第5話「現代~異世界」
春日野遙は台所のテーブルについていた。目の前にはラジカセが置いてある。
彼女は気持ち良さそうにゆったりと頬杖をついていた。
ラジカセからはとても静かに、ある曲が流れていた。
遙は耳をすませて聞いていた。ヴァイオリンの澄んだ美しい調べを。
この曲にはいろいろなアレンジがあるが、彼女は弦楽四重奏で演奏されたものが一番好きだった。
この世で一番美しい音色を醸し出すのは、ヴァイオリンをおいて他にない、とまで思っている遙である。
『パッヘルベルのカノン』───彼女の聞いている曲である。
他にもバッハの有名な曲である『G線上のアリア』や『主よ、人の望みの喜びよ』そして『平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番プレリュード』など。
これらの曲は誰でも一度は聞いたことのある曲ばかりだろう。
彼女は思う。
音楽のほとんどは、どれも人間にとってなくてはならないほどのものである、と。
自分だけだろうか、このバロック調の曲たちは聞いているだけでなんだか誰でも哲学者になれそうな、そんな気分にさせてくれるのは。
世界を想う時、人間の存在理由を考える時や神を身近に感じたい時、これらの曲は絶対なくてはならない。
恐らく、彼女の『魂』に刻み込まれた遠い昔の記憶か、それとも未来の銘記がそうさせるのだろう。
素晴らしい音楽とは、人間をより高度な存在に導いていく道標なのだ。
美しい音楽には人間に奇跡を起こさせる力が秘められている。神に頼らなくても人間自身が奇跡を起こすのだ。
こんな曲を作りだした同胞がいることが彼女には誇りだった。
これは人間だって神にさえもなれるという事ではないのか。それともこの曲を作った人たちは元々神だったのかもしれない。
こういう素晴らしいものを作りだす我々を必ず天上の尊い人は見ていて下さるのだ。きっと私たちが誇りに思うと同時に、その方も誇りに思って下さるに違いない。
その期待を裏切りたくないものだ。
そんな想いにふけりながら彼女、春日野遙は曲を聞き続けていた。
目はとろけそうなほどに恍惚としている。
彼女は完全に自分の世界に彷徨い、入り込んでいた。
宇宙空間が広がっていた。
星々が空気の無い世界で瞬かずに存在している。
その場所はこの宇宙の中心だった。
彼はそこに存在していた。
そこは星の密集した空間だった。
恒星や惑星がひしめき合う、輝くばかりのまばゆさ。
惑星であって惑星でない気体の集まった、非常に高温なその世界に彼は厳存していた。
彼は宙空に漂うように浮かんでいた。
一見、胎児が母親のお腹で丸まっているような恰好に見えるが、彼の姿はまるっきり赤ん坊なのだった。
宇宙空間に漂い浮かぶ巨大な赤ん坊。
何とも幻想的な風景ではないか。
その赤ん坊の周りを、まるで取り囲むように、どこからともなくあの音楽が流れてきていた。
そう、遙の聞いていたあの曲である。
しかし彼は、姿は赤ん坊とはいえ驚くほど表情豊かであった。
彼は地球の人間が作りだしたこの美しい曲たちがとても好きだった。
そしてそんな音楽を形成していった地球人を彼はこの宇宙の中で一番愛していた。
彼はこの宇宙のコスモス・アドミニスターの長、第五百一レベル世界の管理者であり父親である。
名をオムニポウテンスと言い、彼の息子であるこの宇宙をスペース・ジンと言う。
彼のもう一人の息子はその隣である世界に存在し、第五百レベル世界、名をスペース・シンと言う。
その世界を管理するのが彼の弟であるイーヴルであった。
この二つの宇宙がかの双子の宇宙である。
この宇宙の父親であるオムニポウテンスには三人の娘がいた。
そしてその血縁として八人の若者たちがおり、スペース・ジンの中の世界を彼らとともに管理していた。
この世界では『管理者』とは言わず『神』と言っていた。
しかし悲しいことにその『神』であるはずの、オムニポウテンスの愛すべき弟イーヴルは欠陥者であった。
