第7話「悪夢の契約」
その頃、皇道彦は一人研究室で物思いに沈んでいた。
構内は死んだようにシーンとして静かだった。日曜日の大学である。
彼はそんな日のここがとても好きだった。だからよく日曜日もこの研究室に来ていたのだ。彼の研究室では、恋人たちの睦言が交わされることもしばしばあったであろう。
彼は窓を背にして回転椅子に座っていた。優雅に足を組んでいる。
椅子のひじ掛けにひじをのせ、指は顎を支えていた。
目は薄く開けられ、表情は虚ろだった。
身体全体から彼特有の気だるさが漂っている。
完全に自分の思考の世界に迷い込んでいるようだ。
(あの時、あの人が私の記憶の封印を解き放たなければ、私はこんなに苦しまなくてもよかっただろうに……全てはあの時から狂いだしてしまったのだ)
二十五年前、遙が生まれた時、ある人物が道彦の前に現れた。圧倒的な美しさと威厳を持って。
その日、道彦は自分の姉に女の子が生まれたのを聞いて、姉の家へと急いでいた。
七月のうだるような暑さが、一生懸命走る道彦少年を容赦なく襲う。
彼の走る道路はまだアスファルトが敷かれていない小道で、ここ何日も雨が降らないため走るたびに土煙がもうもうとたっていた。
ここから東に五百メートルほど離れた場所に大きな国道が走っていて、その先には海がある。
道彦が子供の頃は、まだ砂浜がとても白くて美しく、日本海の海の青さは透き通るほどだった。国道沿いの松の並木は何キロも続き、情緒あふれる景色を見せている。
砂浜から北の方角に半島が大きく見え、振り返って南には富士山のような大きな霊山がそそり立っていた。地形が海に向かって大きく湾曲しているため、その山はまるで海から突き出しているようにも見えた。道彦が走っている場所からはそれらの光景は見えないが、彼はいつもその砂浜から海を眺めるのが好きだった。暇さえあればいつもいつも海に足を運び、時を忘れて見つめ続けていた。
しかし、道彦はいつもその風景を眺めるたびに、何かが足りないと感じていた。
なぜかはわからないが、誰かとこの景色を見なくては、という気持ちを常に持ち続けていたのだ。
さて、少年の家からわずか百メートルの距離に目的地はあった。
「?」
彼はいつの間にか見たこともない道を走っているのに気がついた。
さっきまで見慣れた風景が流れていたはずなのに───
彼は立ち止まった。
足下の道はいつもの砂利道と変わらない。が、しかし───周りの風景が妙にぼんやりとしている。まるですり硝子の向こうを見るようなそんな感じだ。
道彦はいったい何が起きたのかさっぱりわからなかった。
怖いというより困惑した。
彼は辺りをきょろきょろと見回した。
「道彦。こちらだ」
その時、何とも言えない綺麗な声が聞こえた。
彼はサッと振り返る。
「!」
道彦少年は言葉を失った。というより失神しかけた。
彼の周りは一瞬のうちに見たことのない世界に変わっていたからだ。
それはテレビの特撮でしか見たことのない星の瞬く宇宙だったからだ。
しかし彼は宙空に浮いているという訳ではないようだ。しっかりと大地を踏みしめたように、確かな感触が彼の足には伝わっていた。
それで少しは自制心が働いたらしい。
その時、道彦は自分を見つめる視線を感じた。
彼は顔を上げ、目をこらした。
彼に対峙して誰かが前方の空間に浮かんでいる。見たところ女性のようだ。それは十歳の少年には見たこともないほどの麗しい女性だった。
「道彦よ」
その女は微笑みを浮かべ、口を開いた。
長い真っ直ぐな髪は、目もさめるような黄金に輝いている。それは風もないのに左右にたなびいていた。
