃだよ。真美ちゃん、タクシー呼んでくれっかな。明日も仕事なんでね。そうゆっくりともしてられない。
それと、悦ちゃん。今日は話しを聞かせてくれてありがとう。まだ良くは解らないけど、何となく朧には見えてきたよ。それでどうするってのは、まだ分かんないんだけどね。」山崎がそう言うと、
頷いた。
「うん。要は近づかない事だと私は思うよ。それと、私の方こそありがとう。これまで隠し続けてきたこんな話しを、真剣に聞いてくれて・・。何だか、スッキリしちゃった。」悦子はそう言って山
笑んだ。
「そうかい?話し相手になら、いつでもなれるよ。またこの店で一緒に呑みたいやね。」そう話している所に、真美がお勘定のレシートを持って来た。
「はい、お勘定。」真美がレシートを山崎に差し出した。
「うん。え?こんなんじゃ・・。」あまりの安さに驚いて真美を見た。
「良いの。今夜はとってもいい夜だったから。」真美は優しく頷いていた。
「そう・・。そうかい?じゃあ、お言葉に甘えて。また週末には来るよ。そん時はたっぷり奢るからさ。」山崎達はそう言い残して帰路に着いた。
「しっかし、暇な店だったなぁ。端っから仕舞いまで、俺達だけだったよ。」タクシーの中で山崎は呟いた。
「まあ、平日ですからね。」と土井が答えた。
「ほう。じゃあ週末は約束したけど、入れんのかな?」
「いや・・。ちょっと増えてるだけだと・・。」
「まぁ、そうだろうな。田舎のスナックじゃ、そんなもんだよ。あの真美ちゃんもあの歳で良くやってると思うよ。今日はご馳走になっちまったしな。」山崎は申し訳なさそうに土井に言った。
「いっぱい呑んだ割には、僕はちっとも酔えませんでした。それに・・。今からあの住まいに帰るんだと思うと・・。」新井が俯き加減でボソッと呟いた。
「おう、新井。お前顔が真っ青だぜ?大丈夫かよ。
まぁ確かになぁ、お前が一番危なそうだよなぁ・・。ちっちゃくて、手頃なお摘みって感じでさ・・。」山崎はわざと深刻な顔でそう新井に呟いた。
「や・・やめて下さいよ、山崎さん。そんな言い方・・。」それを聞いた新井は、ますます顔を青くした。
「そんじゃあ、その土井と抱き合って寝ればよ。灰汁の強いソースが掛かってりゃ、魔物も手を出しずらいってなもんだよ。」そう戯けて山崎は新井に目を向けると、ニヤッと笑った。
「あー、もういい!そんな光景考えただけで気持ち悪くなってきた!」そう言われた新井は、顔をしかめて隣の土井に振り向いた。
しかしその夜、新井は土井の部屋に布団を運び込んだ。
稲村は不安な夜を過ごしていた。が、特に怯えていたわけでは無い。こんな不安は、彼にとっては日常茶飯事だった。父の死から後、その父の最後の姿と山の影が常に心の中に在り、毎日山を見上げ
、それを思い出していた。
何の苦も無い暮らしの中で、だが暗い青年時代を過ごした。
大学を卒業して家長と成った信一郎は、やはり母から家に伝わる蔵書を手渡された。冷たく冴えた眼でそれを一読すると、彼はそれをしまい込んで、二度と目にする事は無かった。
それからは父と同じ不動産業を営むようになり、躍起になって仕事に励んだ。
とにかく圧倒的な力が欲しかった。(力とは何か?力とは、金と地位だ!)そう強く思い、周囲があきれる程、彼は仕事に打ち込んだ。
しかし彼をそれ程までに突き動かしていたものは、それだけでは無かった。何故なら夢中になって仕事をしている時だけは、父の亡骸や山の幻影から解放されたからだ。
そして彼は金を稼ぎ、その金にものを言わせて町長にまで成った。そしてこの辺りで、彼に従わない者はいなくなった。ただ、あの山を除いて・・。
蓄えた財産が有るんだから、こんな田舎を出てもっと風光明媚な土地に引っ越せば良いと人から言われる事もあったが、彼は笑って、自分はこの土地が好きだからとはぐらかしていた。
(この土地が好き?とんでも無い。しかし、あの山が無い暮らしなんて、自分にはとても考えられない。何故なら心の中にもあの山が聳えているからだ。あれを自分の手で切り崩し消滅させない限り
は此処を離れられない。時に自分の理性は、そんなこだわりはただの古い因襲だと嗤いもするが、この血がそれを赦してはくれない。この体に脈を打つもの・・。それは、赤い血液だけでは無い・・
の思いは稲村の心にこびりついていた。
ある時、酒の席で大学の知人が、あの山の裾野には温泉脈があるらしいと信一郎に語った。その言葉に何か閃きを覚えた信一郎は、その知人を介して専門的な調査機関に調査を依頼した。結果、本当
脈が有る事が分かった。その報告を受けた瞬間、彼の計画は成った。そしてリゾート計画に参入するスポンサーを探し、資金を集めた。そしてようやく工事が始まった。
稲村はベッドから降りて、閉まっているカーテンと窓を開けた。深い闇を見つめて、自分に言い聞かせた。
(もうすぐだ・・。もうすぐ目の前から、心の中から、あの山が消える・・。何と言う安息、何と言う開放感なのだろう。振り返ればこの歳まで、私の人生はあの山と闘ってきただけのことだ。もう
、決着を付けても良い頃だ。走り続けて来たゴールは、やはり子供の頃から恐れ見続けてきた、あの山でしか無い。愚かな執着心だと嗤えば嗤え。人は皆、執着と欲望で生きているのだ。それが私の
、あの山だっただけだ。
そして私に全てを教えてきた、あの山を壊すのだ・・。)」
病室の窓の外、春の夜風が闇の中で桜の木を揺らした。その葉擦れの音はまた、稲村の心の音でもあった。
弥生は源司の家であの事があってから、幾度となく奇妙な夢でうなされていた。怖くはあるが、何となく物悲しい思いの残る夢だった。
夢の中、いつか何処かで見覚えがあるような庭で、赤い着物の小さな女の子がしゃがんでいる。手で顔を覆って、可愛らしい声で歌を歌っている。その歌を弥生は、いつかしら覚えてしまった。
(ぞうりーかーくしちゅーれんぼー
はーしのしーたのねーずみがー
ぞうりをくわえてちゅっちゅくちゅー
ちゅっちゅくまんじゅうだれがくたー
だーれもくやせんわしがくたー
おもてのかんばんしゃみせんのー
うらからあがってさんげんめー)そんなお遊戯の歌だった。
歌い終わるとその可愛らしい女の子は、すぐに立ち上がって、目をキラキラさせて裸足で何かを探し廻る。それから散々探し廻るのだが、目当てのものは見つからない。そして悲しそうにまたしゃが
。泣いているように見える。
けれども弥生の視線を感じると、女の子は手を顔から離し、こっちをじっと見つめる。そして、肩まで伸びた黒髪を揺らしながら、
「何処に隠してあるの?」と弥生の目の前まで近づいて来て、悲しそうに泣きながら聞く。弥生はしゃがんでその子に言う。
「ごめんね。おねえちゃんも知らないの・・。」そう答えると女の子は弥生を見つめ、寂しそうに背を向けて去って行く。
「あ・・。」と弥生が手を伸ばそうとすると、女の子は静かに振り返る。するとその眼は真っ赤に光っている。そしてその女の子は弥生を見つめ、また走って戻って来る。その驚きと怖さで、弥生は
ます。
「そんな夢なの・・。」ある日弥生はその夢のことを咲子に話した。
「どうして今まで言わなかったの?どうりであんたが最近元気無いと思った。目の下に隈まで作っちゃってるし・・。」心配そうに咲子は聞いた。
