第8話「告白」
次の日、藤沢美佳子と皇道彦は、彼の研究室で互いに見つめあったままジッと動かずにいた。
研究室の窓の直ぐ傍に、樹齢何百年という大きな桜の木が超然と立っていた。もう既に春もたけなわ、桜の盛りは過ぎてしまおうとしている。
毎年毎年、大学構内の特にこの桜は、素晴らしく多くの花を咲かせると近郊で有名だった。
今まさに一陣の風がサアーッと吹き抜けていった。
それにあおられて木が大きく揺れた。
ザザザザァ───
宙を舞う桜の花びら───
研究室の大きな窓からも、まるで吹雪のように渦巻いているのが見えていた。
あんな風にこの地球上の人々は散っていってしまうのだろうか。
桜の花は来年の春が来れば、またつぼみをつけ見事な姿を見せてくれる。
だが人間は?
桜のように散っては咲き、咲いては散るといった繰り返される生であることを彼らは知らない。
仮に生まれ変わりを人が知ったとしても、今度の生は新しい人生であって、その記憶の人物ではあり得ないのだ。
だから死ぬことは恐ろしい───
道彦は、美佳子の秀麗な顔を見つめて思った。
それを知っている自分でさえ死は恐ろしいのだ。
いや、何もかも知っているからこそ恐ろしい。知らないほうが幸せだった。記憶を取り戻さなければ、このような誤った人生を送らなくてもすんだはずなのだ。
苦しみに満ちた二十五年───
彼はスメイルの悪魔のような微笑みを思い出していた。そして憎しみが自分の心に広がるのを感じていた。
皇道彦としての人生を目茶苦茶にしてしまったあの女───
道彦は膝にのせた手をギュッと強く握りしめた。
美佳子は彼の握りしめられた拳を見つめていた。
たった今、彼女は道彦に夢の話を打ち明けた。すると、逆にとんでもない話を彼から聞かされてしまったのだ。道彦が別の世界の神であることを。
彼女の身体は震えていた。
そんな恐れ多い人物を愛してしまった自分が恐ろしくなったのだ。
その時、彼女の心をあらわすかのように、太陽が雲にかくれ、日が翳った。
相変わらず桜吹雪は止むことはない。
後から後から花びらは生まれ、永遠に舞い続けていくかのようだ。
「どうにもならないのでしょうか。この世界は死んでしまい、私たちも……」
震える声で美佳子は、やっとそれだけ言った。
道彦はもう一度彼女の顔を見た。
記憶さえ戻らなければ、きっと彼女は皇道彦にとって大切な、この世で一番愛する人間になった事だろう。それでなくとも彼は、今では彼女を、そしてこの地球の人々を守ってやりたいと思うようにまでなっていた。
彼は思う。
サーラを愛する心も真実なら、藤沢美佳子や地球を愛する気持ちもまた真実なのだ。
彼は奇跡を待ち望んでいた。
そしてその奇跡は、自分のサーラに対する気持ちが揺るぎない不動のものでなければ起こりえないだろうと信じていたのだ。
そうすると今の彼の気持ちでは奇跡は起こらない。サーラの記憶は戻らないだろう。
「私は自分の愛だけが彼女の記憶を取り戻せるものだと思っていた。彼女だけを一途に愛し続ければ、道はひらけると信じていたんだ」
道彦は絞り出すようにそう言った。
「だけど私は君を愛してしまった……」
彼は美佳子を見つめた。その目は悲しみに満ちていた。
美佳子は信じられない、といったように大きく目を見ひらく。
それに答えるように、道彦は言った。
「そうだよ。サーラ以上に、君を愛してしまったんだ」
道彦の声は悲痛だった。
「道彦さん……」
しかし美佳子は感激に身を震わせていた。
不幸だった美佳子の前世は今まさに浄化されようとしている。彼女の憐れで惨めな魂は異世界の神によって解き放たれるのだ。
