第4話「異世界~現代」
深い深い森の奥にそれはそれはとても綺麗な泉があった。
そこは周りを鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ陽の光のあまり届かない場所だった。
しかしその泉にだけはまるで光のカーテンのように陽光が降り注いでいた。
ここには、銀の娘サーラにいつもついてくる陽気な妖精たちも滅多に近づいてくる事はなかった。
サーラは泉のほとりに黙座して、そよとも動かぬ水面をぼうっとして眺めていた。
彼女はリカールを待っていたのである。
そこはまるで時が止まってしまったかのような別世界だった。動くものが全くないのだ。
一幅の絵画のような風景である。
厳粛な空気が辺りに漂っていた。
そんな空気のなか、サーラは水面に映る自分の姿を見つめていた。
完璧に整った面。
今は何の感情も見えない無表情な顔が、まるで鏡に映し出されているかのように水面に映っていた。
しかしどうやら彼女は、そんな自分の姿も見ているようで見ていないようである。
彼女はよく一人になると永い永い時間、そうやって人形のように動かなくなることがある。
今までも一風変わっていたが、リカールに出会ってからは特に拍車がかかったようだ。まるで身体だけそこにあって、心はどこかを彷徨っているかのような感じである。
しばらく静かな時がサラサラと流れていった。そしてようやくリカールが到着した。
彼がやって来ると、途端にこの場所は活気を取り戻したかのようだ。
先程まで全くといっていいほど無音だったのが、彼の草を踏む柔らかな音や衣擦れの微音で、むしろうるさいくらいである。
そしてどうやらそよ風まで吹きだしてきたらしい。
樹木達の囁く声が聞こえている。
しかし、サーラは相も変わらずじっとして動かなかった。
リカールが近づいてきて、座るサーラの肩に手をそっと置いた。
すると次第にこの世界に彼女は戻ってきたみたいである。
その瞳に表情が見えだしてきたからだ。ゆっくりとリカールの手に自分の手を重ねるサーラ。
「待たせたね」
リカールが声を掛けると、彼女はほうっと溜め息をひとつついて、ささめくように言った。
「ああ! リカール。素晴らしいわ。あんなに美しい音楽を私は聞いたことがない。あれはどこの世界の音楽なのかしら」
リカールは思案顔で彼女に聞いた。
「音楽? いったいどんな音楽なんだ?」
サーラは歌った。歌詞のない曲である。
リカールは彼女の傍らに座ると目を閉じてそれに聞き入った。
静かに流れるその曲は確かに美しかった。彼も聞き惚れてしまうほどだ。
川の水が脈々と流れゆくような、螺旋階段を段々と上がっていくような、そんな絶え間ない音の連なりが二人を包み込んでゆく。
「なんて美しい。こんな音楽は聞いたことがない」
サーラの瞳はまだ夢見心地だった。
リカールはそんな彼女を見つめた。彼は確かにこの曲も美しいと思ったが、それよりもサーラの方がもっと美しく見えていた。
「パッヘルベルのカノン……」
「えっ?」
リカールは聞き返した。
ハッとするサーラ。
「私、何か言った?」
「ああ、何とかのカノンって……」
彼女は遠くを見るような目をし、一生懸命何かを思い出そうとしていた。
「そう、パッヘルベルのカノンだわ。それがあの音楽の名前なのよ、きっと」
「どうして……?」
リカールは不思議に感じた。
──パッヘルベルのカノン──なんて美妙な響きだろう。
まさにこの音楽にふさわしい名前だ。彼は目を閉じ、その名前を心でかみしめた。
「夢を見たの。夢の中でその音楽がずーっと流れていたわ。夢の内容はすっかり忘れてしまったけど、その音楽だけはハッキリと覚えている。ああ、リカール! 私その世界に行ってみたいと思うわ。きっととても素晴らしい世界なのでしょうね」
「そうだね。私は君さえいれば別にどこでもかまわないんだが……私もあんな美しい音楽が聞けるなら行ってみたいよ」
サーラは再び泉の水面を見つめながら、あの音楽を口ずさみ始めた。
まるで森も泉も彼女から流れ出る曲に耳を傾けているような、そんな感じだった。
そしてその『パッヘルベルのカノン』が流れるなか、遙の夫である鷹男は夢の中でツバメになっていた。
大空を飛び回り、自由にどこまでも飛んでいけるツバメに。
その彼の耳にはその曲の調べが遠くの地上から届いてきた。
ああ、なんて美しい調べだろう。
彼はその曲が聞こえる地上へと急降下していった。
だんだんと地表に近づくにつれて、辺りの様子がわかりだしてきた。
その彼の目にある人間が見えてきた。
男の子だった。
自転車に乗って、友達だろう他の男の子たちと軽やかに走っている。
さきほどから聞こえている調べは、どうやらその少年の方から聞こえてくるらしい。
彼は迷わずその子に向かってずんずん降りていった。
もうすぐで少年にたどり着こうとしたその瞬間!
