第9話「兆候」
「……思い出してほしい。私の事を、私たちの事を」
道彦は全ての事を話し終えていた。
自分たちは他の世界から来たこと。
今は血のつながった人間同士ではあるが、前の世界では恋人同士であったことなどをありのまま遙に伝えた。
遙はずっとうつむいて聞いていた。
道彦には彼女の表情が見えない。それが道彦には何とも不気味に映った。
そんな時、おもむろに遙の顔が上げられたのだ。なんと、彼女の目から大粒の涙が!
ポロポロと流される真珠のような涙───
「遙……?」
道彦は驚倒した。
彼女の唇が微かに動いた。溜め息のような声がもれる。
「可哀想に……どんなに辛かったでしょう。愛しい人よ」
道彦はそれを聞くとパッと顔を輝かせた。
「おお! それでは思い出してくれたのだな。遙、いや、サーラよ!」
「ええ、リカール!」
二人はどちらともなしに立ち上がった。そして、しっかりと抱き合った。彼らはゆっくりと顔を近づけていく。
それが重なり合おうとしたその瞬間───まるでリモコンのスイッチが押されたようにピタッと止まってしまった。
静かに二人はお互いから身体を離す。二人とも穏やかな表情をお互いに向けていた。
「私たちは記憶を取り戻すべきではなかったわね」
「その通りだ」
「だけどどうしようもなかった」
「そうだ。地球を救うためだ」
「ええ、私たちの愛する人たちが住む、この地球を死なせてはいけない」
二人は再び寄り添い合い、互いの手を取り合った。
道彦は遙を椅子に座らせると、自分はひざまずき、彼女の顔を見つめた。
窓からは、これから初夏に向かおうとする太陽の陽射しが強く射し込み、彼らにまるで活力を与えようとしているようだった。
遙もむさぼるように道彦を見つめていた。
かつて愛した金の髪、金の瞳はそこにはなかった。
その代わり、深い苦しみを背負い、傷ついた目をした人間がそこにはいた。
彼女は心が痛んだ。
この美しい人を傷つけたのは自分なのだ。久遠の苦しみに叩き込んだ自分を、果して彼は許してくれるだろうか。
「ずいぶん永い間、あなたに辛い思いをさせてしまったわね」
遙は道彦の頬を自分の手で優しく撫でた。
道彦はその彼女の手を、両手で押し頂くように取ると囁くように言った。
「思い出してくれた。それだけで私はこれまでの日々が報われる」
遙はもう一度彼の目を見た。
その目は傷ついていたかもしれないが、不幸な目ではなかった。不思議と晴々として喜びに満ちていた。
「そう……あなたは本当の愛を知ってしまったのね」
彼は頷いた。
「君を愛する気持ちは変わってないし、愛したことを後悔するつもりもない」
彼は彼女の手を離し、立ち上がると窓の外を眺めた。
そこからは桜の巨木と瑞々しい青空が見える。遙も道彦の視線を追った。
「我々の身に起こった一連の出来事は不幸だったかもしれないが、それだけではなかった。私は、今になって長老の言った意味がわかったような気がするよ」
彼は身をひるがえした。
金髪に近い道彦の髪がサラリと宙を舞う。
「私は彼女を、人間である彼女を人間の心とリカールとしての心とで愛してしまった」
彼は無情にも言い切った。
「私は彼女を、君を愛する以上に愛してしまったらしい。君がこの世界の地球を、そして地球の音楽を愛するその気持ちが、ようやく今わかったよ」
遙は泣いていた。
彼女はすでに言葉を失っていた。
では彼女の愛はどうなるというのだろう。遙としての心は鷹男を愛しているが、サーラとしての心はリカールへの愛で一杯だというのに。
彼はもうサーラのもとには戻ってこないだろう。
恐らく一千年の月日が終わりを告げても、彼らは一つになることはない。