「うん・・。でも夢は夢だし。それに、私に何か言いたいことがあるのかなって考えちゃって・・。それに、みんなに心配掛けても・・。」そう言って弥生は弱々しく俯いた。
「何言ってんの。この問題はね、弥生が一人で抱え込めるような問題じゃ無いの。それに・・。この前弥生が乗り移られてから、私もその事をずっと考えてて・・。いつか山の神が、突然弥生を掠っ
たりはしないかと不安で・・。」咲子は思い詰めた顔で弥生に言った。
「お母さん!怖い事言わないで!」弥生は怖さから叫んだ。
「ごめんね・・。でも、母さん一人じゃ、何にも出来ない・・。やっぱり源爺に話そうよ。不思議な事だけど、もう起きちゃってるんだもの・・。」
あの日以来、咲子と弥生はそれぞれに不安を募らせていた。咲子といえば、働いている時は良いが、帰って来て夜二人で居ると、やはりあの時の事を思い出してしまう。弥生は弥生で、ずっと考え込
た。そんな話し合ってもどうしようも無い思いが、変な空気となって部屋の中に滞っていた。そしてそんな沈黙は、二人の恐怖を増大させていた。
そこで思い切って、弥生は夢のことを咲子に打ち明けた。二人の思いは同じだった。こんな状況でいると、二人ともおかしくなってしまう。二人で溜息を吐きながら、源司の家の方を見たのだった。
「今晩は・・。」玄関の前で咲子は、弱々しく呼びかけた。ふとその声に気づいた源司は、玄関へと向かい開き戸を開けた。
「おう、なんじゃ、咲子か。何じゃな?らしくもない、元気の無い顔をしとるのう。」玄関で咲子を出迎えた源司は、咲子の顔を見て心配顔で答えた。
「え?」咲子は驚いた顔で源司を見つめた。
「今晩は・・。」後から入ってきた弥生も、疲れた様な顔で挨拶をした。
「おお今度はやつれた美女のお出ましじゃな。」
「源爺・・。」いつになく真剣な面持ちで咲子は呼びかけた。
「まぁ、入って座れ。おい一樹、この二人に椀と箸を持ってきてやれ。」源司は一樹に声を掛けた。その様子を見ていた一樹は源司の声に頷くと、それを囲炉裏端に座った二人の前に置いた。
「源爺、私達食事は・・。」一樹が置いた箸とお椀を見つめてから、咲子は源司に遠慮がちに呟いた。
「食事は済ませたが、飯は食っとらんのじゃろうが。そんな顔では飯は食えんからのぅ。遠慮など無用じゃ。こんな味噌汁でも、食えば温まる。温まれば気も和む。話しはそれからじゃな。」源司は
二人を見つめた。
そして二人は進められるままに、囲炉裏に吊してある鍋から温かい味噌汁を頂いた。その味噌汁を飲むと、言われた様に体が温まった。そして体が温まると、不思議に悲しくも無いのに、咲子の目か
こぼれ落ちた。
「あれ?どうしたんだろ・・。」咲子は目を拭った。
「ふむ。やはり不安と緊張が続いておったようだの。人というものは強い緊張とか不安から解放されると、つい涙腺まで緩むようでな。二人の顔には、正にそれが書いてあったわ。」源司はそう言う
笑んで二人に目を向けた。
「源爺、あの・・。」咲子がなにか言いかけると、源司はそれを制した。
「まだ良い。それを飲み終えて、少し酒でも呑んで、それからゆるゆると話せ。そしてその後、ここでゆっくりと眠れば良い。ここ最近、良く寝てはおらんのじゃろうが。一樹、布団も用意してやれ
「はいよ。」一樹は快く返事を返した。そして戻ってきた一樹に、弥生はやつれた顔を向けた。
「一樹、今日は素直なんだね・・。」弥生は一樹を見ながら、いつもとは違ってしみじみと言った。一樹は動きを止めて弥生に目をやった。
「そりゃあそうさ。そんな事くらい、俺だって分かるよ。これからどうしたいかって事くらいまではね・・。」
「え?」弥生はその言葉に驚いた。まるで心の中を見透かれた思いがした。
「どうじゃな?咲子、弥生。一樹もああ言っておる。事が落ち着くまで、この家で一緒に住まんか。おなごが二人だけで住んでおっても、心細かろうが。」その源司の言葉に、咲子と弥生は顔を見合
。実はその事をお願いしに来たのだから。
「源爺・・。こちらこそ、お願いします・・。」咲子と弥生は弱々しく頭を下げた。
「では決まりじゃな。そんなに気を使うことも無かろう。知らぬ仲では無いしのぅ。とにかくは安心して、伸び伸びと暮らすことじゃ。」そう言って、源司はニッコリと微笑んだ。
「ああ・・、何だか肩の荷が下りたようだわ・・。」そう言う源司の言葉を聞いて、咲子は天井を見上げて、溜息混じりに言った。
「咲ちゃん、弥生、そうと決まれば風呂にでも入ってゆっくりしなよ。まだ暖かいし、薪をくべれば直ぐ熱くも出来るしさ。」一樹がそう明るく促すと弥生が、
「でも、着替えも持って来て無いし・・。」と困った顔で言った。
「そんじゃあ取りに行けば良い。一人で怖けりゃ一緒に行ってやるよ。何せ、お隣りだかんな。」一樹はそう朗らかに言って弥生に目をやった。弥生も一樹に振り向いて、
「うん・・。」と弱く頷いた。
一樹と弥生は玄関を出て、隣の咲子の家に歩いて行った。しかし月明かりの中、黒影山の山影が見える所で、ふいに弥生の足音が途絶えた。一樹は「え?」と後ろを振り返った。すると弥生は立ち止
いて、じっと一樹を見ていた。
「どうしたんだよ、弥生・・。」心配そうに一樹は弥生に近づいた。
「一樹・・。ありがとう・・。」弥生は一樹を見上げた。
「何だよ、急に・・。え?」突然弥生は、一樹に強く抱きついた。
「弥生・・。」一樹は驚きながらも、その肩を優しく抱いた。
「怖かった・・。怖かった・・。」一樹の胸の中で弥生は震えていた。
そんな弥生に、一樹はその髪を優しく撫でた。
「ああ、もう大丈夫だよ・・。俺が守ってやるから・・。」そう呟いた。
お互いの鼓動が、触れ合った体温の中で混ざり合い、暖かく揺れていた。そしてそのまま、二人は強く抱き合っていた、。
「さぁ、着替えを取りに行こ?・・」暫くして、一樹が優しく声を掛けた。
「うん・・。」そう頷きながら、弥生は一樹の手を離さずに付いて行った。
その夜は四人とも早々に寝床に付いた。疲れた頭で考えていても仕方が無いとの源司の言葉だった。けれども一人一樹だけは、弥生の髪の匂いを思い出し、なかなか寝付けなかった。心の何処かが、
疼いていた。けれどもそんな一樹も、いつしか深い夢の中へと溶けて行った。
その翌日の夕刻。仕事を終えた咲子と弥生は、新しい住まいで夕食を作っていた。昨日までの不安な生活は何処へやら。安心ってこう言うもんかなとか話し合いながら、楽しく笑い合っていた。そこ
が帰って来た。
「ただいま。」そう言いながら、一樹は弥生にチラッと目をやった。
「あ、一樹お帰り。ん?どしたの?何だか浮かない顔しちゃって。」咲子がそう言うと、
「え?あ・・いや、そんな事無いよ。」そう答えながら一樹は弥生に目を向けた。すると弥生は、じっと一樹を見つめていた。
「何か変だなぁ・・。」咲子が微笑みつつ一樹を覗き込んだ。その視線に、一樹は思わず身を引いた。
「な、何だよ・・。お・・おっと。風呂沸かさないとだよ。あれ?これって、咲ちゃんがやったの?」その風呂釜を見ると、其処にはすでに火が入っていた。その問いに、咲子は笑顔で答えた。
「ううん。それはね、山崎さんがやってくれたの。今裏で薪を割ってるわよ。」
