ミオソティス
取るに足らない日々を巻き戻すなど叶うはずもない。
突き詰められた不変の真理はその手に悲劇を携えて、僕の日常を悲しみに染めた。
耐え難いこと。受け止められぬこと。
繰り返すだけの惰性が余りに愛しいと気付いた時には、嗚咽だけが全てを物語っていた。
——————————刻むべきだ。
せめて忘れないように、君へせめてもの手向けとして。
巡ろうじゃないか。君と過ごした幸せを、一片も残さず、この眼へ刻むために。
僕は滲む涙を乱暴に袖で拭うと、草臥れた黒いコートをひっ掴んで家を出た。
愛する彼女が死んだ。—————ので。
僕はあの日の幸せを巡る。この恋を亡くして、忘れないように。
真っ先に巡ったのは町外れの植物園。閑古鳥が鳴くその場所は彼女のお気に入り。
寂れた雰囲気が人を遠ざける一方で、植物たちの謳歌の息吹が渦巻くその場所を、僕は緩やかな足取りで進む。
管理人の気配はない。人の気配は僕一つ。数多の草花だけが、僕を気にするでもなく煌く。
百日草、月桂樹、風香樹、モクレン、薔薇、金木犀、シロタエギク—————季節感も統一感も無く、幻想を絵に描いた物言わぬ命の画廊。
年老いた管理人—————園長の姿はやはり見当たらない。
だが、画廊の中腹で目当ての花を見つけた。淡い紫色の花弁に、綺羅星のような花冠。極小輪が群れる様はまさしく銀河だった。そう、これこそが彼女との恋の思い出……その中核にして原点。
「勿忘草って言うんですよ、その花! お好きなんですか?」
まるで生えてきたよう、と表すのは大袈裟とは言えないだろう。不意に、唐突に、最初からそこに居たかのように。
僕の足下で膝を抱えて花を愛でる少年に、僕は正体不明の怖気を感じた。
「…………君は、なんだ?」
「不思議な聞き方ですね? 僕はここの園長代理です。祖父の代わりにここでお客さんに解説をしているんです—————僕の趣味に、付き合ってもらいながらね」
「趣味、だって?」
「占いです、簡単な。そうですねー……友達もしくは恋人に花束を渡すとしたら、何の花をあげますか?」
唐突に少年が僕を見上げて、言った。花が咲くような笑顔が色白の童顔に浮かんでいた。
「……百合、かな。もしくはマリーゴールドとか」
「へぇ! ちなみに百合の花の色は何ですか?」
無邪気な笑み。若干赤みの差した頰は興奮の証か……が、生憎その原因がわからない。
「うん……? 黒、かな」
「—————へぇ?」
怖気の再来。弧を描く少年の唇。無機質なまでにただ丸い双眼。そこに先程までの人間的暖和はない。
「…………僕はそろそろお暇するよ。まだ行かなくちゃならない場所があるんだ」
「そうですか? ……そうですか。僕に引き止める権限はありませんから、あなたがここを去ると言うなら止められませんが。引き止める理由はありますよ」
「占いの結果かい。そもそもなんの占いなんだ、これは?」
「未来予知、ですかねー。……ねぇお客さん。身近な人が亡くなったでしょ? 大切な人が死んだでしょ? その人のことを忘れたくなくて仕方がないんでしょう?」
「——————————!!??」
僕は逃げた。全力で逃げた。この悍ましい、人間の心中を徹底的に暴く怪物から逃げた。
遮二無二走る。命を削り減らす勢いで。
やっと止まった僕が息を切らせて感じたのは憤怒だった。
—————思い出がやがて咲き誇る。真ぁっ赤に咲きますよ。あなたに幸あれ、なんてね。
背中で感じた怪物の慈愛。僕の傷を抉っておきながら笑顔を崩そうともしないその有様に。僕は酷く憤ったのだった。
息を整えて周囲を見渡せば、左側に古本屋が見えた。あぁ、見覚えがある。
この先を少し行けば商店街だ。高校までの通学路にひっそりと佇む古本屋。おとなしい彼女が如何にも好みそうで、実際に好んで居た場所の一つ。何でも読む雑食派の彼女との心の距離を測りながら、偏食派の僕はラノベを読んで尻込みする。今となっては懐かしい、甘酸たる思い出。
恋人として、彼女の好みは把握している。花が好き、本が好き、たい焼きが好き。それから……僕が好き、だったのだろうか。それだけが、今の今まで分からない。情けない話だ。
僕は確かめようともしなかった。肯定が返ってこないのが怖いから、彼女の儚い横顔をただ眺めていた。
僕は好きだった。愛していた。自分自身よりずっとだ。でも—————彼女はどうだろう?