本人はそう悪い人物ではなかったのだが、あることが原因で彼は変わってしまい、永い間人間たちを苦しめてきたのだ。
オムニポウテンスは今まで放任していた自分を責め、弟をいさめようとしたが時すでに遅く、彼はいわゆる邪神に変貌してしまった。
地球時間にすると遙かな昔、まだ人類が地球に誕生するずっと前の事である。
そして両者の間に戦いの火蓋が切って落とされた。
永い戦いの末、結局は兄である善神オムニポウテンスの勝利で幕を閉じた。
しかし、彼はそれでも弟を憐れに思い、反省を願って宇宙の果て、罪人を閉じ込める星リクト星に彼を封じ込めることにした。
同時に彼を支持し一緒に戦ったその配下の八人の邪神達も、宇宙を八つに分けたそれぞれの主だった星々に封じ込められた。
そうしてオムニポウテンスは、スペース・シンとスペース・ジンの両世界を管理する事となったわけである。
「お父さま!」
彼が気持ち良く地球の音楽を楽しんでいた矢先、その空間に血相を変えて進入してきた者がいた。
それは人の姿をしていた。
何も身につけていない身体は透き通るような白さの肌色で、ふくよかな胸はその者が女性であることを伝えてくれる。
長い長い髪の毛は黄金色に真っ直ぐ伸びて輝き、真ん中から分けられて覗いている広い額は彼女がとても賢い女性だということを物語っている。
しかしその異様なまでに青い瞳は狂人のようにギラギラ光り、決して彼女が見かけのように、たおやかで穏やかな女性ではないことをまざまざと見せつけていた。
「お父さま!」
彼女はイライラした口調でもう一度彼を呼んだ。
「どうしたのだ、スメイルよ」
赤ん坊はそこにいるのだが、この重々しくも荘厳な声はいったいどこから聞こえてくるのかわからない。
「どうしたもこうしたもありませんわ。どういうつもりなんですの。全く信じられませんわ」
「どうもお前の言いたいことが判らんのだが……」
彼は、物凄い剣幕でまくし立てる彼女に閉口して言った。
「なぜなんですの。どうして他の世界の神を我等の世界に受け入れるのです。協定では他の世界に干渉しないよう取り決めてあるではないですか」
なんだそのことか、と彼は思った。
全くこの娘ときたらなんでも口を出さなければ済まないみたいだ。そして彼は言う。
「そのことか。可哀想な彼らの願いを叶えてやってもいいではないか。あんなに我々の地球に来たがっていたのだから」
「全く! 誰も彼も地球! 地球!」
スメイルはフンと鼻でせせら笑った。
「地球のどこがいいのかしら。私にはわかりませんわ。あんな愚かで馬鹿者ばかりの人間たちが私たちの血縁だなんて。おお嫌だ。考えただけで汚らわしい。お父さまもノナビアスもトレーシアも気が違ってるとしか言いようがない!」
心配するように彼は娘に言った。
「スメイル、またお前は二人に何かしたんではないのか?」
「いいえ、お父さま。今のところは妹たちよりこの他世界の亡命者に興味があるので、御心配なく。あなたの最愛の娘たちは当分安全ですよ」
スメイルはそう冷たく言い放った。
「スメイルよ。私は他の子らと同様お前も愛しているのだよ。それは忘れないでおくれ」
「そんな嘘、よくしゃあしゃあと言えますわね。私は信じませんよ。心配なら私をどうにかしてしまえばよろしいのよ。イーヴルおじさまのように。私はかまいませんわ」
そう彼女は言い捨てるとあっという間にそこから姿を消してしまった。
「やれやれ、困った娘だ。取り返しのつかぬ事をしでかさなければよいが……」
オムニポウテンスは辛そうにそう言った。
そして悲しく思った。いつの間にか、あの音楽は消えてしまっていたからである。
とても立派な白亜の殿堂。
恐らくその建物のなかで一番重要であろうと思われる大広間に、大勢の人々が集まっていた。
ここは惑星イエソド、両種族間の会合の間だった。
サーラとリカールはお互い対峙していた。
そしてそれぞれの後ろには彼らの仲間たちが控えていた。金の種族、銀の種族である。お互いを黙って見つめている。
