第10話「スメイル登場」
一方、遙は───
彼女は翔太を連れ、大学に急いでいた。翔太はそんな母に手を引かれている。
息子を連れて行こうかどうしようか迷っていた遙であった。しかし、翔太はどうしても母についていくと言ったので、連れてきたのである。
遙は再び前方を見つめた。
彼女は不安で心がはち切れそうになっていた。
とうとう来てしまったのだ。
そして、息子の手をつなぐ自分の手に力を入れた。
(怖い───)
彼女は足下の地面が今にも崩れ落ちてしまいそうに感じた。
その心のぐらつきを支えきれなくて、遙は思わず立ち止まってしまった。
「おかあしゃん?」
ハッとして翔太を見下ろす。
母親を気づかう、優しい息子の顔がそこにはあった。
彼女は勇気が湧いてくるのを感じた。どんなに母親失格でも頑張らなくてはならない、と彼女は思った。
そしてもう一度愛する息子の顔を見つめ、歩き出す。
遙は全く気づかなかった。
自分の感情で目がくもっていたのだろう。
彼女の息子、翔太がいつもの彼とどこか雰囲気が違っているのを───
翔太はとてもおとなしく自分の母親の後を歩いている。その表情はボーッとしているように不明瞭だった。
そしてそのころ、大学の研究室では道彦がもどかしそうに彼女らを待っていた。
今日の大学は学生たちがあふれ、活気があって華やかだった。彼の心とは全く正反対である。
その時、扉を叩く音がして、彼は飛び上がりそうなほどギョッとなった。
「先生、いらっしゃいますか?」
道彦の返事を待たずに、ドアが勢いよく開けられた。
四人の男女がドッとなだれ込んできた。
「君達は……」
彼らは道彦が講師をしているセミナーの学生たちだった。
道彦は大学内でも偏屈で通っていた。
だからその容姿や能力に関わらず、教授たちや学生たちに煙たがれていた。
なかにはミーハーな女学生たちもいるにはいたが、そういう彼女たちはもっぱら彼の肉体にしか興味はなかったので、そういうとき以外は近寄っては来なかった。
そのため最近では美佳子ひとすじの彼に近づく人間は、全くと言っていいほどいなかったのである。
だから彼らは珍客としか言いようがなかった。
道彦はいつものクールでニヒルな態度が、とっさに取れず、呆気にとられてポカンとしていた。それが妙に滑稽で見ようによっては可愛く見える。
しかし、えり首をすかさず直し、態度を改めた。まるで悪戯を見つけられた子供のようだった。
またその行為自体が、彼の隠された一面を見るようでなかなか微笑ましかった。
「こほん。一体何の用だね。私は忙しいのだが」
彼らは互いに何かヒソヒソしていたが、そんな道彦を見て安心したらしい。
先頭にいた男子学生がようやく口を切った。
「実は僕たち、秋の大学祭でシェークスピアの劇をするんです。脚本はラテン語でしようと思っています。それで自分たちなりの解釈の脚本を作っていこうってことになりまして、そこで是非、皇先生のお力を拝借したいのです。どうか僕たちを助けると思ってご指導お願いいたします」
「お願いします!」
そして彼らは一斉にお辞儀をした。
道彦は困惑の表情を隠しきれずにいた。
彼はこれまで、あまり意識して他人と係わり合いになろうとは思わなかったのである。他人が自分の事をどう言おうが、全く無頓着だったのだ。
それは無理もなかったかもしれない。彼には思いを馳せる大事なことがあったからだ。それ以外考えてみる余裕がなかったのである。
それがどうだろう。
彼は学生たちの不安そうな目を見つめた。しかし、どこか期待に満ちた瞳である。
道彦は魅せられたかのごとく、その瞳に自分が引き込まれていくのを感じていた。
彼は今初めて他人を見たような気がした。
いったい今まで地球人のどこを見てきたのだろう。
そう。彼は自分がいかに周りを拒絶し、自分の殻に閉じこもっていたかをようやく認識したのだった。それなのにこの学生たちは、道彦を見捨てなかった。
道彦は非常な感動に包まれるのを感じた。
彼ら人間とはいったい───是が非でも彼ら地球人を救わなければ、と強く思う。
それから彼は、にっこり笑ってみせた。
今まで見せたことのない笑顔である。
「それは光栄だ。喜んで協力させていただくよ」
学生たちに安堵の笑みが浮かんだ。
そして彼らは再びお辞儀をした。まるで統制のとれた兵隊のようだ。
「有り難うございます!」
道彦は満足そうに頷いた。
「では詳しい話はまたということで……今日はすまないが、これから人と逢う約束をしているので明日……来てくれるかな」
何としても明日が来るようにしなくては、と道彦は思った。
「はいっ! わかりました。それでは失礼します」
学生たちは、きびすを返して次々と出ていこうとした。
その刹那───
物凄い光が窓の外で炸裂した!