「山崎さんが?何で?」一樹は首を傾げた。
「さぁ・・。何でもお話しがあるとかでねぇ・・。」そう言われた咲子もふとそう疑問を感じつつ、一樹を見ながら答えた。
「ふーん。」一樹は裏へ回ってみた。其処では山崎が汗をかいて薪を割っていた。
「山崎さん。」一樹は山崎に声をかけた。
「おお、一樹君か。お帰り。」山崎は汗をかいた顔で一樹に笑いかけた。
「どうしたんですか?」一樹は意外な光景に思わず聞いた。
「うん?ああ、ちょっとした情報があってね。それを伝えに来たんだけどさ。
しかしこの薪割りってのは、良いストレス発散になるなぁ。カコーン!と割れると、スカーッ!とするよ。今度からこの仕事は取っといてくれ。にっくき顔を薪の上に乗せて、一刀両断にしてくれる
。」
「ハハッ。そりゃ俺も分かります。俺もいつもそんな思いを込めて薪を割ってますからね。」けれども源司が居ないのに一樹は気づいて、山崎に尋ねた。
「ところで源爺は?」
「ああ、何でも野菜を採ってくるとか言ってたよ。今夜は豪勢な寄せ鍋だそうだ。」山崎はそう答えた。
そんな話しをしているところへ源司が帰って来た。
「おお一樹。お帰り。早速じゃが、わしは風呂に入る。手短にな。それから皆さっと湯に入って、それから飯を食いながら相談しよう。今日の話は、盛り沢山の様だでな。」源司は意味ありげにそう
。
囲炉裏に鍋が吊され、それを囲んでみんなが座った。鍋が煮えるまでの間、それぞれに酒が注がれ小さく乾杯をした。パチパチと囲炉裏が爆ぜる音の中、其処には細いけれどもピンと張り詰めた緊張
、何処からとは無しに流れていた。そんな雰囲気の中・・。
「さてでは、どちらの話しから聞こうかのう。」源司が微笑みつつ、咲子と山崎の顔を交互に見ながら言った。
「あ、では私から。私のは今の話しじゃ無くて、ずっと過去の話ですから。」山崎が口を開いた。
「うむ。ではお願いする。」源司が促した。
「はい。これは今の瀬波病院の看護師長をしている、小早川悦子さんという方から聞いた話です。一応口止めされてるんですが、このメンバーから外に漏れなきゃ大丈夫でしょう。源司さんの話とも
に関わる話しなんですよ。」
山崎は悦子から聞いた話を、丹念に漏れなく話して聞かせた。皆は時々驚きの声を上げたり、眉間に皺を寄せたりしたが、最後まで真剣に聞き入っていた。咲子と弥生はそんな因縁の話しに、身を寄
合っていた。
「うーむ・・。そんなに古くからの因縁であったのか・・。」聞き終えた源司は唸った。
「源爺が言ってたのと同じだ。それも代々・・。」一樹もまた唸り、考え深げに眉を寄せた。
すると咲子が、話し終えた山崎に目をやり、口を開いた。
「あの・・。その・・最初に出て来た、おゆうって子、赤い着物を着てたって・・。それってひょっとしたら・・。」そう言ってから、咲子は抱き合っている弥生に目をやった。
「母さんっ!やめてっ!」その咲子の視線に、弥生は激しく咲子の胸に突っ伏した。
「弥生、どうしたのだ、急に。」源司は心配そうに向かいに座る弥生に声を掛けた。
「弥生・・。大丈夫か?」と隣に居た一樹も弥生を見た。
「この子の・・。この子が見る夢の中に、その赤い着物を着た女の子が出て来るらしくって・・。それを相談したくって、昨日は来たの。」そう言って咲子は源司を見つめた。
「夢?夢って、どんな?」一樹は顔を突き出して尋ねた。そんな一樹に、源司は手を差し伸べて制した。
「まぁ待て、一樹。そう急かしても可哀想では無いか。鍋も煮えた。暖かいものを食べながら、落ち着いてゆっくりと、話せるものならば話せば良い。」源司はそう言って、鍋の蓋を開けた。大量の
共に、美味しそうな匂いがみんなを包んだ。
「ほう、こりゃあ旨そうだ。」山崎は鍋を見て微笑んでから弥生に声を掛けた。
「弥生ちゃんも暖かいもの食べれば、きっと気も落ち着くよ。」
「そうよね。ほら、弥生。山崎さんもああ言って下さってんだから、一緒に食べよ?」咲子も優しくそう弥生に促した。
「う、うん・・。」弥生は心細い顔をしていたけれども、そう言われて頷いた。
それからはみんなで四方山話などしながら鍋を突っついた。弥生も俯き加減ながら、少しづつ食べていた。
「源司さん、この野菜は旨いっすねぇ。甘さが違うわな。」山崎は眉を上げて源司に微笑んだ。
「そうかの?いや、そう言って貰えると嬉しい。わしながらに手塩に掛けて育てておるのでな。」そう褒められて、源司も嬉しそうに答えた。
「やっぱり栄養ですかね?」山崎がそう突っ込むと、
「うむ。やはり土作りかのぅ。良い土を作れば、良い野菜も採れる。かと言うて、栄養を山程くれても旨くはならん。適度に与えて、その野菜が自身で生きようとするぎりぎりの量を見極めねば、野
の旨さや甘さは出ては来んのじゃ。」と、源司は答えた。
「うーん。何事も適量ってことか。難しそうですねぇ。」山崎は源司の言葉に感心して頷いていた。
そんな会話を聞いていた一樹は、閃いたように笑って言った。
「ああ!だから俺は丈夫に育ったんだ!いっつもぎりっぎりだもんねぇ!」そんな一樹の言葉に、源司はつられて膝を打った。
「ワッハッハ!そうじゃのう!斯様に丈夫に育てるのも、なかなか難しいもんであったわ!ワッハッハ!」そういう源司の笑い声に、みんなで笑った。弥生もつられて、いつしか笑っていた。
「ハハッ、あー、良い事聞いた。今度うちの連中にも言ってやりますよ。まったく奴等ときたら、年中金が無ぇ無ぇって喚いてんだから。だからこれはお前らが丈夫に育つようにとの、親心だってね
う山崎が言うと、
「山崎さんはどうなんですか?」と、一樹が笑いながら突っ込んだ。
「俺かい?俺はもう良いんだよ。育ちきっちゃったかんな。とは言え、もっと栄養が欲しいのは、奴等と変わんねぇか。ハッハッハッ。」
そんな冗談話で笑い合っていると、
「あの・・。もう、大丈夫です。心配掛けてごめんなさい・・。」と、ほっとした様子で弥生が口を開いた。
「良いのだ、弥生。年若い女の子が、怖がるのは当たり前じゃ。無理をせんでも良いのじゃぞ?」源司は優しく声を掛けた。
「うん。ありがとう、源爺。でも、話さないと前に進めないと言うのか、進めなきゃいけない気がして・・。」弥生はそう言って源司を見つめた。
源司はその眼差しに、深く頷いた。
「そうか。では聞かせて貰おうか。その夢とはいったい、どんな夢なのじゃな?」
そう問う源司に、弥生はゆっくりと、夢の筋を追うように話した。子供が歌う歌には節まで付けて、咲子に話したよりも丁寧に夢を語った。それを皆真剣に聞いていた。
「うーん・・なるほど・・。それは確かに怖い夢だな。でもその中に出てくるその歌って、それって囃し歌なのかな?弥生ちゃんは知ってんのかい?」暫くして山崎が聞いた。
「ううん。全然。」弥生は首を振った。
「咲子さんは?」山崎は咲子にも尋ねた。
「いえ、私も知らないんですけどね・・。」
「わしは知っておる。」突然源司が皆を見回して言った。
「源爺は知ってるって?」一樹が驚いたように源司を振り返った。
「うむ。その歌はな、子供の遊びの、草履隠しの歌じゃ。わしらの頃にはそんな遊びもあったが、咲子の頃にはもう無かったのであろうな。」
「へぇ、草履隠し。どんな遊びなんだろ?」興味顔で一樹が聞いた。