彼は物凄い衝撃に吹き飛ばされた。
何かにぶつかったらしい。そしてどこか柔らかそうな場所に落ちた。
ちょっと臭い。
そうこうしていると彼は誰かにひょいっと拾い上げられた。
ほとんどもう意識はない状態だったが、彼は一瞬垣間見た。消えゆく意識の中で、あの美しい曲をバックに佇む少年の姿を。
優しく慈悲に満ちたその顔を───
彼はガバッと起き上がった。
いつもの朝、カーテンの隙間から差し込む陽射しは、今日もいい天気になりそうだと教えてくれている。
隣の布団には、彼の息子と妻が寝息をたてていた。
まだ起きるには少し早い時間だった。
夢は妙に生々しかった。
彼は昔からよく大空を飛ぶ夢を見てきた。だが今度のようにストーリー性のある内容は初めてだった。
鷹男は考え込んだ。
そしてあの曲───
よくコマーシャルかなんかで聞く曲だったと思う。曲名は知らない。でもとても有名なのだろう、自分が知っているくらいだから。
だけどあの夢!
思い出すと、胸が切なくなるほどの懐かしさがこみ上げてくる。
どうしてだろう。
彼は思いあぐねて寝床で悶々とした。
「お早う、今日は早いのね」
「遙……」
遙が寝床に横になったまま彼を見つめていた。
彼女は変な顔をしている。
どうやら鷹男の様子を心配しているらしい。
「どうしたの、鷹男さん」
「う……ん」
鷹男は言おうかどうしようか思い悩んだ。
「夢をね、見たんだ」
彼は決心して話しだした。
自分がツバメになって大空を自由に飛び回っていたこと。
見たこともない少年が出てきたこと。
何かに衝突してどうやらその少年に助けられたらしいこと。
そしてそれらの事柄が物凄く懐かしいと感じることなどを。
遙は布団から上半身を出して座り、彼の話を真剣にジッと聞いていた。
「それで、あまりに懐かし過ぎて、なんだかじっとしていられない気分なんだ」
彼女はしばらく考えると夫に告げた。
「この間ね、友美と前世の話をしたの」
彼女の声は低く、鷹男の心にしみ込むようだった。
「それで、もし生まれ変わりがあるとしたらその記憶って夢でわかるんじゃないかって私思うの。全然見たことのない場所とか、全く逢ったこともない知らない人間が夢に出てきて、だけどもなぜか懐かしく感じられる。それって今の『私』は忘れているけど『魂』はその事を覚えて心に刻み込んでいるわけなのよ。だからその記憶の断片が、何かの拍子にポロリと眠っている時にこぼれ落ちてくるんじゃないかしら」
鷹男はうーんと腕を組んで眉間にしわを寄せた。
真剣に考える彼を見て、遙は思わず吹き出しかけた。
「もしそれが本当だとしたら、何かい、俺の前世はツバメか?」
「今の名前は鷹なんて凛々しいのにね。いいじゃない。スズメよりはまだツバメのほうがカッコいいじゃないの」
「スズメねえ……正直言うとそのスズメという響きも気のせいか、何となく懐かしい感じがするんだけどなあ」
しきりに首を傾げる鷹男であった。
「さあ、もういいかげん起き上がりましょう。───翔ちゃん! 起きなさーい、朝ですよ!」
鷹男はなんとなくすっきりしない気分のまま布団から這いだしてきた。
遙は出勤途中のバスの中で今朝の鷹男の夢の話を思い出していた。
彼に言ったことがもし本当だとしたら?
