邂逅
「ありゃ」
と、タリアは呟いた。
森の中、うっかりクマの死骸に出くわしたと思ったら、どうやら服を着た人間のようだったからだ。
***
「誰かしら、これ」
タリアは、ピクリとも動かないクマのような大男の頭部側にてしゃがみこみ、頬杖をついて、傍の駄犬ルーチェに話しかけた。
駄犬ルーチェはキラキラしたつぶらな瞳で、『食べて良い?』と訴えかけてくるので、
「だめよ、まだ死んでるか確認してないし、死んだものを食べたらお腹を壊してしまうって教えてあるでしょう?」
そして、生きている人間を食べるのも問題で、つまり。
「食べちゃダメ」
『え。うそ。良いよね、良いでしょ?』
と直も訴えて来る瞳を無視することにして、タリアは、そのままの姿勢から周囲を見回した。
んー・・・行き倒れのようだ。
「介抱したらいい事あるかなぁ」
ねぇ? と駄犬に視線をやってみると、駄犬は『食べてよし』の命令への期待に目をキラキラさせていた。
タリアはため息をついて、とりあえず生きているならこのままでは虫や獣に喰われてしまうと思ったので、持っていた獣避け・・・つまり熊のフンを熊男にぶっかけた。
***
「タリア。あなた、何か森で動物でも飼ってるの?」
ある日の言葉にタリアは思わず動揺した。
「え、えーと」
「まぁそれは良いけど。フェースグルドが、タリアにこれをあげてって、持ってきたの。身体に良いスープですって。タリアが飲むんじゃないって言えば分かる、って言ってた」
姉が取り出したボウルには、なみなみと黄金の液体が入っていた。
「えっと・・・ありがとう」
「お礼は、フェースグルドにね」
「う、うん」
「今日も森へ行くの?」
「うん」
「今日は、多分酷い雨が突然降るわ。家にいたほうが良いんじゃない?」
「うーんと。雨なら、飼っているコが心配だから、やっぱり行くわ」
「・・・何を飼ってるの?」
「んーと。ちょっと連れて帰ってくるのは危険な大型生物」
「やめてね?」
連れて帰ってこないでね、という意味だ。
タリアは姉に、
「もちろん。ケガしてるみたいだから、ちょっと面倒みてるだけ」
と真実を答えた。
***
森へ行く。
あの熊男は、死んでいなかった。ひどい怪我を負っていて、それで行き倒れていたようだ。
なお現在、高熱を出していて意識がはっきりしない。
介抱して死なれると努力が無になって嫌だから、元気に回復して貰いたいと願っているが、一方で、きちんと回復されても困るのも事実である。
タリアの住んでいる集落は、外部との接触を極力絶っている。つまり非常に排他的なのだ。
生まれてきた子どもも、集落で育てられる子と、初めから集落の外の町に出す子と選別されている。
みんな気難しいから、合う合わないを赤子の時からより分けているみたい、なんてヨフィエラは適当な考えを述べてくれたけど。
とにかく、部外者を拾ったなんていったらどうなることか。
「でも、フェースグルドがスープをくれたってことは、フェースグルドにはバレちゃった上で、応援してくれてるのよねぇ」
少し疑問に感じつつ、タリアは獣避けの匂いを今日もばらまいてやってから、時折うめき声をあげる熊男に、大きな葉っぱを丸めて、スープを注ぎ込んで熊男の口内に流し込むことに成功した。
「良かったねぇ。フェースグルドのスープはものすごく効果があるのよ。怪我とかもすぐ治っちゃう」
スープを飲まし終えて、タリアはまた頭部でしゃがみ込んで眺めてみてから、そう言えばお姉ちゃんが雨が降るって言ってたっけ、と木で覆われている空を見上げた。
雨が降ると、せっかくまいた獣避けの匂いが消えるので困るなぁ。
とりあえず、周辺から大きな葉っぱを摘み取って、雨が降っても熊男ができるだけ濡れないようにと、大きな葉っぱをたくさん使って熊男を覆ってやった。