「うむ。それは鬼となった子が、草履を脱いで皆に渡し、しゃがんで目を閉じてその歌を歌い、その間に他の者らがその子の草履を隠す。そして歌い終わるとその子は自分の草履を探し出すという遊
。そしてその草履が出て来るまで、皆でわいわい囃し立てる。惜しいとか、其処じゃ・・とか、言葉を濁しつつ近くに付いて廻る。遠くに離れてはいかん。そしてその子が自分の草履を見つけ、手に
、ゆっくりと足に履いているのを見ながら、履き終わった途端に皆は逃げる。そうするまでは逃げてはならんのだ。そして鬼となっておるその子は、最後は素早く草履を履いて、直ぐにみんなを追い
。そしてその子に体をはたかれた者が次の鬼となる。そんな遊びじゃったな。」
「ふーん。何だか、スリルを味わう様な遊びだよねぇ。」一樹も初めて聞くそんな遊びに驚いた。
「そうよなぁ、あの頃の遊びはどれもドキドキするような要素が入っておったやも知れんな。とにかく今の様な娯楽は、一つも無かったでな。刺激が欲しかったのであろうかの。他にもいろんな遊び
たがのう・・。」
「でも、その歌の文句って、とても不思議な文句ですよね?どんな意味なんでしょうか?」山崎が源司に聞いた。
「さぁのう・・。考えた事も無い。何処で何時誰が作った歌やら、それも分からんのぅ・・。」源司は腕組みをして答えた。
「草履隠しってのが、何か引っ掛かるよなぁ・・。草履を隠されて、泣いて・・。あ、そうだ!その、勝田が見たって言った女の子、裸足だったって!ねぇ、山崎さん!」一樹が閃いたように叫んだ
一樹の言葉に、山崎も目を見開いた。
「おお!そうだ!良く思い出したなぁ。そうだよ!ああ、これで繋がって来る。その弥生ちゃんの夢に出て来る女の子は、勝田が見た日本人形の様な女の子で、そして自分の草履を探してる。そして
の名前は、おゆうって名前なんだ!」山崎がそう興奮して言い終わった途端、ピキーンと大きな音で家鳴りがした。その途端みんな同様に驚き、肩を竦めて天井を見上げた。
「な・・何よ・・。一体・・今のって・・。」咲子が震えながら聞いた。弥生は又、咲子に突っ伏していた。
「偶然か・・?それとも、当たりってことか・・?」山崎が天井を見上げたまま言った。
「遊んでるわけじゃあ、無いよね・・。」一樹も同様に呟いた。
「聞いて御座るわけじゃ。真剣なのか遊びなのか・・。どっちにしろ、その草履を探さねば、弥生の夢は続くということかの・・。」と、源司も天井を見上げたまま呟いた。
「そんなの、嫌だっ!」咲子に突っ伏したまま弥生は叫んだ。
「うむ・・。しかし何かを伝えようとしておるのは分かる。その歌の文句がヒントになるのかどうか・・。」そんな弥生に気遣いながら源司は言った。
「もう一度聞いて、書き記してみましょう。何か分かるかも知れない。」山崎は突っ伏している弥生を見た。
「ほら、弥生。怖がってばかりじゃ、前に進めないって言ったろ?もう一度その歌を聞かせてくれよ。」そんな状況に、一樹は弥生の肩を揺すった。弥生は突っ伏していた顔を静かに上げると、小さ
た。
そして弥生が語った歌を、それをひらがなに直して綴り、皆で一つ一つの言葉を文章に直していった。
「この、ちゅーれんぼって何だろ?誰かが密会してたとか・・。」そう一樹が呟くと、
「何言ってんの、一樹。そんないやらしい風にしか読めないの?まったく。」咲子は一樹を睨んだ。そんな咲子に、一樹は目を上げた。
「じゃあ咲ちゃんは分かるのかよ?」
「そのちゅーは後から出て来る鼠に掛かってて、れんぼは、かくれんぼのれんぼじゃ無いの?」
「おお、そうか。成る程。咲ちゃん、冴えてんねぇ。」一樹が褒めると、咲子は得意げに微笑んだ。
「フフン。まぁね。」
「じゃあ今度は、この、くたーってやつだね。」一樹がそう言うと、今度は源司が答えた。
「それは食うたと言う意味では無いか?」
「ああなるほど。そうか。よし、これで一応文には成った。」一樹は出来た文句をスマホを見ながら漢字に直して、改めて皆で考えた。
草履隠し チューれんぼ
橋の下の鼠が 草履をくわえて
チュッチュクチュー
チュッチュク饅頭 誰が食うた
誰も食やせん わしが食うた
表の看板三味線の 裏から上がって
三軒目
「うーん・・。一応文には成ったがなぁ・・。」山崎は書かれた紙を見ながら、首を捻った。
「何だか分かるようで、分からないなぁ・・。これが本当にそのヒントなんだか・・。」一樹もやはり考えあぐねていた。
「まぁ、直ぐには分かる代物では無いらしいのう。それに今日はもう遅い。皆明日も仕事であろうから、そろそろ寝るとしよう。各々その言葉を写して、考えるとしようではないか。明後日の土曜日
集うて、話し合おう。」源司はそう提案した。
「うん、そうだね。このまま考えていたんじゃ、夜が明けちまいそうだよ。あ、山崎さんの布団も出しといたからね。」一樹が言うと、
「いつも済まないねぇ、一樹君。」と、山崎は申し訳なさそうに答えた。
「そんな事は何でも無いですけど、いっそのこと山崎さんも此処に住めば良いのに。」そんな一樹の提案に、
「いやぁ、そう言ってくれるのはとっても有り難いんだけど、うちの宿舎にも小鳥みたいに怯えてる野郎達が居てね。面倒くさいけど、そうそう手放しにもしてられないんだよ。咲子さんや弥生ちゃ
いな可愛い小鳥だったら、俺も本気で守ってやるんだけどなぁ。」と、咲子に目をやった。
「まぁ。山崎さんたら・・。」咲子は嬉しそうに照れていた。
翌日の昼休み。昼食を終えた山崎は机に足を投げ出して、昨夜の文字と闘っていた。そして唸りながら煙草を吹かしている山崎を、前にいる土井はニヤニヤして見ていた。
「良いっすねぇ、山崎さん。それって、所謂ラブレターってやつっすか?古風な渋い男にゃ、そりゃあお似合いですよ?」そうニヤツキながら声を掛けた。
「え?あ・・な、何でも無ぇよ。」そう指摘された山崎は、急いで便箋を折り畳んでポケットに仕舞った。
「良いっすよ、隠さなくったって。季節は春。恋の季節ですもんねぇ。」そう言うと、土井はなおニヤニヤしていた。山崎はそんな土井を見て開き直った。
「ほう、土井君。君にも少しは情緒ってやつがあるらしいな。ふん、そうだよ。こりゃあ熱い熱いラブレターでね。俺も困ってんだよ。何せ相手は色白の、目がパッチリで黒髪がなびく、そりゃあ綺
性だからなぁ。放っとくと殺されそうでね。参っちまうよ。」眉を上げてそう答えた。
「へーえ。って、相づち打つのも面倒臭くなっちゃった。何です?その書類って?」土井は疑わしげに山崎を見つめた。
「だからラブレターだって。焼き餅焼くんじゃ無いよ。俺は君らみたいに若い女の子見て、悶々としてる性分じゃ無いんでね。公私ともに作業迅速、正確さをモットーにしてるんだよ。ちっとはお前
習えってなもんだ。」山崎はそんな土井に、吐き捨てるように答えた。
「ふーん。それなら山崎さんも俺達を見習って、ちっとは文明を取り入れたら如何ですかね。今時便箋のラブレターなんて。スマホでメールやり取りすんのは、今や呼吸するより自然ですよ?」と土
り返した。
「おう、メールと来やがったか。でもな、俺はお前らみたいに、あの妖艶なマザー達と文通するのはごめんだね。電話から顔が飛び出て来そうだわ。」