忘れたくない思い出の中に見つけた、一抹の不安を憎悪する。彼女が死ぬより前から、僕はこの不安を抱え続けてきたのだ。
思えば遠い。けれど、あの日少し手を伸ばせば届いた答え。僕はずっと、後悔の雨に打たれている。
今もそうだ。古本屋に入ったはいいが……後悔が滲んで歯が軋る。自分の怠惰を棚に上げて、僕は震える手で顔面を鷲掴んだ。
醜悪な表情が文字通り手に取って分かる。悔いから生まれたこの感覚は、彼女との幸せな時間を強請っているのだ。
—————足りない。足りない。足りない。
思い知った。僕は今更。
「後の祭り……って程、明るくはないなぁ」
強欲の名の元に脈動する叶わなき欲望を、胸を掻きむしって抑えながら、僕は古本屋を後にした。
通学路を歩く。進路も決定した僕は高校三年生にして、既に暇人の称号を欲しいがままにしていた。
なにせ、予定が全て消え去ったのだから。彼女と共に灰燼に帰したそれは、そよ風に乗って僕の元へ帰り着き……今に至るわけだ。
「なぁ聞いたか? なんかあの外れの植物園のジジイ————」
「ドーナツのクーポンあるんだけどサ————」
「————? ————? ————」
雑多な通学路がひどく懐かしい。数日前までは、彼女と歩いた道だと言うのに。
だからこそ、煩わしい人々の囀りも気にはならない。今この道を歩く僕の心にあるのは、ただただ彼女との思い出を反芻し続けるという、あまりにも悍ましく汚らわしい目的を達成するという虚ろな決意だけなのだから。
過去の上流階級では、食事を吐き戻してはまた食らうという凡そ人間的ではない行為が罷り通っていた。
現在を無視して過去を貪る、僕のこの恋情想起巡行は、それと全く変わりの無い蛮行だ。
食の冒涜とは即ち死の冒涜。生かすために殺された命を幾度となく、惨たらしく辱める赦されざる大罪。その一点においては、僕も咎人に他ならない。
つまりは僕も。彼女の死を冒涜している。幸せな頃の記憶をなぞり、貪ることで彼女の死を塗り潰そうとしている。
腐肉を貪る鴉の様に、死骸に集る蝿の様に。僕の醜い本質の一角が、暴食の牙を剥いて彼女を汚す—————と、そこまで思考の沼にはまってから、漸く僕は脱線に気づいた。
履き違えてはならない。僕は彼女との別れを誤魔化すために歩いているわけではなく、彼女との恋に決別を告げるために歩いているのだ。そもそも思い出の場所を巡るだけでは、隣の空白が嫌に浮き彫りになって憂鬱に溺れるだけ。
この道行きは僕にとって楽しいものであってはならない。
僕自身の命にサヨナラを刻みつけるが如く—————一歩一歩を噛み締めて行かねばならないのである。
無様な疾走はあの植物園での一度で十二分だ。
さあ、歩くぞ。
僕は次の一歩を、高校へと向けた。
懐かしの校舎を目前に、僕は花を購入していた。
葬式よろしく、厳かな黒い花を持って行こう。漠然とそれだけを思って黒百合を手に取った僕に怪訝そうな表情を浮かべた店主は問うた。
—————その花に込められた言葉を知ってるのか?