その時、美佳子は大学の構内に足を踏み入れたところだった。
何の予兆もなしにそれは起こった。
彼女はただ一瞬のうちに目の前が真っ白になったのを覚えている。
一方、遙は翔太の手を握りしめ、バスから降りたところだった。
一瞬空気が揺らいだ、と感じた途端。
あっと思った瞬間だった。
衝撃が起きた───
恐らく誰一人、何が起きたのか知るものはいないだろう。
そして───
気がつくとそこは真っ白な世界だった。
どこだろう、と道彦は思った。
私はまた死んだの、と美佳子は思った。
救えなかった、と遙は思った。
────────!!!
彼らは等しく我に返った。
「おお、気がついたか」
真っ白く輝く世界にスメイルが浮かんでいた。ゆらゆらと裸の身体を左右に揺らし、彼女は微笑んでいた。相変わらず黄金の長い髪を美しく輝かせ、身体は下半身が透き通っている。
「お前は!」
道彦がスメイルの姿を認め、叫んだ。
「約束が違うではないか! 私は賭に勝ったぞ!」
彼女のその美しくも妖しい顔には、何の感情も見えていなかった。まるで作られた精巧な機械のようだった。
そのロボットのようなお面が無感動に喋る。
「おや、お前は私を呼び出しもせずに、よくもまあそんなことが言えたのう。恋人の記憶が戻ったのならそう言えばよいのに」
「なんだって?」
道彦は叫んだ。
次にスメイルは遙に目をやった。
「ほう、お前がサーラか。いやいや、今は遙という名の人間であったな。残念だったのう。もっと早くに記憶が戻れば、地球を救うことが出来たろうに」
スメイルはイヤらしくニタリと笑った。
それを見た美佳子が恐ろしくて気を失いかけた。かろうじて愛する人の腕につかまり、何とか耐える。
「そらっ、これを見ろ!」
スメイルが腕を一振り横にないだ。
すると一気に視界がひらけたのだ。
まるで霧が晴れるように、真っ白だった世界が、色づく世界へと───
地球が見える。
錆色に変色した地球が、大きく見開かれた彼らの目に飛び込んできた。
彼らは浮かんでいた。
宇宙空間に漂っていた。
大きな衝撃が彼らを包み込む。
「見事なものよのう。あれでは生きてる者はおるまい。惨いことよ」
スメイルはそう言った。
彼女は憐れむような言葉を吐いたが、全く悲嘆している様子はなかった。
道彦はすでに言う言葉を失ってしまっていた。
彼の目には、さきほどまで元気に自分の前で笑っていた、あの四人の学生の姿が焼きついていた。きらきらと輝く目を持つ彼らの───彼らは若くてまだ人生はこれからだった。エネルギーにあふれていた。
(どうして───)
道彦は愕然としてワナワナと震えている。
そんな彼に美佳子は、すがるようにしがみついていた。
彼女は自分の心が凍結してしまったのではないかと思った。
そんな空寒さを感じた。
(正人君、どうしよう。頑張るって約束したのに───)
いったいなぜこんな風になってしまったのか、彼女にはわからなかった。
自分はまだ何もしていない。それでは自分は、何のために生まれ変わってきたのかわからないではないか───
その時───
「ずいぶん卑怯なことしてくれますね」
「何だと?」
スメイルは遙をねめつけた。
遙もにらみ返している。激烈な怒りの炎が彼女の目には浮かんでいる。
遙の手には翔太の手が握られていた。その姿は、さながら鬼子母神のようだった。子を守る母の姿───
「あなたは恥ずかしくないのですか」
「恥ずかしい? 何のことだ」
彼女はそらとぼけている。
「ふん、何を言う……」
「それ以上汚らわしい声を聞かせないでちょうだい!」
遙は冷たく叫んだ。
「な……!」
初めてスメイルの顔に血の気が上った。あまりの驚きに仮面が剥がれたのだ。
みるみるうちにスメイルの顔は怒りの色に染まっていく。そんな彼女は一段と美しさが増したようである。
二人は一歩も譲らず対峙していた。
お互いが、にらみ殺そうとでもするかのごとく、二人の間には火花がぶつかり合い、からみ合っていた。まるで二匹の龍が、戦い合いながら螺旋を描いて天に昇っていくかのように───