そんな山崎の言葉に、土井は大袈裟に驚いたように叫んだ。
「ああ!こりゃ言っちゃったわ!明日の飲み会で暴露しちゃおうかな?」
「うん?明日の飲み会?」山崎はそう言われてはたと首を傾げた。
そんな山崎の様子に、土井は責め立てるように声を上げた。
「ええ?やだなぁ、忘れちゃったんすか?今度の週末にはたんと奢るからって、あの二人とも約束したじゃ無いすか。まったくぅ。」
「あー!そうだったなぁ!ああ、そうだった。いや、忘れてたよ。今思い出した。悪い悪い。けどそりゃキャンセルだな。ドタキャンで悪いけどな・・。」と、山崎は申し訳なさそうに苦笑いした。
「ええーっ!勘弁して下さいよ。思いっきり奢るからって、メールしちゃったんだから。それにみんなだって楽しみにしてたのに・・。」土井は心底がっかりした様子だった。
「悪い悪い。謝るよ。その分お前に金渡すからさ。お二人にも謝っといてくれ。とっても大事な用事が入ったからってさ。・・うん?お前今、変な事言ったねぇ。みんなだってって。みんなってなぁ
よ。お前と新井の二人だけだろうが。」
「いや・・。それが・・その・・。」
「正直に言え。」山崎は土井を睨んだ。
「その・・。山村と山川にも声掛けちゃって・・。」
「山村と山川だぁ?」その土井の返答に山崎は咄嗟に、「山ちゃん一号さん?」と呼ばれる自分を思い描いた。
「ああ・・。行かなくて正解だ・・。良いよ。その分も払ってやるよ。けどあいつらに、ばらして無いんだろうなあ!」そう土井に怒鳴って念を押した。
「あ・・。それは、口が裂けても・・。命は惜しいですから・・。」土井は気弱そうに頭を下げた。
「それなら良い。たとえ酔っ払ってもな、それだけは守れ。ほれ。」山崎は財布から五万円を土井に手渡した。
「え?こんなに?」土井は貰った金額に目を丸くした。
「ああ。それだけあれば、みんなしてたらふく呑めるだろうが。」
「ええ。お店借り切っちゃう程。でも、そんなに大事な用事なんすか・?」土井は真面目な顔つきで聞いた。
「ああ、とっても、な。」と、山崎もそう真剣に答えた。
「はい・・分かりました。有り難う御座います。あの・・お釣りはちゃんと・。」
「いいよ、そんなケチ臭い話しは。」
土井はそう言う山崎に、チョコンと小さく頷いた。
「あ、はい。分かりました。ありがとうございます・・。。でもなぁ・・なにか新しい情報が入るかもなのになぁ・・。」そうボソボソと呟きながら、土井は離れようとした。
「あー、ちょっと待て、土井。」そんな土井に、山崎は少し慌てて声を掛け、そして手招きした。
「え、まだ何か?」土井が聞くと、意外な答えが山崎から返ってきた。
「その、メールってやつを俺に教えろ。あのマザー二人とのだ。」
「え?だってさっき・・。」
「良いから教えろ!使い方に付いてもだ!」そう山崎は、命令するように言った。
「ええーっ!本当にメールのやり方も知らないんすか?」土井はまさかと言うような表情で驚いた。
そんな土井に、山崎は苦笑いしながら眉を上げ、そして静かに答えた。
「ああ。悪いか?俺のガラ携はトランシーバーだった。今までは、な。」
稲村はその頃、ひどく頭を痛めていた。怪我からでは無く、情報という怪物に依って・・。
朝から家の電話は鳴りっぱなしで、どうやら大手の情報機関がこの事件を嗅ぎ付けたらしい。作業員の事故やら、その後の行方不明事件の事やら、果ては税金の事、自分のルーツの事。真実はどうな
言う、訳の分からない質問攻めだった。
(ふん。わしが知りたいわ。)と稲村は、腹立たしく思った。
そして報道機関からの電話はシャットアウトしたが、一番稲村の頭を悩ませていたのは、スポンサーからの電話だった。これにはどうしても答えなくてはならない。さもなければ、金の流通が止まる
八苦し、弁明に努めていた。が、彼らの情報の精密さは稲村を驚かせた。そして稲村は急遽それに詳しい者を呼び寄せ、片っ端から検索させた。何故なら何処から漏れるのか、何から何まで事細かく
ていたからだ。
しかし稲村はその検索者達のレポートに目を通すと、それを放り投げた。その情報の発信源はおろか、その情報を何処から導き出したのかさえも分からなかったからだ。そして更にその情報は緻密で
も的を射ていた。今更訂正も何もあったもんじゃ無い。
窓際に立ち、山を見ながら煙草を吹かした。
(この計画は、頓挫するのかも・・。)という思いと、
(人の噂も七十五日とも・・。暫く静止すれば・・)という思いが、同時に頭をよぎった。
しかしどちらにせよ、良い考えが浮かぶ状況では無く、お手上げだった。よって今は沈黙したまま姿を隠すしか、他に手立てが無かった。
そのため、稲村の入院期間は暫定で一ヶ月延びた。その間に、スポンサーには上手く言い繕う手を考え、対処しようと。
そして現場にも、断腸の思いで静止を命じた。
山崎に川野からその一報が入ったのは、その日の終業一時間前の、午後四時だった。
「それ見た事か!」と川野はその指示を稲村から受け、その電話を切ってから電話に向かって吠えたらしい。が、その川野の言葉は、何やらホッとしているようにも山崎には聞こえた。
そしてその指示を伝えるため、山崎は急遽全作業員達を屋外に招集した。
「と言う訳で、この現場は一時、いや無期限かも知れんが、停止する事となった。各々荷物をまとめて、速やかに帰宅するように。明後日のこの時間までは門は開けておく。だがそれから後は誰も入
。その前に各々担当する重機にはカバーを掛け、道具は全て倉庫に収納しろ。以上だ。分かったな。」そんな山崎の急な通達に、皆は騒ぎ立った。
「ええー、仕事はどうなるんすか?」そんな声があちこちから上がった。
「帰れば仕事はある。安心しろ。」動揺するそんな彼らに、山崎はそう答えた。
そうして皆がワサワサドヤドヤと動き回る中、土井は首を伸ばして、不安そうに山崎を覗き込んで聞いた。
「山崎さんはどうするんすか?」
「俺か?俺は暫くは此処に居るよ。所謂有給休暇ってやつでな。殆ど取った事は無いけど、まぁ、バカンスってやつかな。」山崎はそう微笑んで答えた。
「ええー。じゃあ俺達も、此処に残ろうかな・・。」土井はそう不満げに呟いた。
「はぁ?何言ってんだ?お前は。それに、俺達って誰だよ。」
「新井のことっすよ。あれから俺達、内緒で色々話し合ってて。ここまで聞いたら、全部知りたいやなって。それに此処を離れたら、全部バラしちまいそうで・・。」
「何だよ、それって・・。俺を脅してんのか?」山崎は険しく眉を寄せた。
「いや、そうじゃ無くてですね。一緒に居たくて、一緒に最後まで見ていたいんですよ。上手く言えないけど・・俺も新井も、山崎さんのことが本当に好きで・・。」土井のその言葉に、山崎は肩の
いて呆れたように答えた。
「ああ?お前って・・その気があったのか?」
「違いますよ。その・・。」
そこへ新井が颯爽とした面持ちでやって来た。そして熱い眼差しで山崎に告げた。
「山崎さん、やっぱりみんなであのスナックに行って、今一度話し合いましょうよ。そうで無くちゃ、このままじゃ何かスッキリしない。」
新井は小さな体をしゃんと伸ばして、きっぱりと山崎に言った。山崎はそんな新井を見て、呆れた口調で話しかけた。