皆一様に同じ眼差しだ。
サーラとリカールの二人は自分たちの仲間を振り返った。
憎しみと軽蔑の露わになった彼らのその目は若い二人を恐怖させた。
そう。彼ら二人はたった今裁かれようとしていたのだ。
リカールはもう一度愛する人の顔を見た。サーラも見つめ返した。
彼はその彼女の瞳に浮かぶ限りない愛を感じ、身体に力が湧いてくるのを感じた。
そして口を開き、一言一言に力を込めた。
「私たちは間違っていますか? 私は金の種族ですが、銀の種族のサーラを心から愛しています」
どよめきがホールに起こった。あちらこちらから不満の声が上がる。
「何ということだ! 我らの長であるリカールが、あんな下賤な銀の娘にたぶらかされるとは……どんな手を使ってたらしこんだのだ、汚らしい銀の雌豚が!」
金の種族の誰かがぼそりと言った。
大きな声ではなかったが、はっきりとホールに響き渡ってしまった。
それを皮切りにあちらこちらから賛同の声やら抗議の声が上がる。
サーラとリカールはその雑言の数々の中で静かに見つめあったまま立っていた。
果して彼らの耳にそれらの暴言が入っているのかいないのか。
サーラは不思議に落ち着いていた。
彼女はいつかこんな風になることはわかっていた様な気がしていた。
それよりも───と、辺りを見回して彼女は思った。
両種族は金と銀とにきれいに分かれて対峙している。そして罵声を浴びせあっていた。
人々のまるで鬼のような表情。相手を憎み殺そうとでもしているような恐ろしい顔、顔、顔の渦! 掴みかかろうとして手まで伸ばそうとしている者もいる。
果して本当にそうしようとしているのだろうか。
意気地のない私たち。
自分の手を汚さない私たち。
私たちはいったい何者なのだろう。
サーラは胸が苦しくなって胸元を握りしめた。
自分たちは世界を管理している、普通の人間たちにとって言わば絶対的な存在なのではないのか。
違う。我々もまたちっぽけな人間なのだ。
寿命が長く、ほんの少し不思議な能力があるだけの、人間たちとどこも変わらない。
それが証拠にこれを見るがいい!
人間たちの戦争と全く変わらないではないか。
まだ悪い。
口ばっかりで本当の戦いというものを知らない連中。
サーラは得も言えぬ憤りがフツフツと沸き上がってくるのを感じていた。
つかみかかってみればいい!
思い切り殴ってみればいい!
頭ばかり大きくなって、全く自分から行動を起こそうとしない奴ら───
しかしなぜか彼女は途端に心が冷静になった。
(でも今までの私もその一人だった。彼に出会うまでは……)
彼女は愛する人を振り返った。
「あなたが私を目覚めさせてくれた」
リカールを見つめる彼女の瞳には、狂おしいほどの熱愛が溢れていた。
「愛しているわ、リカール!」
彼女は一番傍にいた金の種族の男を拳骨で思いっきり殴りつけた。
「サーラ!」
リカールが叫んだ。
その瞬間、全ての騒音が消えた。
彼らは銀の娘サーラを驚愕の目で見つめていた。
一瞬、何が起きたのか皆にはわからなかった。
だが、金の種族の者が最初に行動を起こした。傍にいた銀の種族の者に食ってかかったのだ。
次の瞬間、暴動が起きた。
何億年の間のうっぷんが怒濤のごとく押し寄せる。
サーラもリカールも暴動の真っ只中にいて果敢に応戦する。
しかし痣はできるわ血は出るわで、見る見るうちに美しい顔が台無しになっていった。
「やめんかっ!」
その時、野獣も怯えるような大音声が轟いた。
ホールにいた人々はクチャクチャになった恰好のまま、まだお互いの襟首を掴んだままである。
彼らはハッとして声のしたほうを見た。
その声はホールの入口から聞こえた。そしてそこには二人の老人が佇んでいた。
非常に年老いているのが見て取れる。皺に埋もれたその顔は、どんな表情をしているのかわからない。
一人は金色の長い髭を床まで届かせ、金色のトーガを着用していた。そしてもう一人は銀色に輝く巻毛の髭を床まで垂らして、同じように銀色のトーガを着ていた。