そう。その女はこの宇宙を管理するオムニポウテンスの長女スメイルだった。
スメイルは本当に美しかった。まさしく神のつくりたもう芸術作品───
彼女は衣服を身につけていなかった。しかもあろうことに透けていた。
幽霊のように腰から下が溶けたように消えている。そのため身体の向こう側にあるはずの星や星雲が彼女とダブって見えていた。
まるで彼女を飾るための宝石のようだ。それが、さらにも増して彼女の神秘性を醸しだしていた。
「道彦よ」
そのスメイルがもう一度彼を呼んだ。
道彦は震え上がった。
その声はとても優しく、恐れるに値しない声音なのに彼は物凄い恐怖感に襲われた。
ただ彼はその声に反応したわけではなかった。
道彦は彼女の目を見つめていた。彼女の双眸は冷たく、全く感情がうかがえない。彼はこんなに冷酷で酷薄な目を生まれてこのかた見たことがなかった。
それもそのはず。彼はまだたったの十年しかこの世に生きていないのだから。
だがこんな目をいったいどれくらいの人間が見たことがあるというのだろう。
悪魔をもひれ伏させるほどの瞳、それほど戦慄を覚えるこの双眸を───
「私が怖いか。そうだろうとも。幼いお前には私が何者かわかろうはずもないからな」
スメイルの微笑みに軽蔑の色が浮かんだ。
「お前のような愚かな人間に話したとて理解など出来んだろう。何も知らぬ今のお前とは話にならん。これからお前の前世の記憶を戻してやろう。感謝するのだな」
彼女のその言葉が終わるか終わらぬうちに道彦は頭に衝撃を受けた。
まるで何かフィルターが掛けられていたのを、無理やり引き剥がしたかのような感覚が彼の小さな頭のなかに広がった。
頭を抱えてその場にうずくまる道彦。
「ホーッホ、ホ、ホ! これは面白くなりそうだわ。これでしばらくは退屈せずにすむというもの」
彼女は高笑いをした。実に楽しそうな様子である。スメイルはいたぶることの喜びに酔いしれてる。
ひとしきり道彦は苦しんでいた──が、唐突にそれは終わったようである。
頭を抱え、苦しみにもだえていた道彦の身体は、震えがぴたりと止まった。
しばらく彼はそのままの恰好でうずくまっていた。
そして彼はゆっくりと頭をもたげた。
そこには、道彦少年のすっかり変貌をとげた表情があった。
さきほどまで見受けられた幼げな感じが全く消え去っている。
顔は十歳の少年なのだ。しかし冷たい視線、歪められた薄い唇、そして何よりも少年を包み込むその気高いオーラは、子供ではなく立派な大人のものであった。
「道彦よ……いや、リカールと言ったかな」
彼は自分にいったい何が起きたのか把握できていないようである。
頭を抑えていた両の手のひらを、不思議な物を見るようにジッと見つめていた。
だが、スメイルの呼びかけに身体がぴくりと動いた。
それからおもむろに周辺をきょろきょろ見回した。そしてその目がスメイルを見つけた。
「リカールよ」
「なぜ私の名を知っている」
道彦はそう言ってから自分の声に驚いた。
「なんだ、この声は……」
全く声に不釣り合いの喋り方だ。
彼の声はもちろん十歳の少年のそれである。
彼は慌てて両手で顔を触った。身体もあちこち触ってみる。
それからもう一度スメイルに向き直った。
「お前は何者だ。一体私はどうしたというのだ」
スメイルは彼の目の前でゆらゆらと揺らめいていた。
その美しい顔を歪めてニタリと笑う。
「おお、記憶が戻ったらしいな」
「何だと?」
道彦は驚いた。
そして何もかも思い出した。自分の置かれた状況を。そして自分のいるところは故郷を遠く離れた場所だということを。