彼女は理由はわからないが、なぜか確信があった。
また、そう思う自分自身に驚いていた。
その時、建物の陰に入っていたバスがひらけた場所に出た。
車内にサアッと眩しい朝日が射し込んでくる。
彼女は目を瞬かせながら中断した考えを続けた。
本当だとしたら、私のあの夢も前世に関係あるものなのかしら。
私自身は前世の記憶なんて全くない。でも友美と話したように、私の中にもう一人の前世の私がいるとしたら───
その人は自分の果たせなかった事をやり遂げようと、私の気持ちもおかまいなしに勝手に動きだすのだろうか───あのドラマの主人公のように。
そう考えると彼女は恐ろしくなってしまった。
しかし、ドラマの主人公は特殊な事情でそうなったのである。それに、あくまでもあれは空想であってノンフィクションではない。
彼女は友美に自分の理想を話したが、実は本気で信じているわけではなかったのだ。
しかし遙は心がざわめくのを感じていた。
ああ、だけど何だろう。
この胸に迫る不安は。
何か恐ろしいことが起きるような、この予感は。
遙はバスの窓から空を見上げた。
空はそんな彼女に平和そのものの穏やかな青色を見せてくれていた。
しかし彼女の不安は消されることはなかったのである。
そしてその頃、皇道彦は大学の研究室にいた。
彼は語学を研究する学者だった。いろいろな国の本を翻訳したり他の国の文学について大学で講演したり、そんな仕事や研究などを主にしていた。
「皇先生、よろしいですか?」
道彦は走らせていたペンを止めた。
「どうぞ」
若い女性が部屋に入ってきた。
歳の頃は二十歳ぐらいで、色の白いほっそりとしたなかなかの美人だ。
「あ……お仕事中でしたか。申し訳ありません。お邪魔するつもりはなかったのですけど……」
彼女は慌てて出ていこうとした。
道彦はスッと立ち上がった。そして彼女に近づく。
「いいんだよ、今休憩をしようとしていたところだから」
彼はそう言うと手を伸ばした。扉のノブに掛けていた彼女の手に自分のそれを添える。
彼女はビクッと身体を震わすと、おもむろに振り返った。
道彦は微笑んでいた。とても爽やかとは言い難い笑みだった。
彼女を見つめる彼のその瞳は、なぜか鈍い金色に変わっていた。
果して彼自身気付いているのだろうか、自分の瞳の色の変化に。いや、少なくとも彼の前にいる彼女にはわかっているらしい。
彼女の目がその瞳に釘付けになっていたからだ。
妖しく光る金の瞳。
道彦の瞳は普段は薄い茶色で、日光を当てない限り金色に変色することはない。だが彼の瞳は、陽の光を当てなくても金色に変わる時があるのだ。
それは激しい感情の起伏が見られる時。
いつも穏やかで紳士的な彼が、その姿に似つかわしくない欲望に満たされた時───
まさに今この瞬間である。
道彦は添えていた手に力を込め、そして彼女を自分の胸に引き寄せた。
「あ、先生……」
「二人だけの時は先生はなしだったろ」
道彦は彼女の耳に囁いた。
「道彦さん……」
「よしよし、いい子だ」
道彦は彼女を抱く手に力を入れ、荒々しく口づけをした。
研究室の窓から見える空はとても青く、今日も素晴らしく良い天気だった。
重なり合う二人にも、その暖かい陽の光が惜しげもなく降り注いでいた。
彼は普段から、姪に対するそのやるせない気持ちを打ち消すように、様々な女性と情事を重ねてきた。
その中でこの女子学生は彼が最も気に入っている女性だった。道彦はこの女子学生に、思いの通じぬ遙を重ねて見ていたのだ。
藤沢美佳子、二十歳。
国文学を専攻する彼女は、この大学でも評判の美人学生だった。大学に入りたての初めての大学祭の時、彼女はミスコンでグランプリを取ったくらいである。
彼女のストレートな髪は、前髪が眉毛ぎりぎりでカットされており、後ろは腰まで伸びていた。薄茶色で道彦のように陽に当たると見ようによっては金色に見える。
よく見ると、心なしか彼女の瞳はブルーがかっているようだ。
それもそのはず、彼女は日本人の母とイギリス人の父を持つハーフだったのだ。
ハーフには優秀な人間が多いと言われている。御多分に漏れず彼女も優秀な頭脳を持っていた。
頭がよく顔もいい、その上彼女はとても性格が優しくと三拍子揃った女性だった。
もちろん世の男性諸君は彼女をほっとくわけがない。
しかし彼女は皇道彦を愛してしまった。
美佳子が初めて道彦を見たのは、彼女が専攻していた学科の非常勤の講師として教室に入ってきた時だった。
彼女は大げさに言うと彼を見た時、運命を感じたのだった。
なぜなのかわからないが、この人を救ってあげなくてはと思ったのだ。
そう思って彼女は驚いた。
──救う? なぜこの人を救わなければならないのだろう。
だが、そう思った瞬間に彼女は道彦に恋していた。
その反対に道彦は随分立ってから彼女の存在に気付いたようである。
彼女が足しげく研究室に押しかけてくるようになってからだ。
初めは、彼女のその容姿に惹かれ彼女の相手をするようになった。
しかし、だんだんと彼女にのめり込むようになると、他の女性が全部つまらない存在に変わっていった。
もちろん遙への愛は変わらなかったから、その愛の対象を美佳子に転換していたのだ。
そして、美佳子にはわかっていた。自分が本当に愛されているわけではないということを。
彼が愛している、誰かの代わりでしかないのだと。
しかしそれでも彼女はよかったのだ。
彼との繋がりが切れないかぎり、彼女は彼から離れるつもりはなかったのである。
彼女は心に誓っていた。自分は道彦を必ず救うのだ。そのためだけに自分はこの世に生まれてきたのだから。
この人を愛するためだけに───