「長老様!」
ホールの全員がそう叫んだ。
二人の老人はしずしずとホールの中に入っていった。
ホールは円形のコロシアムのようになっていて、中央の壇上は低く外側にいくにつれてだんだん高くなっていくようになっていた。 老人たちはその中央の壇上にたどり着き、ぐるりと周りを眺め渡した。
そしてサーラとリカールに目を止めた。
二人はひどい恰好をしていた。服はボロボロに引き千切れ、唇は切れて血が出て瞼は赤く腫れ上がっていた。
老人たちは一瞬面白そうな表情をその目に浮かべた。
それは誰も気がつかなかったようである。
だが次の瞬間、それを引っ込め威厳を持って彼ら二人を呼び寄せた。
「サーラ、リカール。こちらへ」
二人は少しふらつきながら老人たちの傍に近づいてきた。
彼らはさきほども人々が叫んだ通り、それぞれの長老であり先の長たちである。
彼らがサーラとリカールにその地位を譲り渡した張本人だった。
と同時に、周りの人々も相手を掴んでいた手を放して身繕いをし始めた。ホールには急速に秩序が戻りつつあった。
二人が傍までやって来ると長老たちは厳しい顔つきをした。まるで悪戯をした子供をこれから叱るようなそんな雰囲気だった。
まさしくその通りなのだが───
口を開いたのは金の長老だった。
「サーラ、リカール。お前たちは何をしたのかわかっておろうな」
リカールの方はしゅんとして頭を垂れた。
その反対にサーラは自信満々の表情を見せていた。
というのは異様にキラキラと輝く目を真っ直ぐに長老に見せていたからだ。
かつてないほど彼女の銀の瞳は生き生きとして光り輝いていた。態度も堂々としていて、たとえ今死刑を宣告されたとしても彼女は改めるつもりはないだろう。
長老はやれやれと困った表情を見せた。
「サーラ、お前は自分に自信があるらしいのう。じゃが、それは残念ながら自惚れであるぞ。そのことを認識しなければならぬ」
「長老様!」
彼女は長老の言葉に大いに不満を持った。
「私は間違っているとは思いません」
「お前たちが愛し合うことは、間違っているとはわしも思わん。その点では他の者たちがお前たちを裁くことはできん」
「それでしたらっ…!」
「お前の気持ちはよくわかる」
彼女が言い立てようとすると長老はそれをさえぎった。
それから彼は諭すように言葉を続けた。
「だが、立場というものを考えなさい。お前は我々の長となったのだよ。上に立つものが率先して暴動を起こしてどうする。まだ若いから無理もないと言ってやりたいところだがそうもいかん。お前たちは選ばれてこの地位に就いたのだ。充分にこの重責を担うことが出来ると判断されて承認されたのだから、それだけの働きをするのは当たり前だ」
長老はそこで言葉を切ると、じっとサーラの目を見つめた。
「その責任を果たさなければ、誰もお前について来なくなるぞ」
「長老様……」
サーラはさきほどまでの興奮した気持ちが落ちついてくるのを感じた。
長老の声は何よりの特効薬らしい。
すっかり彼女の心は、もとの穏やかなものに戻っていった。
そうすると、サーラはどんどん恥ずかしい気持ちになって、穴があったら入りたい気分になってきた。
彼女は知らず知らずのうちに、隣に立っているリカールの腕をギュッと掴んでいた。
リカールはそんな彼女を優しく支える。
さきほどから銀の長老は、そんな彼らをとても慈悲深い微笑みで見つめていた。そして寄り添う二人を見ると一層その微笑みが深くなっていった。
彼はそんな風に黙ったまま金の長老の隣に立っていた。
「わかるかね、力だけが全てではない。言葉だけでもまた然りだ。だが心のこもった説得は相手の心を動かす。心から相手に訴える、その気持ちが大切なのだ。特に上に立つものはな」
長老は再び周りを見回した。
「見なさい、同胞たちを」
サーラとリカールは手を取り合い、自分たちの仲間を見渡した。
「暴動がエスカレートすれば怪我だけではすまない事になる」