それにしても道彦の喋り方は、小さな少年から出てくる言葉ではなかった。どうしてもこっけいに聞こえてしまう。
「ここはどこだ。私たちの試練は終わったのか?」
スメイルはイヤらしくニヤニヤ笑うだけで彼に答えようとしない。
それが道彦には不快に感じられた。
「笑ってないで答えろ。お前は誰なんだ? サーラはどこにいる?」
「お前、お前と気安く呼ぶな。私はスメイル、この世界の神だ」
「え…か…神?」
道彦は一瞬考えた。
「そうか……この世界ではアドミニスターを神と呼んでいたな……」
彼はそう呟いた。
そして今度は態度を改めた。
「貴女もオムニポウテンス様の血族の方なのですね」
「娘だ」
スメイルはムスッとした顔をした。
「そうなのですか。貴女が来てくださり、私の記憶が戻ったということは、私たちは自分たちの世界に帰れるのですね」
道彦の顔は晴々としていた。
スメイルも不機嫌な顔から笑顔に戻った。しかしその笑顔は意味がまったく違うものである。
彼女は勝ち誇ったように言った。
「早合点してはいけない。まだお前は第一回目の生を今始めたばかりなのだから」
「なんだって?」
道彦は驚倒した。
「どういうことですか?」
「そんなことはどうでもよいではないか」
彼女は事も無げに言い捨てた。
そして、まるで重大な事を発表するように、スメイルはもったいぶって喋りはじめた。
「のう、リカールよ。どうだ、一つ私と賭をせぬか」
「賭……ですか?」
スメイルの言葉に道彦は当惑する。だがスメイルはかまわず続けた。
「そう、賭だ。これでお前が勝てば、すぐに元の世界に戻れるよう、私が取り計らってやろう」
「え? 本当ですか」
彼女はニッコリすると頷いた。
「本当だとも」
道彦は顔を輝かせた。
そんな彼の顔を無表情に見つめるスメイル。
そして再び口をひらいた。これが重要だといわんばかりに───
「しかし、負けた場合は……」
「負けた場合は……?」
道彦は細い首筋をグッと伸ばして、ゴクリと唾を飲み込んだ。
心なしか顔が強張っている。
スメイルはそんな彼を見ると大いに満足げな表情を見せた。
そして一語一語区切って喋りはじめた。
「お前や、その恋人だけでなく、地球の人間は、皆死ぬことになる」
彼女は勝ち誇ったように言った。
それはもう誰が勝つのかわかっているような言い方だった。
「………」
彼女の意外な言葉に彼は言いようのない恐怖を感じた。
スメイルの目が輝いた。彼女は人間の恐怖に歪む顔が何よりも大好きなのだ。
道彦はおそるおそる喋りだした。
「それはいったいどういうことですか」
「言葉通りだ。地球にはご大層な予言が昔からあってな。一九九九年に人類は滅亡するやらなんやら……それをちょっと本当のことにしてやるだけだ」
「何という事を……」
彼には信じられなかった。
世界の秩序を管理するアドミニスターが、そのような暴挙を行うなど、あってよいものなのだろうか。
道彦にはこれ以上何も言うべき言葉が出てこなかった。
そんな道彦をいたわるようにスメイルは言う。しかし、本心からではないだろうということは誰でもわかる。
「心配する事はないぞ。賭に勝てばよいのだからな。それにどちらにせよ、お前たちの悪いようにはならないはずだ」
道彦はわけがわからず、問いかけるようにスメイルを見つめた。
可愛らしい顔を斜めに傾けている。彼女はその表情に答えた。
「お前も神ならばわかるであろう。人の死など何の意味もないということは。本当の消滅とは死ぬことではないからな。特にお前たちにとって、死ぬことは悩むことでもないだろう。一千年が縮まるだけのことだからな」