根本的なところで彼女らは似ているのだ。世界を統べる者の『さが』ともいうべきものであろう。
だが、遙は、いやサーラは子供を産んだ分だけスメイルを凌駕しているやもしれぬ。
遙はどんなに自分を責めようが、母親には間違いないのだ。認めようとしなくても、知らずして親としてのオーラというものをまとうらしい。『母は強し』とはよく言ったものだ。
スメイルはたじろいだ。
それが自分では、なぜかわからない。
ひたひたと予感のような恐怖が彼女の心を支配していく。
これ以上進むと自分は破滅する───そんな感覚が、チリチリと彼女の神経を逆撫でる。
しかし、それでも彼女は敢えて逆らわないではいられなかった。
哀しいさがだ。
「ふん。どうあがいたところで、起きてしまったことはくつがえせない。いくら私でも時を戻すことは出来ぬからな」
最初のころに比べると、ずいぶんと弱気な口ぶりだった。
美佳子は両手で顔をおおってしまった。
道彦は悔しそうに唇を噛みしめた。
遙だけは全く表情を変えようとしない。
ただ、翔太の手を掴んでいるその手に、わずかに力が入ったくらいだ。
その時、翔太の顔がゆっくりと持ち上がった。
まるで遙の手の力が合図であったかのように───ゆっくりともたげられる頭───そして翔太の目が母をとらえた。
表情の無かった遙の目から、ひとすじの光るものが流れた。
彼女の悲痛な心の叫びが彼に流れ込む。
私がこの世界に来たせいで地球はこんなになってしまった。
私の我儘のせいで人々は死に追いやられていった。
人生これからの人もいただろう。
やらなければならない、やりかけの事がある人だっていただろう。
子供だって、大人だって、老人だって、ここで死ぬはずではない人達がむざむざ倒れていった。
不本意だったろう。
悔しかっただろう。
それが全部私のせいなのだ。
もう誰も地球に生まれ変わることはできない。
地球は半恒久的に、死の嵐吹く、錆色の砂の惑星となってしまったのだから───
「私たちにこんな事をする権利はない」
妙に遙の声はとても静かだった。
あまりの憤怒に神経が麻痺してしまったのだろう。
スメイルはひるんだように頬を歪め、横を向いてしまった。
(この私が……こんな女に気迫負けするとは、どういうことだ───)
遙は異世界の住人ではあるが、今現在は一介の人間である。彼女にとってそんな虫けら同然の存在に、なぜ屈辱を感じねばならないのか、スメイルには理解できなかった。
「お前に私の気持ちがわかるか!」
スメイルは叫んでいた。
そんな彼女を見つめる遙。その怒りの視線は衰えない。
「お前も神なら、人間がどれだけ愚かであるかわかるだろう」
確かに人間は善人ばかりではない。
いわゆる悪人と呼ばれる人間も存在するのだ。
しかしその善悪は誰にも決めつけることはできないだろう。
ある人にとって善だとしても、他のある人にはそれが悪になる事だってあり得るのだ。
そして地球の人間たちは無知だ。
世界には自分たちしか存在しないと思っている。
だから地球全体で一つの意識を持つということが、なかなか出来ないでいるのだ。
彼らは神と同じ種族ということを忘れてしまった人たちだ。その肉体としての生を終えないかぎり、彼らはそのことを思い出すこともない。
しかし再び人間としての生を選んでしまったら、その意識も消え去ってしまう。真っ白な状態で、もう一度やり直しの人生を送ることとなるのだ。
いつか人間のまま神へ進化する時が来るだろうか。
そしてもしそうなった時、世界にいったい何が起こるのだろうか。
「人間が神に進化するなど、あり得ない」
スメイルは断言する。
「ただでさえ愚行を重ねるあやつらが、我らと同格になるなど、絶対にあり得ない!」
「あなた方と同じ種族ではありませんか」
遙は言った。
「考えただけでも身の毛がよだつ!」
スメイルは震え上がった。細い手で自分の肩を抱いている。
「私には信じられぬ。やつらがこの私と同じ種族だと───」
遙の視線はあくまで冷たい。
彼女にはスメイルが理解できなかった。
いったいこの人はどういう思考をしているのだろう。
(この人は何のために存在しているの?)