リカールとしての彼は別の人を愛してしまったのだから。
これが彼女に下された試練なのだ。
彼を永い間苦しめてきた、これが彼女のこれから歩まねばならぬ道のりなのだ。
(おお、恐ろしい。あなたは永い間こんな血を吐く思いを味わってきたのね。そして私もその辛酸を舐めなければならないのだわ)
しかし彼女は胸のうちを彼に話すわけにはいかなかった。今度は彼女の心が千々に乱れることとなる。
彼女は健気にも力を込めて言った。
「私の記憶は戻ったわ。賭に勝ったのよ。予言は凍結するわよね」
「だと思うのだが、あの女にどうやってそれを確かめるのかがわからない」
道彦は自信のない声をした。
「じゃあ、待つしかないのね」
二人はさきほどとは打って変わって不安な目でお互いを見つめ合った。
再び静かな時が過ぎる。
二人の向こうに見える窓。
そこからは本当に平和そのものの風景が広がっていた。
風が木々を揺らし、空には白い雲が流れていく。
彼らはその時、互いを待っている人のことを忘れていた。近くの公園で待っている人たちを───
そしてそのころ、その道彦と遙を待つ、美佳子と翔太が並んでまだブランコに揺られていた。
ブランコを漕ぎながら翔太は低い声で歌っている。
彼の母がいつも歌っているあの唄である。
ねーんねん おぼろげに ねんころり
わたしの ふるさと 銀の国
かわいい わが子の あたま撫で
やはり わが子も 銀の髪
ねーんねん 夕べの 夢のなか
わが子と ふたりで 夢話
いついつ いつまでも 夢話
夢の なかまで 銀の国
銀の 十字架を 崇めれば
今宵の 宴は 銀の唄
母も 歌った 銀の唄
天の 国から 迎え来る
ねーんねん おころりよ ねんころり
かわいい 坊やよ ねんころり
おまえも いつかは 銀の使徒
さあ いつまでも ねんころろ
ねーんころろ
隣でブランコを漕ぐ美佳子は翔太の唄に聞きほれていた。
驚くほど老齢な趣で静かに彼は歌っていた。
そんな彼を不思議にも思わずに彼女は目を閉じ、聞いている。
そんな二人に近づく遙と道彦。
美佳子は全く気がついていない。
暑いくらいの陽射しが彼らの頭上に輝いている。まるで光のプリズムのように降り注いでいた。
道彦との会合以来、遙は変わった。
鷹男は彼女を眇めて見る。
遙はボーッとしてテレビを見ている。
どこがどう変わったのか、彼には説明できなかった。しかし、遙は確かに最近、ボーッとすることが多くなった。
鷹男は彼女が道彦に逢いに行ったことを知らない。しかし、鷹男は理由を聞くのをためらっていた。
結婚してからお互いに隠し事はしたことのない二人であった。何でも話し合い、困ったことが持ち上がっても、二人で考えることによっていつも解決してきた。
だのに、彼はなぜか躊躇している。
まるで彼女の不安が鷹男にまで伝染してしまったかのようだ。聞いてしまったら最後、全てが終わりを告げてしまいそうな、そんな恐怖がジワジワと彼を蝕んでいく───
彼はそれを振り払うように頭を振った。
遙は前世とか夢とかに異常なくらい固執していると鷹男は思う。
確かにそういうものを頭から否定してしまうのは馬鹿げたことだと思う。
自分も前世がツバメかもしれないと思ったことも認める。
しかし、たとえ前世がわかったとしても彼は関係ないと思う。
前世が何であれ、今の自分は鷹男でしかないわけで、今を楽しく生きる事が大切ではないか、と。一日一日を大切に生きる。それが自分たち人間が生きていく理由だと彼は思う。
鷹男は再び遙に目をやった。
そして何気なく声をかけていた。本当に無意識のうちに───
「俺たちはいつまでも夫婦だよね」
遙はフッと鷹男を振り返った。
一瞬驚いたような表情を見せたのは幻か?