彼女の花蘊蓄を基本的に右から左へ聞き流していた僕に花言葉なんてわかる筈もなく、首を横振した。
店主は納得顔で頷いた。
—————自分で育てる分には問題ねぇ。でも他所へはくれてやるなよ、『呪い』の花なんてな。余程のモノ好きじゃなきゃ喜ばねえからよ。
結局その黒い花に魅力を感じて購入していった僕もモノ好きなんだろう。猫も微睡む平和な昼下がり、僕は呪いの花を胸に一輪差して、献花の花を握って先を見据えた。そこにある、くぐり慣れた校門を過ぎれば、人気の無い学び舎が現れる。
少し薄汚れた、コンクリートの校舎。華やかさなど欠片もないこの無骨な壁を小突いては「まるで牢獄だ」と嘯いていたいつかの自分が廊下の窓に霞むのを、僕は寒空の下を歩くような心境で歩いていた。
休日故に生徒の影さえ見えない校舎を歩く気持ちは、乾ききった凩に頰を撫ぜられるのによく似ている。それほどまでに、絶妙な不快感が僕の懐旧を邪魔していた。
「……あ……ここだった、な。卒業式から大して経ってないのに……もう、記憶が朧げだ」
それほど彼女の死が痛烈だった、とするのは間違いではないが、もしかすると僕は行きたくないのかもしれない—————自分の教室を見過ごすなど並大抵の理由では有り得ないから。
馴染みのあるスライド式のドアに手を掛けて、その先を見ない様に僕は手元へ視線を落とした—————無意識に。
指を掛けやすいように窪んだ金属パーツは、僕の体温に馴染む様子もなく冷たいまま。万人を拒む閉ざされた氷河のように、鍵の空いた教室は僕を静かに見つめていた。
「…………」
——————————からからから。
音の無い校舎に沁み渡る独特な開閉音。不意に窓から夕日が差していることに気づき、既に一日の終わりが近いことを知って呆ける。時のせせらぎが聞こえる。
夕焼けに燃える教室を見渡す。威厳に満ちた教卓、束ねられたカーテン、掃除用具のロッカー、汚れて斑らの床板、整列した学習机と椅子の群……。そして、最後に。
窓際最後列の机に置かれた花瓶。
沈鬱に頭を垂れる、黄色の菊。
「……まぁ、供えるならこの花だよな。……先生がやってくれたのかい? 良かったじゃないか……君の好きな『花』だろう……なんて、笑い話にもならないね、ごめんよ」
菊に目線を合わせて膝を着く。苦笑しながら下手糞な漫談を展開する僕に一瞥さえくれずに、黄色の花は黙している。
「そうだ、僕も花を買って来たんだよ。…………ほらこれ、綺麗だろ? 君なら判るかな、バイオレット・レナって花でね」
黄色の花は黙している。
「寒さには強いんだって……この教室でも長持ちすると、思ってさ」
花は黙している。
「初恋草って言うんだって……。ねぇ、覚えているかい? 僕の初恋が君だって話」
黙している。
「この教室で、君に告白した時、緊張で口が滑ってさ。今思い出しても失笑物だね、あの時の僕は。ほら、他にも色々沢山あったじゃないか……」
喋らない。
「なあ………………」
語らない。
「お願いだ………………」
—————死人に、口無し。
「—————っ、あああああああああ、ああああああああああああああああああああああ」
決壊した。
激情の奔流を抑え込んでいた僕の心に入った若干の亀裂が、一輪の花によっていとも簡単に崩れ去った。
冷徹な言い方をすれば、そこにあった物は所詮ただの花だ。黄色いだけの、たった一輪の菊の花。
花であるが故に語ることはなく、頭を垂れるが如く花冠が下を向いているのも自重に耐えかねただけのことだ。
それで充分。どうも僕にはその静謐な様が—————臨終を告げる者のそれに見えて仕方がない。
彼女の死を突きつけている様に見えて、仕方がない。
「なんで……!? なんでだ……!? 君が何をしたって言うんだよ!? 何も悪いことなんてしてないのに—————この世界に悪党なんてごまんといるのに! なんで君が死ななきゃいけなかったんだよ!? なんで……なんで—————」
こんな理不尽が、許されているんだ。
最後の句を告げることも出来ず、半狂乱に泣き喚き怒鳴り散らして、それでも。僕の涙は枯れることを知らない様だった。