彼女はふとそんなことを思った。そう思った瞬間、遙はスメイルを哀れに感じた。なぜかはわからない。
「あなたは人間を憎んでいらっしゃる。だからこんなむごいことができるのですか」
「そうとも!」
遙の言葉にスメイルは叫んだ。
「私は人間を憎んでいる。人間など滅んでしまえばいい!」
彼女はそう言ってから、何を考えたのか声の調子を変えた。
「だが、憎んでいるからこのようなことをするわけでもないぞ」
遙は眉をひそめた。
「どういうことですか?」
スメイルの目が輝いた。
「楽しいからだ」
そこにいる全員が絶句した。
遙は目を見開いた。信じられない、と言いたげに───
美佳子は両手で耳をふさいでいる。
道彦は呆然としている。
なんということであろう。快楽のみのために生命をもぎ取ってしまうなんて。
(恐ろしい───)
遙たちの気持ちは一つだった。
石のようにかたまってしまった彼らを、スメイルは面白そうに眺めた。
「サーラよ。たかが人間ふぜいのことで、そこまでなぜ嘆く」
「なんですって?」
「どうせもうどうにもならんのだぞ。いいかげん、諦めたらどうだ」
「そ、そんな……」
スメイルの言葉に、遙はだんだんと気持ちが削がれていくのを感じた。
確かにもう地球はあのようになってしまった───
「どうせお前たちはもとの世界に戻されるだろう。地球がこんなになってしまってはどうしようもないからな」
そしてスメイルはニッコリ笑った。
「良かったではないか」
「何ということを……」
スメイルの様子はだんだんとぞんざいになっていった。
「仕方がないではないか。さっきも言った通り、私には時間を戻すことはできんのだからな。ま、地球のことは早く忘れることだ」
遙は言葉を失ってしまった。
美佳子はすでに半分気を失いかけていた。
だが、その時、美香子の目のすみに何かが見えた。
「?」
何かが動いたようである。
(何だろう………)
彼女はその方向に目を向けた。
そして、道彦の腕をつかんでいた手を少しゆるめた───
一方スメイルはというと、ここでの関心が急速に失われてきたようである。
「さて、それでは私は退散させてもらおうかのう。今にお前たちには迎えがくるだろうからな───」
「あ……」
美佳子はあまりの驚愕のため、目を一杯にひらいた。
「?」
彼女のただならぬ様子にスメイルでさえ、関心を向けた。
「見て! 地球が元に戻っていく!」
美佳子の叫び声が上がった。
そして、その場の全ての者が一斉に振り返った。地球を───!
「ああっ?」
異口同音の驚愕の声が上がる。
錆色を不気味にまとっていた地球が、もとの美しい青色に戻っていく───まるで一滴の妙薬を垂らしたように、徐々に広がっていく、その青色。
しばらくの間、彼らはその様を食い入るように凝視していた。
一体、地球に何が起きたというのだろう。
死に絶えてしまった地表が一瞬のうちに元通りになってしまうとは。
一番驚いているのは、もちろんスメイルであった。
それは奇跡としかいいようのない光景だった。
まるで時計が逆回りをしているかのように、それを見つめるスメイルたちの目に映し出されていた。地表に存在する全ての生物たちが、恐ろしい速さで時間を逆上っていく。
「そんな馬鹿な……こんな事はあるはずがないのだ。この世界では時間の逆行は絶対ないはずなのに……」
スメイルは絞り出すように呟いた。
「なんですって……?」
その言葉に美佳子は首を傾げた。
「時間の逆行はないですって?───でもそれはおかしいわ」
「なんだと?」
今度はスメイルが訝しげな顔をした。
「私は未来ではなく過去に転生をしたわ」
「逆行転生!」
スメイルは驚倒した。
「そんなことはあり得ない。私どころか、父にだってできることではない……それができるのは……」
彼女はハッとした。
「ま、まさか……」