「新井。お前もやっぱり変わってるねぇ。何だよ、そのいつもとは違うしっかりとした口調と、その清々しい雰囲気は・・。」
「分かりますか?僕はもう吹っ切れました。調査に腹が据わると、僕は強いタイプなんです。」
「はぁ?吹っ切れて腹が据わった?良く分からねぇなぁ・・。そう言えばお前は確か、測量と地盤分析専門だったな。」
「はい。」
「で?その駒は揃ったのかよ。揃いっこ無いわな。あそこは全然手つかずだからなぁ。そんで、じゃあ何でそう落ち着いた顔で調査に腹が据わったなんて言い切れるんだ?」そう聞いた。すると新井
な眼差しで山崎を見上げた。
「それとは別の調査に対する情熱です。情報を細かく分析する能力も、また必要とする場面が来るのでは無いでしょうか。」
「ふむ・・。」そんな新井の澄んだ眼差しに、正直山崎は戸惑っていた。志は嬉しいが、彼らを危険に晒す訳にも行かない。
「お前らは本当に分かってんのか?ミイラになるかも知れないんだぞ?」山崎がそう脅すと、新井は強く言い返した。
「山崎さん。僕は此処を離れたら、全て暴露します。」キッパリと新井はそう言い放った。それがいい加減な言葉であれば、山崎はその顔面を張り倒していただろう。だが新井の眼は澄んで、燃える
輝いていた。
「ふぅ・・。」山崎は天を仰いで溜息を吐いた。
「まぁそう熱くならずにさ。新井、頭を冷やしてよく考えろ。まだ時間はある・・。
そうだ。急に暇になっちまった事だし、新井がいうように今夜は三人で飲みに行くか?」その山崎の言葉に、二人は熱い目をしたままうんうんと頷いた。
「よし。じゃあ仕度が済んだら、俺に電話掛けろ。俺も仕舞わなきゃならない物もあるんでな。」
二人が離れてから、山崎はふぅ・・と溜息を吐いた。それからこの状況に思いを巡らせると、現場の報告がてら源司の家に電話を掛けた。折良く源司は家に居て、電話を取ってくれた。
この現場が閉鎖になった事と、その経緯を源司に丁寧に伝えた。報道機関が入ったから、やがてはそちらにも取材の手が伸びるかも知れない。だからその時は適当にごまかしてくれと。そして最後に
の部下の事を溜息混じりに伝えた。
源司は黙って聞いていたが、やがて重く口を開いた。
『興味本位で残るならば、それはやめておいた方が良い。すでに犠牲者も見えぬが出ておる。それはまた、山崎さんにも言える事じゃ。
我らは此処の土地の者であり、山の神が弥生を通して何か仰りたい事があれば、それを考えねばならぬ。そうせねば弥生がどうにかなってしまいそうでの。そうで無ければ、我らも近づきはせぬであ
。
しかしそれぞれの考えがありその岐路を自らの覚悟で進むならば、何も言うことは無い。疑問を後ろに残したままこれから歩む事を潔しとせぬならば、我らも又、拒むことはせぬがな。しかしとにか
度、良く考えて下され。敢えて危険な山に登ることは無い。』その源司の重い言葉に、山崎もまた真剣に答えた。
『はい・・。分かりました・・。』とだけ言い、電話を切った。
源司の言う通りだった。
(そうだ。源司さんが言うように、自分は少し浮かれていたのかも知れない。何も、命懸けで浮かれることは無いんだからな・・。)
しかしそうした思いとは別に、山崎はこの土地を離れる気持ちは全く無かった。何故なら本当に久し振りに、忘れていた和みを与えてくれた人達との出会いがあり、どこかで頑なに固まっていた自分
ずつ溶けて行く様に感じた土地だったからだ。やっと見つけた懐かしい空気を、山崎は肌に感じていた。
(しかしそうした自分はともかく、あの若い青年二人を危険に晒しても良いものだろうか。もしもの事が起こった時に、その責任を負える訳も無い。それは、余りにも重すぎる・・。)そう独り思案
ながら、山崎は書類の整理を行っていた。
「お疲れさん!」
「お疲れ様でしたぁ!」そう歓声を上げて、山崎と土井と新井の三人はスナック「時の隙間」のカウンターで、真美を交え乾杯をした。
「まぁまぁ、急に閉鎖になるなんてねぇ。半分くらいは、早く出来ないかなーなんて思ってたんだけど。そしたらこの店も流行るかなーなんてさ。」真美は冗談っぽく山崎に微笑んだ。
「そりゃあ残念だったねぇ。でもマスコミが入っちまったからなぁ。これじゃあ奴さんも誰も手も足も出ない。まぁ暫くは、ダンマリを決め込むしか手が無いやな。伝書鳩の喧噪が収まるまではね。
「えー、どうしてっすか?山崎さん。」土井が訳が分からず聞いた。
「どうしてって。土井、お前班長さんやってて分からないのかよ。」
「すんませんねぇ。でも世間知らずだって、班長さんくらいは出来ますんでね。けどどうしてこんなに大騒ぎになんだか、全然わかんねぇや。」そんな土井に、山崎は分かりやすく噛み砕いて説明し
「普段ネットワークだとか言ってるわりにゃあ分からねぇんだな。
いいか?この騒ぎになった一つはな、あの稲村が圧力掛けたっていう、その地方紙だよ。圧力がかかりゃ当然その反発で、こりゃ何かあんのか?ってことになるわな。俺達が作っているのは温泉リゾ
だ。其処にオカルトめいた曰く話が出てくりゃ、そりゃ大変だ。けど報道の方から見れば、謎めいた面白い話しにもなるだろうが。そして決定的なもう一つはな、あの長瀬の話がネットに流された事
。」
その言葉に、土井は目を見開いて驚いた。
「えー!誰が流したんです?山崎さんがあれだけみんなに注意してたのに!」
「そんな事分からないよ。でもな、昔っから言うだろうが。人の口に戸は立てられないとか、壁に耳あり障子に目ありとか。
今の時代はそれがもっと凄いって事だよ。誰のプライバシーも、狙われたらあったもんじゃ無ぇな。稲村にしたってそうだったろうに。」山崎はそう土井に説明した。
「じゃあ・・じゃあ僕たちもですか?関係者だから・・。」奥から新井が心配そうに顔を覗かせた。
「そうだよ、新井。有名になりてぇか?」山崎が新井を覗き込んで聞くと、
「こんな事で有名になんて、なりたくありませんよ。」と、仏頂面で新井は答えた。
「そうだろ?でもな、俺と連んでると段々有名になるんだよ。俺の事はもう調べられてるだろうしな。何せ、取り調べ受けちまったからなぁ。容疑者、山崎拓雄ってなもんだよ。ほとぼりが冷めるま
そりと身を隠してる奴の心理が、俺もちょっぴりだが分かったよ。」
「逃亡者ね。暗い過去を引き摺りながら、北の小さな居酒屋で、寡黙に独り酒を呑む。素敵ねぇ。山ちゃん、似合ってるよ?」真美はそんな会話を楽しんでいた。
「馬鹿言ってら。そんな者にゃなりたか無いね。孤独と不安しか感じない人生なんて、何が素敵なんだか。そりゃドラマの見過ぎだよ。
ところでお二人さん。」山崎は煙草を吹かしながら、土井と新井に目をやった。
「そんな訳で、俺は今夜からとんずらする。そしてこんな俺に関わっていると、いつかはお前達にもそんな捜査の手が及んでくるだろう。それは嫌だろ?だから土井班長は俺に替わって、明後日の夕
場を締めて、その鍵を本社に持って行ってくれ。寂しけりゃ新井も一緒で良いからさ。」
「ええーっ!」とその言葉を聞いた二人は同時に叫んだ。
「一緒にやるって・・。」土井が不服そうに山崎を見た。
「そんな事は、一っ言も言ってない。それから新井。ばらすならばらしても良いが、その話しを悦ちゃんから聞いたなんて口が裂けても言うんじゃ無ぇぞ。彼女に多大な迷惑が掛かっちまうからな。