彼女は感極まって、道彦の胸に飛び込んでいった。
彼も立ち上がり彼女をしっかりと受け止める。
ひとしきりジッと抱き合う二人。
そのままの恰好で道彦は呟いた。
「しかし遙の記憶が戻らなければ、いずれ地球は死滅してしまう」
美佳子は頷いた。そして呟く。
「けれど奇跡でも起こらない限り、彼女の記憶は封印されたまま……」
美佳子は実のところそれでもかまわないと心の底では考えていた。
遙の記憶が戻ってしまったら、道彦は彼女のもとに帰ってしまうかもしれない。そして私は再び捨てられてしまうかもしれないのだ。
だが彼女はそれを否定した。
そんなことを考えてはいけない。
たとえそうなったとしても、美佳子は自分の使命に気づいてしまった。彼女は道彦を救うために転生をしてきたのだ。愛する者のために───
「全てを……全てを遙さんに打ち明けるのよ。話してみればきっと道は開けるわ」
美佳子は思い切って提案してみた。
とにかく今は行動してみるしかない。じっと待っているだけではどうにもならないのだ。確実に終末は近づいてきているのだから。
動いてあがいて、とにかく運命に抵抗してみるのだ。
きっと答えが見えてくるはずだ。
ある晴れた日の午後、春日野遙は翔太を連れて家を出た。大学まで来るようにと、彼女の叔父である皇道彦が遙を呼んだからだ。
彼女は不安であった。
電話の道彦の様子を思い出す。
「大切な話がある。大学まで来てほしい」
彼はそう言った。それはとても真剣な口調だった。
バス停で待つ彼女たちに、ようやくバスがやって来た。乗り込むふたり。
翔太は後ろの大きな窓から景色を眺めては大喜びで奇声を上げていた。
「心配なら翔太を連れてくるといい……」
遙は道彦の言った言葉を思い出した。
そう。彼は訝しがる彼女に対して、警戒しないようにと配慮してくれたのだった。
遙はボーッと窓の外を眺めていた。
翔太に静かにしなさいと注意するが、それも上の空である。
「いったい何だろう。おじさまの言う大切な話って……」
彼女には多少なりとも不安が残っていた。道彦が何か変なことをしはしないかという不安である。
彼女は外に向けていた目を翔太に移す。
「この子がいるから大丈夫か……」
遙はそう思うことで自分の不安感をぬぐい去ろうとした。
大学は街の中心地に立っていた。
かなりの大きい敷地で、前にも述べた通り近くには遙の勤めていたデパートや商店街などが軒並みに並んでいて、近郊で一番の繁華街でもあった。
構内に入ってすぐにあの巨木がそそり立っていた。あの桜の木である。
遙は魅せられたように目がいった。
すでに花びらはすっかり落ちてしまい、今はチラホラ新緑が芽生えてきている。
この頃はあまり桜には近づきたくないものだ。葉っぱを狙って虫がつくからだ。
遙は近づいてみようとは思わなかったが、陽の光があたり、眩しいくらいのその緑に釘付けになってしまっていた。
と、その彼女の目が何かをとらえた。遙に近づいてこようとしている。
藤沢美佳子だった。
遙はジッと彼女を見つめている。
翔太はもちろんジッとなどしていない。そこら辺をワアワア騒ぎながら走り回っている。ここは広いので、遙は翔太をあえてそのままにしておいた。
「遙さん、こんにちは」
「こんにちは。おじさまはいらっしゃるかしら」
美佳子はニッコリ笑った。
「ええ。研究室の方に。ご案内します」
「ありがとう。翔ちゃん、行きますよ」
遙は、今まさに全力疾走でこちらに向かってきている息子を呼んだ。
「はあ────い!」