しかし彼女はゆっくり微笑むと答えた。
「あなたが私に飽きなければ、ね」
そしてコミカルにパチッとウィンクした。
いつもと変わらぬそんな彼女の愛嬌に、鷹男は深い安堵を感じた。
静かに、はためには本当に寂々と、時が過ぎていった。
すっかり春は終わってしまい、いつの間にか夏も終わりを告げようとしていた。
そんなある日のこと───
その日、美佳子は自分のマンションで遅い朝食をとっていた。
トーストと目玉焼き、サラダにコーヒーを目の前にし、彼女はあくびを一つするとテレビのスイッチをつけた。
パチンという音とともに、画面にニュースのアナウンサーが映る。
「……死亡したのは矢追正人さん、二十歳。空港近くの展望台で休憩中、居眠り運転のトラックが突っ込み、矢追さんは即死、トラックの運転手は無事の模様……」
美佳子は持っていたトーストをポロリと落とした。
テレビに映し出された写真のその人は、間違いなく彼女の夢に出てきた男性だった。
「夕べだったんだ。だとすると、もう時間がない!」
彼女は後片付けもそこそこに、急いで着替えると部屋を飛び出していった。
走りながら慌ただしく携帯電話をかける。しばらくのコールのうち相手が出た。
「先生、大変です! 例の彼が交通事故で亡くなりました。もうすぐ例のものが落ちます。遙さんにも、先生のところに来てもらったほうがいいのではないですか」
彼女は大急ぎでそう言った。
「はい……はい。わかりました。すぐ行きます」
彼女は携帯電話を鞄に放り込むと、さらにスピードを上げて走り出した。走りながら美佳子は、あの時のことをまざまざと思い出していた。
自殺をして死んだ前世の美佳子。
そして事故で死んでしまった正人。
彼らはあの場所で再会した。
地球を見下ろしたあの場所で───
死んでしまった彼らにはとても大切な仕事が待っていた。宇宙を支えていくという重大な使命が───
しかし美佳子は、また生まれ変わることを選んだのだ。
もう一度だけ自分にチャンスを与えたかったのである。
その時だった。
地球で核が爆発したのだ。
なぜなのかは、わからなかった。
いくら不穏な空気が流れていたからといって、いきなり各国が核の飛ばし合いなんかするはずない。
あれはやはり道彦の会ったあのスメイルのせいだったのだ。
果して未来を変えることは出来るのだろうか。
でもあの時、核の爆発を彼女が見たのは確かなのだから───
(いいえ! 信じることだわ!)
美佳子は強く思った。
信じなければ何も始まらない。
奇跡も起きないのだ。
思えば永いようでもあり、短いようでもあるこの藤沢美佳子という女の人生だった。
不思議なえにしにより、美佳子と関わった別世界の人々───彼らは彼女の理解を越える存在ではなかった。彼らはこの世界の人間たちと違うところなどなかった。
しかしそのことを知っているのは、この世界で美佳子だけだった。そしてそんな異世界が存在することを知っているのも、彼女だけだったのだ。
彼女は子供の頃から、人とは違った特別な人間になりたいと思っていた。強大な力を持つとか、あるいは宇宙へ出ていけるだとか。
とにかくそんな世界に憧れていた。
きっといつか、あの星の彼方から自分を迎えに来る船がある。
それとも金髪碧眼の少年が、赤い唇で闇の世界へ誘ってくれるのでは───そういつも熱望していた。
彼女にとって、それこそが現実の世界のようなものだった。
『現し世は夢、夜の夢こそまこと』
この言葉は彼女が一番好きな言葉だ。
彼女が前世を思い出したきっかけも、その夜の夢だったのだ。
夢には真実が隠されている。
彼女たちが生きるこの世こそ、夢のなかの出来事に違いない。
そして今、彼女は一生懸命どこかにたどり着こうと、やみくもに走り続けていた。