心も命も、血潮の一滴さえも涙に変えて、僕は花瓶に縋り付いて嗚咽を漏らす。
「……誰が悪かったわけじゃない、誰も幸せになれない結末で、君は死んだ……。—————だからこそ、僕にはもう分からないんだ……僕にはもう、この怒りとも悲しみともつかない感情の矛先が分からない……。なにを呪えばいいのかが分からない!!」
ただひたすらに誰かを愛することの素晴らしさ、その尊さを日に日に肥大させて僕は彼女と生きていた。それは実に短い、人の一生の百分の一にも満たない一刹那だった。
だが、良くも悪くも愛とは人を狂わせる劇物だ。情熱的であれ穏やかであれ、それは狂い方のベクトルの差異でしかない。そして劇物故に凶悪な依存性を内包するこの『愛』を、ある日突然に絶たれてしまったら。
僕の中で肥え太り膨らんだ恋愛感情の全てが悲しみに溶けて涙になる。流れて枯れて、そして忽然と、僕の中には憎悪が、外側には人間という器だけが残る。
それはきっと惨たらしい。この世の何よりも惨たらしく凄惨な在り方だ。
「…………忘れるのは怖い、怖いからさ……。忘れないうちに刻んでおくよ」
溶けて流れて、心も肉も、涙も熱も削げ落ちた、見てくれだけの骸。
「忘れはしない。絶対に……僕は君を忘れはしない」
残ったものは行き場の無い憎悪が産む呪いと彼女が死んだその時から、憎しみを隠し抑える為だけに貼り付けていた人の皮。
僕はそれを虚飾と呼ぼう。
踵を返した僕の行き先は決まっている。出かけたならば帰らねば。
我が安寧の巣家を墓標としよう。夕焼けに研いだ鎌の向こうに見る明日は、きっと清々しい晴天に違いない。
胸元の黒百合が、涙に濡れて微笑んだ。
幽鬼も道を譲る不穏な足取りで向かった先は自宅だ……が、情け無いことに僕の足は迅速に帰路を踏むことを
良しとしなかった。まるで何かに取り憑かれたかの様にふらふらと、僕の足はあらぬ方角へと進み出した。
教室での一件でぽっかりと空いた喪失感を抱える僕は、結局到着するまで己の目指す場所を思い泛かべさえしなかったわけだが—————当然だ。
これは彼女との思い出の場所を巡る道行。だから……知らない場所を予想することなんてできるはずもない。ましてや彼女が好みそうにもない———こんな騒がしそうな———場所ならば尚のことだった。
「……公園、か。こんな綺麗な公園があったなんて知らなかった。……まぁ、でも、彼女と行こうとは思わないかな」
綺麗な、という評価には含みがあった。ゴミや汚れのない清潔さ、暖色の煉瓦と明るい花々で構成された華やかさ。そんな極めて一般的な意味合いと、もう一つ。
「本当に、綺麗な公園だなぁ……。コントラストで僕が際立って惨めに見えるじゃないか? あはは……素敵だ、本当に良いセンスしてるよ設計者。憩いの場であるはずの公園がまるで処刑場だ……綺麗だな、まったくもって」
無様なセンチメンタルに任せて吐き出したアイロニー。ぶつぶつと吐き出された僕の声音は自分のものとは思えない程に低く、暗く澱んで地に落ちた。
「…………まぁ、騒がしいのは色合いだけか。—————此処には誰もいない、夕闇が顔を出したから」
もう、太陽がお眠のようだ。夜の帳をその身に纏い、夕闇がこの街を覆い隠していく。
塗り変わり始めた空から目をそらすと、一組の雀の番を見つけた。器用に花壇へ足をつけて睦み合う小鳥の姿はとても愛らしく、それ以上に妬ましかった。
この小鳥たちは知らない。そこにある尊い愛の価値が。失って初めて、それが埋めてくれていた心の孔の巨きさを。
—————この、苦しみを。
その事実を幸せと呼ぶのは……残忍だろうか。
ちろちろと心を舐る、仄暗い悪性。僕を締め付け、唆すこの衝動は、嫉妬という名の蛇だ。
愛する者と過ごす時間を余すことなく謳歌する小さな一組の生物が、僕は堪らなく羨ましい。
その様は、潰え去った僕の理想を体現していたから。
「……頬擦りなんてしちゃってまあ。……スキンシップはあまりしたことなかった、ねぇ……彼女もそういうことは提案してこなかったし……。—————いや、単に愛されてなかっただけかもね」
零れ落ちた自嘲は、僕の心理の水面へあの疑問を浮かび上がらせた。
彼女は僕を愛してくれていたのか。