美佳子はそんな翔太を微笑みながら見つめていた。
それから三人は、静かで近代的な廊下を歩いていた。
珍しく翔太もおとなしく静かに歩いている。
日曜の大学構内はシーンとしている。平日ならこの廊下も学生たちで一杯なのだろう。
「こちらです」
美佳子がある扉の前で止まった。
「先生、遙さんがお見えになりました」
「どうぞ」
美佳子は扉を開けた。
遙は恐る恐るなかに足を踏み入れた。
その反対に翔太は自分の母の横をすり抜けて飛び込んだ。
まず遙の目に飛び込んできたのは本だった。おびただしい本の山───
本棚は設置されていたが、おさまりきらない本が壁際に置かれた台に山積みになっている。
それでも、全体的に乱雑さは不思議と無かった。山積みになっていてもそれが整然としているせいであろう。
遙は美佳子のおかげだろうと、何となく感じていた。
「よく来たね。遙、それに翔太も」
中央窓ぎわに置かれた大きなデスクに道彦はいた。
背もたれ椅子に座り、長い脚を組んで彼は遙のほうを向いている。
遙は訝しい表情で叔父を見つめた。
窓を背にしているので、ハッキリとした表情はうかがい知ることは出来ないが、どうもいつもの叔父とは雰囲気が違う。
道彦はおもむろに立ち上がった。そして遙と翔太の傍にやって来た。
その時、はじめて遙はハッキリと彼の顔を見た。とても優しく微笑んでいる。
翔太がそんな道彦に飛びついた。
「おじしゃん、こんにちは」
「おお、こんにちは」
道彦は膝を折って、翔太の目の高さに自分の顔を持っていった。それから彼は翔太の肩に両手をのせ、にっこり笑った。
「翔太くん。おじさんはね、お母さんとお話があるんだ。だからここにいる綺麗なお姉さんとちょっとの間遊んでてくれるかな」
翔太は道彦と遙の顔を代わる代わる見つめた。
遙はそんな翔太に頷いて見せた。
「うん、わかったよ」
翔太は美佳子の差し出した手を取った。
「おかあしゃん、行ってきます」
遙は微笑むと手を振った。それから美佳子のほうに顔を向けた。
「お願いします、美佳子さん」
美佳子は頷くと翔太の手を引きながら部屋を出ていった。
後には遙と道彦二人が残された。
しばらく沈黙が流れた。
壁に掛けられた丸い時計がチックチックと時を刻んでいく。
遙は何となしにドキドキしながら彼女の叔父を振り返った。
「あ……」
その時、いきなり彼女の目に縹緲たる風景が広がったのだ。
それは目の前の道彦と重なっていた。
虚ろだった。
子供の頃に見たのと同じ青い海原、深い深い森の奥の清らかで透明な泉、戯れる小さな天使たち───様々な風景が浮かんでは消えていく。
そして───
金色と銀色の幾重にも重なり合う透き通った幕が彼女を飲み込もうと迫り来る───その金銀の帳が身体を優しく包み込んだ。
遙は言いようのない陶酔感に包まれた。
彼女は目を閉じる。
すると彼女はその生ぬるく気持ちのよい空間から、優しく押し出された。まるで誰かにそっと押し出されたかのように───
「愛する君よ───」
一つの優しい声が聞こえる。
(この声……私は知っている……)
彼女の心の底で、誰かが囁いた。
そして───
「愛しい者よ───」
もう一つ別の声が聞こえてきた。
耳ではなく、彼女の心に響き渡る玉音たる美声───
(この声は……)
遙は振り向いた。
閉じられていた瞳はひらかれていた。
そこには誰かが佇んでいた。
遙は目をこらして見つめた。
その人物はシルエットだけで、どうしても見きわめることができない。
彼女は一瞬目がくらんだ。
その場に倒れそうになる。
(ああ……!)