道彦はハッとしてスメイルを見つめなおした。
一千年が縮まるかもしれない───
彼女の言葉に彼は大いに心を動かされた。
しかし、彼はそのそのことだけに気を取られ、重大なことを見落としていることに気がつかないでいた。
記憶さえ戻らずに暮らしていれば、一千年の月日などあってないようなものだという事に。
だが彼の記憶は彼の意思に関係なく戻されてしまった。
もうどうしようもなかったのである。
道彦はゴクリと喉を鳴らして囁いた。
「それで……いったい何の賭なんだ?」
スメイルは満足そうに微笑んだ。
「簡単なこと。お前の愛する恋人が、予言にうたわれている一九九九年までに記憶が戻るかどうかだ」
「なんだって? そんな……」
彼は呆然とした。
「サーラの記憶が戻ることは……」
リカールが記憶を取り戻したのはスメイルのおかげだった。
だから万にひとつもサーラの記憶が自然に戻ることはない。誰かが戻さぬかぎり───
リカールならば出来ることだろうが、今は一介の人間である。彼はアドミニスターとしての全ての力を奪われているのだ。
大人びた表情の少年の顔に絶望の色が浮かんだ。
はめられた、と彼は思った。
「お前の恋人は今この世に生まれようとしている。お前の姪として……」
スメイルは高らかに笑った。
「さあ、私たちは契約したからな。お前は記憶が戻ったとはいえ、今はただの人間。彼女の記憶を戻してやることは出来ん。だが、案ずることはないぞ」
彼女の言葉に道彦はスメイルを見つめた。
「不思議よのう。人間は時として奇跡を起こすこともあるらしい。私には信じられぬことだがな。まあせいぜい頑張ってその奇跡というものを私に見せておくれ。ホ──ッホホホホホ、ホ──ッホホホホ!」
耳障りな笑い声をその場に残し、スメイルは段々と消えていった。
後にはただ呆然とした表情の少年だけが残された。
そのリカールの記憶を持つ道彦は、いつまでもポツンと立ちつくしていた。
そして───
ハッと気がつくと道彦は砂利道の真ん中でボーッと突っ立っていた。
ギラギラと夏の陽射しが容赦なく彼を照りつけている。
蝉の鳴き声が物凄くうるさい───
彼は慌てて周りを見回した。
平和な風景が目に飛び込んできた。
彼の横を自転車に乗った近所のおばさんが通り過ぎていった。
「夢だったのだろうか……」
しかし、そうではないことを彼は知っていた。
それもそうだろう。
リカールとしての記憶がそのまま残っているのがその証拠であるからだ。
彼は恐ろしくなった。
自分はもしかしたら取り返しのつかないことをしてしまったのではないか───
しかしそれよりも自分の記憶が戻ってきたことのほうが彼には嬉しく感じられていた。単純にそう思っていた。
サーラの記憶を何としても取り戻すのだ。
そして故郷に戻ろう。
彼はスメイルのようなアドミニスターのいるこの世界から、一刻も早く元の世界に戻りたかった。
彼は気を取り直すと、自分の姪として生まれてこようとしている愛するサーラのもとに駆け出した。
夏の日の雲一つ無い青空が広がっている。
これから始まろうとしている、彼の苦悩を知ってか知らずか、空はあまりにも鮮明に青く輝いていた。
正人がどんどん近づいて来る。
相変わらず地球をバックに背負って。
そして彼女の目の前にやって来ると口を開いた。
「帰るのか。地球はあんなになってしまったのに」
彼は振り返った。
彼女も彼の視線の向こうを見つめた。
地球は───変わり果てていた!
