旅立ちの準備
「ひーめー稽古サボって遊びに行こー!!」
練兵場に入るやいなや、稽古をサボろうと誘いをかける女性がいた。
火を思わせる長く美しい赤髪を揺らしながら、女性は練兵場で稽古の準備をしていたフィリアに駆け寄ってくる。
「マリナは相変わらずね。今日は出立前の最終訓練でしょう?」
フィリアは駆け寄ってくる女性――フィアンマ公国の第一公女であるフィリア・コーウェンの従者を務める、マリナ=デフェーズに向けて困ったように笑いかけた。
「大丈夫だってー! あたしがついてたら危険なんてなし! 今ならまだお店も開いてるしさ、重たい甲冑なんて脱ぎ捨てて、アーランフィアナの街へ繰り出そうよ!」
何故か左手の親指を立てたマリナは、満面の笑顔で訓練をサボろうと誘惑してくる。
「アーランフィアナかぁ」
アーランフィアナはフィリア達が住む都市の名前だ。
大陸中央部から少し西にある巨大な湖、フィアナ湖の湖畔に作られた都市。フィアンマ公国の首都であり、美しい水の都としても有名である。
街にはフィアナ湖の豊富な水源を利用した水路が張り巡らされており、水蛇が引く船が往来している。
水蛇は水を浄化する加護を持っているため、アーランフィアナの水路を流れる水は驚く程澄んでいる。澄んだ水が反射する陽光は宝石のように輝き、路行く人々の目を奪う。
フィリアもそんなアーランフィアナの景色を好み、マリナと共に城を抜け出しては水路近くのカフェで景色を眺めたりしていた。
――と、マリナの誘いに街の様子を思い浮かべて、少しだけ迷う。
「魅力的な誘いだけど、サボったらさすがに……」
「拳骨ではすみませんな」
不意にマリナの後ろから長身の老騎士が姿を現した。
「んげっ!? ガミ爺、いつの間に!!」
老騎士の姿を見留たマリナは、動揺して後ずさる。
マリナに拳骨を浴びせようと一歩を踏み出した老人だが、困ったように自分を見つめているフィリアに気づき、足を止めた。
「デフェーズ、お前は後で教導室に来い」
拳骨を免れたと胸をなでおろしていたマリナは、老騎士の言葉に顔を青ざめさせる。
老騎士の名は、ジュラール=ガミラス。
フィアンマ公国随一の騎士と名高い猛将であり、老いてからはフィリアの側仕えの騎士を務めながら後進の育成に励んでいた。
同じく、フィリアの従者を務めるマリナとは同僚であり、かつての教師でもある。
ジュラールは教師の時から今に至るまで、問題がある騎士や従者を見つけると『教導室』と呼ばれる小部屋へと呼び出していた。
養成所時代は様々な拷問器具を用いて更生させられる、と噂されていたが実際は淡々と叱られた後に拳骨をくらい、体力の限界まで掃除やら馬の世話といった労務を課せられるのだ。
養成所時代から教導室の常連だったマリナは拳骨の痛さと労務の苛烈さを思い出し、慌てて言い訳を始めた。
「い、いやいや、旅立ちの前に体力を使いすぎるのも駄目じゃないですか? なので、今日はお休みにしてですね、その……、お仕置き労務とかもなしで……」
あたふたと言い訳を述べるマリナをジュラールは無言で睨んでいる。
「よ、よおしっ! 訓練だよね、やっぱ! 訓練しよう訓練! フィリア、今日も頑張ろーおー!!」
老いてなお衰えない老将の眼光に耐えきれなくなったマリナは、ひどく拙い手のひら返しを見せた。
その様子を見たフィリアがクスクスと笑い、ジュラールは弛緩した空気に溜息をこぼす。
「そうだね。報告が本当なら、ゆっくりしている時間はないしね」
フィリアの言葉に、弛緩した空気が硬くなっていく。
「天秤の消失に、グルガ帝国の侵攻」
ジュラールが言葉を継ぐ。
「それに、ザカート帝国の滅亡、ですか」
そして、マリナも続けた。
天秤の消失。それはこの世界に住まう者達にとって、信じがたいことだった。
天秤――それは、世界の秩序を安寧を保つために、神々から大いなる加護を受けた騎士を指す。
人々の争いが加熱すれば、天から降臨して戦乱を治める。
魔王軍との戦いにおいてその加護は発揮されはしなかったが、世界の歴史と共に語り継がれるその力は知らない者はいない。
フィリアとジュラールも一度その降臨に巻き込まれたことがあり、その強大な加護の力を目の当たりにしている。
事実、魔王との戦い以外では、国が滅ぶ程の大きな戦はことごとく天秤の手によって治められてきた。
「信じられないですね。あの大国がこんなに簡単に滅ぶなんて」
大陸で最大の領土を誇ったザカート帝国は、北方に領土を持つ小国であるグルガ帝国の侵攻によっていとも簡単にその姿を地図から消してしまっていた。
勇者の手によって魔王軍との戦い、魔王戦役が終息して僅か二年。
魔族や魔物の驚異から立ち直り、これから平和で幸せな時代が始まると、誰もが思っていた矢先の出来事である。
グルガ帝国のような小国が、国力も軍事力にも優れた大国であるザカート帝国をどのようにして下したのか。
マリナは未だにその情報が信じられずにいた。
「天秤の消失は教会から聖女の名において発せられたことだ。間違いではないだろう」
「そうね。信じられないという気持ちはあるけれど……」
天秤の加護が消失したことは、神託を得ることのできる聖女によって発表された。グルガ帝国の侵攻も、ザカート帝国の滅亡も、風の噂というわけではなく多数の報告筋から情報が上がってきている。
「急がねばならん」
ザカート帝国の領土はフィリア達が住まうフィアンマ公国に隣接している。グルガ帝国が天秤の消失を機に大陸の覇権を狙っているのであれば、フィアンマに戦火が届くのも時間の問題だ。
「グルガ帝国へ使者を出してはいるのですが、未だ返答はなく……。姫には申し訳ありませんが……」
「わかってる。道中、何があるかわからないものね。皆を助けるために同盟を取り付けに行くんだから、足を引っ張らないようにしないと!」
不安気な様子のジュラールとマリナを元気づけるように、フィリアは明るく応えて訓練用の槍を構えた。
「だから、訓練では手を抜かないでね」
ジュラールはフィリアの気遣いに温かいものを感じながらも、気を取り直して剣を構える。隣に立つマリナも、槍を手に腰を落とした。
「承知しまいた。最後の訓練ゆえ、少々厳しめて行かせていただきますぞ!」
「手加減しないからね!」
練兵所の空気が張り詰めていく。
言葉の通り、二人は本気で相手をしてくれるのだろう。
たとえ訓練だとしても、弱い自分を見せるわけにはいかない。
相手がフィアンマ公国随一の騎士であろうと。その騎士に若くして見出された、才気溢れる従者であろうと。
自分の力で、フィアンマから不安を取り除く。その為にも、ここで力を示す。
「私も全力で戦うから覚悟してね!」
言葉と同時に、フィリアは二人に向けて槍を突き出した。
練兵場に、訓練とは思えない程に苛烈な剣戟の音が響き渡る。
三人はただ、未来の為に今できる全力を尽くしている。
フィアンマを襲う驚異が、直ぐ側まで迫っていることも知らずに。
明日も20時くらいに続きを投稿します。
当面は一日一話のペースになります。よろしくお願いします。