その瞬間、力強い腕に抱き留められた。
遙はこの腕を覚えていた───というよりサーラが覚えていたと言ったほうがいいだろう。
はるか昔、サーラが幼いころ、たった一度だけこの腕に抱きしめられたことがあった。その人物はサーラのことを『真実の名』で呼んでいた。
『サランディーア』と───
「遙! 大丈夫か」
実際、彼女の身体を支えていたのは皇道彦であった。遙は目を閉じ、彼の腕に身を任せている。
彼女の顔面は蒼白だった。
道彦はしっかりと抱き留め、彼女の名を呼び続けていた。
そのころ、翔太の手を引いて歩く美佳子の心は千々に乱れていた。
二人は廊下を歩いていた。
相変わらず誰もいない。
翔太はさきほどからずっと黙ったままだった。
そんな彼に気づかないほど、美佳子の心は穏やかではなかったのである。
彼女にはどうしようもないのだ。自分の心までは押さえることはできない。遙が目覚めなければ地球は救えないのだ。だがそうなれば道彦は恋人のもとに戻ってしまうだろう。
彼女は頭を振った。
本来なら傍に近づくことも、想いを寄せることも叶わぬ高貴な存在なのだ。たとえ道彦が自分のもとを去ってしまっても、それは仕方のないこと。
(どこまでも愚かな人間でしかない。生まれ変わっても私は私なのだ)
彼女は泣きだしたくなった。
自然に翔太の手を握る手に力が入る。
(嘆くことはない、愛し子よ)
美佳子はハッとして立ち止まった。
その声は耳ではなく、彼女の心に響いてきたのだ。
「おねえしゃん、どうしたの?」
美佳子は翔太を見下ろした。
彼は不思議そうな顔で彼女を見ていた。
つぶらな瞳が思わず微笑みを誘う。
「ううん、何でもないわ。近くに公園があるからそこで遊びましょ」
「うん!」
翔太はニパッと笑うと先に立って歩きはじめた。
彼女はそんな翔太を後ろから追いかけた。走りながら、なぜか心が解放されたように清々しく感じていた。
そして───
研究室では遙が道彦の腕のなかで目を開けていた。
「おじさま、私……」
彼女はこめかみを指で押さえた。
道彦はそんな彼女を傍にあった椅子にそっと座らせる。
「大丈夫かい?」
「ええ……」
彼女はまだボウッとしているらしい。喋る声が心なしかフワフワしている。
「私、どうしたのかしら……」
遙は意識が混濁しているのを感じた。何か重要なことがあったような気がするのだが、うまく思い出せない。
彼女は道彦に視線を合わせた。
「それより……おじさまは私に……何のお話があるの……?」
彼女のおぼつかない喋り方に道彦はひどく心配し、言った。
「本当に大丈夫か? 何なら休んでからでもいいのだぞ」
「いいえ、おじさま!」
遙の声はなぜか切羽詰まった感じだった。
「なぜかはわからない……でも私の中の何かが、今おじさまの話を聞けと叫んでるの…」
道彦は訝しげな表情をした。
しかし頷くと話しはじめた。ゆっくりと、かみしめるように自分自身その内容を確かめるように───
そしてまさにそのころ、美佳子と翔太は大学に隣接した児童公園にやって来ていた。
二人はブランコに乗って揺られていた。
さきほどからキャーキャー騒ぎながら乗っていた翔太が急に静かになった。
美佳子はそれに気づき、翔太をのぞき込んだ。
翔太はジッと前方を見つめている。
その目を見た時、なぜか美佳子は一瞬ぞくりと背筋に冷たいものが走り、身体が硬直するのを感じた。
「おねえしゃん……」
急に翔太は美佳子に顔を向けた。
翔太の瞳は、つぶらで愛らしいものだ。彼女は首を傾げた。さっきのはいったい?
「ねえ、おねえしゃんはおじしゃんのことしゅき?」
翔太の言葉に彼女はニッコリした。さきほど感じたものは錯覚だったのだろう。
「好きよ。だあい好き」
「ふうん、ぼくはねえ、おかあしゃんがだあい好きだよ」
翔太は妙に大人びた笑顔を一瞬見せた。
「そうだ。おねえしゃんにお歌を歌ってあげる」
「まあ、ありがとう」
美佳子はにっこり微笑んだ。
翔太もにこっとすると、歌いはじめた。彼の声は高らかにどこまでも届きそうだった。本当に楽しそうである。
美佳子は翔太の声を聞いていると、なぜかとても勇気が湧いてくるのを感じずにはいられなかった。