美しく、まるで宇宙に浮かぶエメラルドのようだった地球───
それが腐ったさび色に変色してしまっている。
いったい地球に何が起きたというのだろうか。しかし彼女は答えていた。
「ええ、戻るわ。きっと私に出来ることがあるはずよ。私も頑張るからあなたも元の地球に戻るのを祈っていて」
そうだった。
地球は核に冒されてしまったのだ。
愚かな同胞たちによって、もっとも愚かな間違いを引き起こしてしまったのだ。ノストラダムスの予言を自分たちの手で成就してしまった。
全くなんて迂愚な人間たちだろう。自分たちで己の首をかき切るとは。
彼女は思う。
だけど自分もその愚劣な人間と同じだ。
逃げたくて、置かれた苦しい状態から逃れたくて、自分の命を絶ってしまった。そんな私が責めることは出来ないかもしれない。
だからこそ私は自分にもう一度チャンスを与えたかった。
死んでからの新しい人生を、そして崇高な仕事を捨ててまであそこに戻ろうと思った。きっと私を待っててくれる誰かがあそこにいるに違いない。
私はそれを信じて、苦しい道を選ぼう。
彼女は大きく深呼吸をすると今一度、醜く変わってしまった故郷を凝視した。
そして、彼女の後ろに移動していた正人に振り返り、ニッコリ笑いかけた。
彼も微笑み返してくれた。
それから彼女は身を翻すと一気に地球目掛けて急降下していった。
彼女の心は澄みきった青空のように清々しかった。とても気持ちがよく彼女には感じられていた。
そんな彼女の目に地球がだんだん近づいて来る───
藤沢美佳子はそこで目覚めた。
ベッドに横になったまま、涙に曇る天井を見つめていた。
夢は全てを教えてくれた。
自分の前世を、そして自分の役割を。
私は間違っていなかった。
地球をあんなにしてはいけない。
きっとまだ間に合うはずだ。
本来なら彼女は核で汚れてしまった地球に生まれ変わるはずだったのだ。
しかし前世と現世の重なったこの時代に生まれてきてしまった。
これには何か意味があるのだ。
美佳子はゆっくりと起き上がった。
彼女はこのことを誰かに聞いてもらわなくては、と思った。
彼女の頭に皇道彦の顔が浮かんだ。
そしてなぜか遙の顔も───
その瞬間、彼女は行動を起こしていた。
着替えをしながら、せわしく頭のなかは働く。
まず、道彦に打ち明けて、それから彼から遙に連絡を取ってもらうのだ。遙には夢の話がしてあるのでスムーズに伝わるだろう。
一方、遙はまたもや金の王子の夢を見ていた。
渺々たる地球を背にして彼はこちらを見つめている。遙は胸が詰まりそうなほど、息を殺してその美しい面を見ていた。
彼の相好はとても悲しげだった。
「私を思い出してくれ……」
形のよい薄い唇が開かれた。
遙は目を閉じた。
ああ、なんて懐かしい声音だろう。
身体の中がカァーッと熱くなってしまいそうなほどに、心が煮えたぎってしまいそうなほどに、たかぶっている。
彼が近づいて来る───
黄金色に輝きながらゆっくり遙に近づいてくる。彼女は両手を胸で組んでいた。
細くて長い指を広げ、彼女の手をつかもうとその人は手を伸ばした。
彼女はジッとしている。
もう何も怖くはなかった。
私はこの人をずっと待っていたのだ。
誰かか心の奥底で囁いている。
そして彼女は目をひらいた。
「!」
金の貴公子の手が、すぐそこまで近づいていた。
そして今、彼の手が遙に触れたまさにその瞬間!
「あ────ん!」
遙はびっくりして飛び起きた。
隣に寝ている翔太が大声で泣いている。手を突き出し、さかんに動かしている。彼女をさがしているらしい。
彼の目は閉じられたままだった。半分眠っているのだろう。
遙は鷹男に目をやった。
彼は布団を頭からかぶり、もぞもぞしている。起きてみようという意思はないみたいである。
まだ夜明けまでには時間があった。辺りは暗く、闇夜が広がっている。
彼女の目には夢の続きのように金色がちらちらしていた。
遙はフーッと溜め息をつくと翔太に手を伸ばした。
「ほらほら、どうしたのかなあ。お母さんはここですよ。怖い夢でも見たのかなあ?」