「思い返せば……彼女は僕と花について以外に会話が続いたことが、あまりないなぁ……口下手同士が付き合えば当然かと思ってたけど…………体のいい話し相手が出来た、ぐらいにしか思われてなかったのかな」
言葉にすればするほど、音を立てて心がひび割れる。
愛と呼ばれるものを色欲の醜類として侮蔑できる人間に生まれたなら、と考えたことがある。結論らしい結論も出なかったその愚問に答えを出そう。
今僕が彼女に優しい抱擁をしてもらえたなら、僕は理性をかなぐり捨てて獣へ堕ちよう。
その温度と感触を貪る色欲の奴隷にだってなれる。なってみせよう—————
「……分かってる。分かってるんだよ……これが憂鬱を誤魔化すための強がりだってことは。だってさ—————寂しいんだよ……辛いんだよ」
僕はもう駄目だ。
公園のベンチに腰掛けて、飛び去っていく雀の夫婦を見つめる亡骸の存在がそこには在った。
愛を見失い過去にしがみつく、流れる涙の体現者。
夜天の幕開けを告げる街灯が夜光虫を侍らせるまで、僕は虚空に苦しみを吐露していた。
暗がりに紛れて見えなかっただけか、それとも職務怠慢か。警察に補導されることもなく公園で腐る僕の目が不意にゴミ箱に留まった。
何が僕の目を惹いたのか。それは救いを求める僕に深層意識が寄越した啓示だったのだろう。
「汚れてる……錆びてる……それでも、お前はナイフだな」
網カゴ状のゴミ箱の最深部から抜き取った救いの鉄屑は、所々が錆びてはいたが刃先の輝きは健在で、月光を浴びて輝いていた。
「随分な招待状だけど、文句なんて言ってられないよね。……安寧だとか、休息だとか。そんなもの目当てで選ぶ死よりは……赦されてしかるべきだろう」
黒百合が嗤う。
命は皆等しい。等しく無価値。等しく同列だ。評価も優劣も出来ないほど僕らの価値は絶無のままで、その果てしなく残酷で退屈な運命を破却しようと僕たち人間は足掻くのだ。
死を受け容れた者の見る景色、死を手に取った者の悟り。望まれて生まれた僕は、この生涯はもうたくさんだった。
ゆっくりとナイフを掲げ持つ。切先は愚直に喉元へ。逆手に握った手へもう片方の手も添える。
「この足掻きを、みんなはきっと責めるだろう。でも」
あとは、抱き締めるように死ぬだけだ。
「その権利は、君たちには無い」
僕の旅路は終着点を迎える。
——————————はずだった。
ちらり、ナイフに映った白影。
それは確かに、見間違えることもない、そう、そうだ。花弁。
狼狽を隠しもせずに振り向いた僕を迎えたのは、一陣の夜風に舞う儚い薄紫花。
彼女が最も好んだ花。ことあるごとに、口癖のようにその存在を教えてくれた始まりの花。
「—————勿忘草」
君と居たから知っている。この花に込められた言葉は『私を忘れないで』ともう一つ。
それを憶う。今なら分かるんだ。君がこの花を好んだ理由が、僕にこの花をくれた意味が。
「……植物園から飛んで来たのかい? やれやれ。君も僕も随分と遠回りでもどかしい道を歩いて来たようだ。……後悔してないなんて口が裂けても言えない、でも。僕に生まれて、君に会えたから」
だから傲慢にも僕は誓うのだ。無価値に蔓延る罪深き種族の一人として、それでも……この命に価値を見つけたから。罪を償うのはそれを証明してからでも遅くはない。どんな命も最後は骸だ。
「今日歩いただけで、僕は随分と自分が嫌いになった。醜い部分を見つけては、それを呪う様に激情へ駆られる……でも、その分君が愛してくれ。そうすれば僕の自己嫌悪を軽く相殺してプラスさ」
口元が綻んだ。気障ったらしい言葉だけど、君はきっと笑ってくれると僕は信じてる。
「—————忘れないよ。君と過ごした全てを。君に貰った……『真実の愛』を」
優しい月明かりと無愛想な街灯に照らされた公園。花壇に黒百合を挿した僕の唇に、一枚の花弁が触れて。
—————あなたが好き。私も。
そんな声と共に、夜風に運ばれて去って行く。
何処へともなく運ばれて。彼女はやっぱり、僕の側から消えていく。
時が流れ、万物は寂れ。褪せて崩れて灰になる。
記憶の彼方へ吹かれても。それでも。
それでも僕は—————忘れない。