静かに、だが力強く彼は言う。
「彼らは暴力というものに慣れていない。慣れていない者は加減というものがわからないものじゃ。下手をすると取り返しのつかぬ事になるところであった」
サーラはすっかり意気消沈してしまった。
いったいどうしてしまったのだろう。
自分はいったい何をしたのだ。
チラリと仲間たちを一瞥し、彼女はまたしても自己嫌悪に陥ってしまった。
サーラは充分取り返しのつかない事をしてしまったと思っていた。そしてリカールの手を放すと長老に向き直った。
「申し訳ありませんでした。どんなおとがめでも受けます」
彼女は深々と頭を下げた。
そんな彼女を見て、リカールも慌てて直立不動になり訴えた。
「長老様。サーラのせいではありません。全てこの私が悪いのです。ですから彼女ではなくこの私を罰してください」
そして彼も彼女以上に頭を下げた。
長老は心持ち頷き、それから仲間たちを振り返った。そして言った。
「どうだろう、同胞たちよ。彼らの処分はこの老いぼれに任せてはもらえまいか」
長老の言葉に彼らは誰も彼も頷いた。
彼は満足げに微笑むともう一度サーラとリカールを振り返った。
二人は既に覚悟を決め、長老をジッと見つめて沙汰を待っていた。
「それでは申しつける。金のリカール並びに銀のサーラはこれよりアドミニスターの任を解き、向こう一千年間人間として生きることを命じる」
ホール中にざわざわとざわめきが起きた。
リカールは目を剥いたが、じっと黙って拳を震わせていた。
サーラは長老を見つめていた目を大きく見開いた。
彼女の表情は信じられないことでも聞いたかのようだった。その様子は明らかに喜んでいる。
「長老様!」
彼女の声にも喜びが感じられる。
「そのような罰でよろしいのですか。私は嬉し……」
長老は人指し指を立て、彼女の言葉を遮った。
彼のその仕種は妙に悪戯っぽく彼女には見えた。
「お前たちはまだまだ修行が必要だ。人間のこともよく知らなければアドミニスターとしてより良い管理は出来ぬからのう」
長老は今にも笑いだしそうだった。しかしさすがにうまくそれを隠しているようだ。
「それでしたら私、一つだけわがままを言わせてください」
「はてなんじゃろ」
サーラは恐る恐る言った。
「私たちのこの世界ではなく、第五百一レベル世界の人間として生きさせて下さい」
「うーむ。またお前はそんな難しい注文をする……」
長老は思案顔でそう言った。
「よかろう、サーラよ」
すると、さっきまでずっと黙り込んで様子を見ていた、銀の長老が初めて口を開いた。
「わしがなんとかあちらの世界のアドミニスターに交渉をしてやろう。その代わり、ここでの記憶は一切消した状態で行かねばならぬぞ。よいな」
「有り難うございます。長老様」
彼女は愁眉をひらいた。
それからリカールを振り返った。
その彼女の瞳が心配そうに曇った。
彼はサーラに力なく微笑んでいる。
それはどうも納得のいかないといった様子であった。
「リカールは不服なの?」
しばらく考えてから彼は答えた。
「正直言って私は人間として生きるなんて御免なんだ……でも君と一緒ならがまんできると思うよ」
彼は自分に納得させるように、努めて明るく振る舞おうとしているようだ。
「たとえ記憶を無くしていたとしても必ず君を捜し出す。そして一千年の後、必ずこの地に帰ってきてみんなの祝福を受けよう」
「そうね。金と銀の抱合……夢のようだわ。何億年と続いた確執の終結なのね」
二人は感動に胸を震わせ、互いの手を取り合った。
そんな二人を満足げに見つめる二人の長老たち。
次の瞬間、金の長老が音吐朗々と人々に告げた。
「これより我らは金と銀、仲良う手に手を取ってこの世界を守っていこうぞ。そして我らが愛しい若者二人が、今より一回りも二回りも大きくなって帰って来ることを祈って、旅へと送りだそう」
「お────!!」
歓声と拍手が響き渡る。
それはいつまでもいつまでも大ホールをうめつくさんばかりに鳴り響いていた。