翔太はヒックヒックとしゃくりあげ、遙の身体にしがみついた。
「あらあら、大丈夫よ。もう怖いこと無いわ。抱っこしててあげるから、さあ、ねんねしましょう」
遙は翔太をしっかり抱き留めた。
そして背中をポンポンと叩きながら唄を歌いはじめた。
静かに低く───不思議な調べが闇夜を流れていく。
ねーんねん おぼろげに ねんころり
わたしの ふるさと 銀の国
かわいい わが子の あたま撫で
やはり わが子も 銀の髪
ねーんねん 夕べの 夢のなか
わが子と ふたりで 夢話
いついつ いつまでも 夢話
夢の なかまで 銀の国
銀の 十字架を 崇めれば
今宵の 宴は 銀の唄
母も 歌った 銀の唄
天の 国から 迎え来る
ねーんねん おころりよ ねんころり
かわいい 坊やよ ねんころり
おまえも いつかは 銀の使徒
さあ いつまでも ねんころろ
背中を叩く優しく音だけが、薄闇のなか聞こえていた。
すでに彼女の息子は、スースーと安らかな寝息をたてていた。
遙は、それでもしばらくはユラユラとゆりかごのように彼を揺らしていた。
そうしてから彼女は、ようやく翔太を布団に横たえた。
そして自分も同じく布団にもぐり込んだ。
「今の唄、雰囲気いいね。なんて言う唄なの?」
くぐもった声がした。鷹男である。
「『マリアの子守唄』っていうの。子供のころ私が作った物語の主人公に歌わせたものなのよ」
「へえ」
鷹男は布団から顔を覗かせた。
「それってどんな話なの?」
遙はうーんと唸った。
「子供の時に書いた物だからなあ。物凄く稚拙なのよ」
彼女は恥ずかしそうに囁いた。
「大筋をいうと、神様とその選ばれた特別な人間のお話で、その選ばれた人間たちの集団をマリア一族と言ったの」
遙は語りはじめた。
「でね、すっごく安直なんだけど、主人公の女の子とその実の兄っていうのが最初はお互いそれを知らなくて、兄のほうが主人公を好きになってしまうの。だけどそのうち迎えにきたマリア一族の青年とその主人公は互いに好き合うようになり、彼女はその彼について行ってしまう。その頃には兄と妹は自分たちの関係を知ってしまうんだけど、兄の方はどうしても諦めきれないのよ。そしてとうとう彼女を追いかけて、マリア一族を捜す旅に出ることになるわけ。結局彼ら一族は天に帰ることになるんだけど、最後には主人公も自分の本当の気持ちに気づいて、兄を愛していることを自覚するようになる……」
いつの間にか彼女の声は熱を帯びてきていた。
「……とまあそんな内容なんだけどね。ちょっと倫理面から見ても問題アリでしょ。ほんとはね、こんなあっさりしたもんじゃないの。主人公の愛の遍歴はすさまじいわよ。なかには悪魔までが彼女を誘惑して振り向かせようとするんだけど、これがまた簡単に主人公はコロリと騙されてるし、その悪魔の姉っていうのが主人公を迎えにきた青年をたぶらかして愛人におさまってしまうし……自分でも今読むと恥ずかしくなってしまうほどよ」
遙はクスクスとおかしそうに笑った。
「だけどこの唄はちょっといいでしょ。曲も私がつけて結構気に入ってるのよね」
「ふうん。でもいいんじゃない、兄妹で愛し合っても。ほら、ギリシャ神話に出てくる神々ってさ、血のつながった親子だの兄妹で子供作ったりとかするじゃないか。神様がそんなだったら、その神様に作られた人間だってそうしちゃいけないってことはないと思うよ」
「そう?」
遙は天井を見つめながらある人の顔を思い浮かべた。言わずと知れた彼女の叔父の顔である。
「お話としては面白くてそういうのよく書くけど、実際自分がそんな立場になったら生理的に受け入れられないと思うな」
「俺だって……いくら美人でも母親となんて考えただけで身の毛がよだつよ。それだけ俺たちのなかに倫理観っていうのが根づいているんだな。なんてったって人間と獣の境界線なんだからね、それって」
遙はうんうんと夫の言葉に頷いていた。
そうしながら彼女は、自分が段々闇の中に意識が沈んでいくのを感じだしていた。
そしてそれから間もなく───
二人の仲の良い夫婦は、同じく仲良く一緒に夢の世界の住人となったのであった。