お前も男なんだから分かるだろうが。
いいか、お前ら。よく頭を冷やして考えろ。みんなでキャーキャー騒ぎながら心霊スポットへ行くのとは、訳が違うんだ。命懸けで肝試しやるこたぁ無い。そしてお前らにもしもの事があったら、俺
なんか取れっこ無い。そうじゃ無くても、待っててくれる人のことを思え。わざわざ危険な山に足を踏み入れるな。分かったな。」
「そんなこと言ったって・・。」二人は口を尖らせて山崎を恨めしそうに見ていた。
「それから真美ちゃん。明日の夜飲み会やろうって約束したんだけど、明日の夜、俺は来られそうに無いんだ。金は土井に渡してあるから、みんなでそれで楽しんでくれよ。それと、悦ちゃんには謝
てくれないかな。」山崎は正面に向き直ると、真美にそう告げた。
「うん・・。良いよ。山ちゃんは何処へ行くの?」
「ああ、俺にはちょっとした用事があるんだよ。」そう真面目に答えた。
「山崎さんは良いっすよねぇ。ラブレター貰った相手に会いに行くんだから。」土井が面白く無さそうに山崎を横目で見た。
「ラブレター?」真美が驚いた様に目を開いて山崎を見直した。
「馬鹿だな、お前は。本気であれがラブレターだと思ってんのかよ。あれはな・・。」と山崎が言い掛けたところに、ドアが開いて悦子が入って来た。山崎もふとそのドアを見た。
「ふぅ、やれやれ。世話の焼ける患者がいると大変だわ・・。」そう独り言を呟くと、荷物を置いた。そんな悦子を見て、
「あれ?悦ちゃん・・。どうしたの?」と、新井が呟く様に言った。そんな新井に、悦子は眉を上げた。
「ん?私が来ると不思議なのかな?ねぇ、山ちゃん。」悦子は微笑みながら山崎に目を移すと、山崎の隣に腰を降ろした。
「明日呑もうって約束だったから、今日は来ないと思ってたんだよ。」山崎は悦子にそう言った。
「そう。私もそう思って仕事をしてたんだけどね。でもね。私の大切な患者様がいろんな動きをなさると、こうなるんじゃ無いかって思った訳。そこへ真美と山ちゃんからメールが入って、ああ、や
なって。」悦子は真美に、手でビアサーバーを指差した。
山崎はジョッキを持ってビールを注いでいる真美を見つめた。
「私はただ、土井坊からメールがあったから、悦子にそのままメールしただけ。だから明日の約束が、今日になっただけよ。山ちゃんからも初めての素っ気ないメールも入ったしね。それだけでも、
ンと来るものもあるでしょう?」そう真美は答えた。
「ふーん。確かに、『山崎、明日は行けない。申し訳ない。でもまた来週にはお会いしましょう。宜しく。』ってメールを送ったけどさ。それだけであれこれとねぇ。お二人に掛かると、全て千里眼
かれている様だな。旦那は苦労してんだろうなぁ。」山崎は二人を見ながらしみじみと言った。
「あら。私達は二人とも、花の独身なの。苦労をかけさせられる旦那は、もう遠の昔に居ないのよ。ねぇ、真美。」そう言って悦子が真美に振ると、
「そうよねぇ・・。そんな事もあったのかなぁ・・。もう色褪せて、茶色くなった記憶でしか無いけどね。」真美はそう言いながら悦子の前にジョッキを置いた。
「さぁさぁ。そんな昔話はさておき、今宵の出会いに乾杯しましょう。今夜はどんなお話しになるのかしらね?」悦子は軽くジョッキを差し上げた。するとみんなも目を合わせつつジョッキを持ち上
。そしてみんなで乾杯した。
「そうだ。悦子が来たんで中断しちゃったけど、山ちゃん、ラブレター貰ったらしいよ。ねぇ、山ちゃん。」そう真美が眉を上げて山崎を見た。
「ええ?ラブレター?いいわねぇ、風情があって。ちょっと先を越されたかな?」悦子は山崎に振り向くと、微妙に微笑んだ。
「ふっ。何言ってんだかだよ。これはねぇ、ラブレターなんかじゃ無くて、その、何て言うかな・・。知り合いになったある人から渡された、一つのパズルって言うのか、謎解きみたいな文句だよ。
「え?パズル・・ですか?」その山崎の言葉に、新井が土井の向こうから、身を乗り出して山崎を見つめた。
「何だよ、新井。眉間にしわ寄せちゃって。だから何だ?」山崎もそんな新井に目をやった。
「僕はパズルを解くのには自信があります。そういうことなら、ぜひ見せて貰いたいんです。きっと解いて見せますから。」そう言うと、新井は熱っぽい眼で山崎に願った。
「うん?うーん・・。」山崎は少しためらったが、どうせ歌の文句だし分かりっこないと思って、その便箋をポケットから取りだし新井に渡した。新井は眼鏡を取り出して、その文面を丹念に読み始
。そしてなにやらムニャムニャと独り言を呟いていた。
そんな新井をしばらくはみんな注目していたが、首を捻るその姿から目を逸らすと、それぞれまた酒を呑みだした。
「ねぇ、さっき山ちゃんはとんずらするって言ったけど、いったい何処にとんずらするの?」真美は山崎に意味ありげに聞いた。
「うん?それをばらしたら、それはとんずらじゃ無くなるだろうに。」そう山崎は微笑んで答えた。
「え?じゃあ今夜限りってこと?」今度は悦子が、なにかつまらなさそうに聞いた。そんな悦子に山崎は振り向くと、静かに答えた。
「いや。多分また来ると思うよ。なにせあの現場がまだ、終わっちゃいないんでね。そしてその現場の責任者としては、それなりにけりを付けないとだからね。」それを聞いた真美と悦子は、ほっと
で下ろした。
「良かった。その時にはまた、あの山がどうなるのか教えてよね?」そう言う悦子に、山崎は軽く頷いた。
「まぁなにか、新しい動きがあればね。必ずここに来るよ。」
「ふぅ良かった。あたしもそれを聞いてほっとしたわ。ここまで聞いといてそれで終わりになったら、あたしはその事をずっと考えたこんだまま死んでしまうことになるからね。そんな重い人生なん
れからでも送りたくは無いよ。」真美はしみじみとそう山崎に告げた。
「ああ。正に真美ちゃんの言うとおりだな。俺もそう思うよ。だからどうしてもけりを付けたい。そのためにやれることがあれば、全てやらないとだからな。」山崎はそう意味ありげに答えた。
「え?それって?」と悦子が聞こうとしたとき、隅で俯いていた新井がいきなり顔を上げて、そしてバンッと便箋を叩いた。隣で三人の話をじっと聞いていた土井は、それこそ飛び上がらんばかりに
。
「おう!新井ぃ!びっくりすんなぁ、もう。」
しかし新井はそんな土井には目もくれず、山崎にキラッとした瞳を向けて叫んだ。
「山崎さん!僕には解けました!」
そんな叫びにみんなが驚いて新井に注目する中、新井は一口ビールを流し込み、姿勢を正して口を開いた。
「これは、ですね・・。所謂、埋蔵金の在処を、暗号のように歌った文句ですよ!」そう得意げにみんなを見回した。
「はぁ?埋蔵金?」山崎にはそれ以上、言葉が出なかった。
「ちょっと貸してみて。」真美はその便箋を新井から取り上げると、悦子の前に拡げた。そして二人で見るなり、
「なぁーんだ。」と二人して笑った。
「山ちゃん、これは私らも知ってるよ。これは私たちが子供の頃遊んだ遊戯の、草履隠しっていう遊びの歌だよ。でもこれから埋蔵金ってのは、ちょっとねぇ・・。」そう真美が言うと、
「そうよねぇ。それはあまりにも話が飛びすぎているんじゃないの?」と悦子も同調した。そして真美と悦子は新井を見て、少し呆れたような顔で笑いかけた。
しかしそんな二人の言葉と表情に、新井は見るからにムッとした様子で口を尖らせた。そして新井は、そんな二人に反論した。
「ええ。お二人には、そんな昔の遊びの歌かも知れないですがね。でもそう言うお二人は、その歌の意味について考えたことがあるんですか?」
そんな新井の問い掛けに、真美と悦子は目を合わせてから首を傾げた。
「意味と言われれば、それは・・。」真美は口ごもった。
「考えたことは無いんでしょう?多分そんなことだろうとは、僕は思いました。けれども昔から、巷の子供の遊び歌に含ませて、ある秘事を伝えたという話は事実としてあったと伝えられていること
。そしてその遊び歌の意味などは、誰も考えようともしない。だからこそ、あどけない子供の遊び歌にして秘密の事を伝えようとしたんです。よくテレビで取り沙汰される、「カゴメ、カゴメ」もそ
です。
そんな史実を鑑みて僕が考えるに、この歌はまだそんなに広くは知られてはいないようですが、この遊び歌は、とんでも無い意味を含んでいます。」
新井のそんな熱弁に、皆口をつぐんだ。そして新井はまた熱く説明を続けた。
「良いですか?最初の草履隠しと言うのは、小判隠しと捉えます。小判にも草履のような紋様がありますからね。そしてチュッチュク饅頭とは、嬉しいほど山積みにされた小判の山ですよ。
そしてそのまえにある橋の下の鼠と言うのは、橋下なにがし、それは忠五郎でも、忠衛門でも良い。とにかくその橋下なにがしが、小判を抱えて逃げ出したんですよ。
そしてその小判の在処は、他の誰でも無く、自分が知っていると。そしてその隠し場所は、表の看板三味線の、とある。そこで三味線とは、糸と猫を連想させる。ここで僕は、猫だと判断しました。
いうに、日本で一番有名な猫を思い出したからです。
その猫とは、徳川家康が祀られている、日光東照宮の眠り猫です。その玄関から裏に上がって三軒目に、その、思うに、徳川家の埋蔵金が眠っているのでは無いでしょうか?これが僕の推論です。」
「はぁーあ・・。」その熱弁を聞いたみんなの口からは溜息が漏れた。新井は眼をギラギラさせて、勝ち誇ったように顔を上気させていた。
「なるほどねぇ・・。いやぁ、感服した。新井、それは本当にそうかも知れないなぁ。お前の話を聞いて、俺も何だかそんな気がしてきたよ・・。
けどそれは実証しないと、それこそなんの意味の無い言葉だけどな。でもお前の分析能力は大したもんだ。その推論を、探って見る価値はありそうじゃないか。
そこでどうだ?この休暇を使って、その夢探しに土井と二人で挑戦してみればよ。もしそれが当たれば、お前達は瞬く間に大金持ちに成れるだろう。そうすりゃ、こんな仕事でくすぶってるどころじ
よ。」
山崎は新井を見つめて、心からそう思っている様に話した。新井は興奮した面持ちで、
「そうっすよねえ!」と熱く答えた。そして土井の肩を抱いて見つめると、それからは何やら夢中に、二人で携帯の画面に見入っていた。
「良いねぇ。夢を追う若人の姿ってのは。」山崎はそう言うと、ビールを飲みながら真美と悦子に目を戻した。。
「山ちゃんはどうなの?」と真美が聞いた。
「うん?ああ、そりゃそっちの夢にも興味はあるけどな。俺はこっちの夢で忙しいから。」
悦子は便箋を取って、山崎の前でヒラヒラさせた。
「やっぱりこれ、ラブレターなんだね?」
「ふん。そんなこたぁ無いよ。」山崎は煙草に火を点けると、その便箋を取り、目の前に拡げた。
「ねぇ、真美ちゃん。ここには地図とかって無いのかなぁ。」いきなり土井が真美に問い掛けた。
「え?地図って?何処の?」その突然の言葉に驚いた真美は土井に振り向いた。
「何処のって・・。やだなぁ、日光の地図に決まってんじゃん。スマホのちっちゃな画面じゃ、どうも見づらくってさ。」土井は当たり前だと言うように真美に言った。そんな真剣な土井に、真美は
頷いた。
「ああ。東照宮のね。でもそんな物はこの店にはありっこ無いよ。本屋さんには有るだろうけど。」
「本屋かぁ・・。」その言葉を聞いた土井は、困った顔で呟いた。
「でもまだこの時間なら、市内の本屋は開いてるよ?」そう真美が言うと、二人の顔がパッと輝いた。
「ええ!じゃあ、新井!行ってみようよ。タクシーなら直ぐにつかまるよ。こうなりゃとことん調べなくっちゃあ!」
「うん!」と新井が頷くと、二人は勢いよく立ち上がった。そして土井はキラキラした目で山崎にお辞儀をした。
「山崎さん。これまでいろいろお世話になりました。事成った暁には・・。あ、そうだ。預かったこのお金、返しますね。」
「はいよ。良いからとっとと行ってみればよ。気の早いこと言ってないでさ。まぁ夢を追って、頑張って下されや。」そんな二人を、山崎は力強く励ました。その二人はまた、きりっとした顔で山崎
下げた。
「はい!有り難う御座いました。行ってきます!」そう言って二人は颯爽と店を出て行った。
「はぁ・・。言葉が出ねぇや・・。」と山崎が呟くと、
「良いじゃないの。夢に熱くなれるなんてさ。うちらなんてもう、宝くじ買う時のささやかなドキドキしか無いもんねぇ・・。」悦子も溜息を吐いた。
「まぁそうしな垂れてないで、景気よく行きましょうよ。」真美が二人の前に新しいジョッキを差し出した。
「良い店だねぇ・・。暇だけど・・。」山崎はしみじみとポツリと言った。そんな呟きに、真美は呆れ顔で答えた。
「山ちゃん、分からないの?今夜は邪魔が入らない様に、私がこの店を封印したの。だってこんな面白い出会いは、ここ何年も無かったもの。」そんな真美の言葉に、山崎は眉を上げて真美を見やっ
「ほう、そうだったんだ。でも嬉しいこと言ってくれるねぇ。じゃあ俺も、古株のなりして呑むか。」そして三人でささやかに乾杯した後、三人ともその便箋に目をやった。
「草履隠しか。懐かしいわねぇ・・。」真美がしみじみと言った。
「うん・・。でも、意地悪された思い出もある・・。」悦子も思い出してそう呟いた。
「そうそう。なかなか見つけられなくってねぇ。みんなで示し合わせて囃し立てられて、泣きながら探したこともあったっけか・・。今思い出せば、あんまり良い遊びじゃ無かったよね。裸足でさぁ
。」真美は何気なくそう呟いた。
その呟きに、真美と悦子は静かに目を合わせた。そして山崎をじっと見つめた。山崎はそんな二人に何かを感じて、ジョッキを置いて二人を見つめた。
「山ちゃん・・。このラブレターって、この世の人からじゃ無いんじゃ・・。」真美が静かに聞いた。
「そう・・。そしてその相手は、無くした草履を探してる・・。」悦子の目が変わった。山崎はそう言う二人の洞察力に驚いた。
「・・だとしたら、どうなんだよ・・。」なにか異次元の空間にいるようで、山崎は酔いが覚めたように感じた。
「だとしたら?だとしたら、この意味は全然違って来る・・。」真美は便箋を手に取り、真剣に見直し始めた。悦子も便箋に目を落としていたが、ふいに山崎を見つめた。
「そうだ、今思い出したんだけど、女衒から逃げたそのおゆうって子ね、周りから聞いた話だと、その子は岩根区の出身らしいの。」
その何気ない悦子の言葉に、
「え?」と山崎は驚き、そして悦子を見つめた。