明日も、生きていると良いんだけど。
***
熊男は死んでいなかった。
昨日に、なぜかエルンヒルが薬油をタリアにくれたので、タリアはそれを持って行き、どうやら寝返りを打って体勢を変えていた熊男の、怪我を負っている肩口に瓶の中の薬油を全てぶっかけた。
熊男は呻いたが、起きない。
しかし生きているようでなによりである。
***
そろそろ、意識が戻るかもな。戻ったらどうしよう。
ちょっと困った事態になってしまった、とタリアが駄犬ルーチェと熊男のところにいくと、ほっそりした人影があったので驚いた。
まさか熊男は立つと細身だったのかと驚いてよくよく見れば、前にスープをくれたフェースグルドだった。
ちなみに、フェースグルドは気難しい。スープをくれたのも奇跡的だ。
どこか恐る恐る近寄ると、近づききる前にフェースグルドが振り向き、
「早く来なさい」
と命令口調で言ったので、タリアは肩をすくめた。正直タリアはフェースグルドが苦手である。そして、フェースグルドはそれを正しく知っている。だからなおさらタリアには機嫌が悪くなるのだろう。悪循環だ。
「今日で、10日目。よく面倒を見たわ」
とフェースグルドはタリアではなく、まだ転がっている熊男を見下すようにしていった。
「今日でおわかれよ。意識は戻る。私たちの村に入れてはいけない男なの。分かるわね」
「そっか」
そんな気はしてた。残念だけど。
タリアはコクリと頷いた。
本当は、回復するなら、タリアは話をしてみたかった。
タリアは集落の中で育てられた子だ。外に出た事が無い。外に出ようと出かけてみても、出るより先に、誰かがタリアを迎えに来る。
でも、外の事が知りたかった。
タリアは何も知らないのだから。
でも、フェースグルドがここにいるということは、きっと碌に話もできないで終わってしまうんだろう。
せっかくここまで来たのに、とても残念だ。
タリアが見守る前で、フェースグルドが男の額に手を伸ばした。触れる手前で指を止める。
「起きなさい、イューリアン=ウエルハイム」
フェースグルドの呼びかけに、熊男・・・どうやらイューリアン=ウエルハイムというのが名前のようだ・・・がフッと意識を取り戻した。
「この世に、おかえりなさい。さぁ、また戻る時が来たのよ」
とフェースグルドが呼びかける。
「でも、その前に一つ。ここにいた時のことは、全て忘れなさい。会ったことも、面倒を見てもらった誰かがいたことも、全て忘れなさい。それは、この世のものじゃなかったの。どこか遠い世界を、垣間見た、あなたの作り上げた夢なのよ」
熊男はゆっくりと上体を起こした。
それから、ぼんやりとフェースグルドを見て、タリアを見た。そして、わずかに驚いた。
フェースグルドはその様子に眉をしかめ、チラとタリアを振り返った。
タリアは涙を浮かべていた。
フェースグルドが熊男に言った言葉に、非常に傷ついてしまったからだ。自分が無かったことにされるなんて。
フェースグルドは忌々しそうに一瞬、タリアを睨んだ。
けれど、フェースグルドは熊男にまた振り戻り、
「夢。全て夢。夢の中を歩き、あなたの町に帰りなさい。道は忘れるの。だってここは、どこにもない土地なんだから」
と告げた。
***
熊男をその場に置き去りに、フェースグルドに促されて集落に戻ったタリア見て、叔母さんが一緒に涙を浮かべて抱きしめてくれた。
何も言わなくても、叔母さんは悲しみを分かってくれる。
タリアは抱きしめていた駄犬を地に降ろし、叔母さんに、涙を流して、
「どうしてだかものすごく寂しくなっちゃったの!」
と訴えた。
いつの間にか、タリアを中心に親しい人たちが一緒に悲しんでくれた。女性が多くて、しかし男性も悲しそうに見守っていた。
なお、フェースグルドはいつの間にかいなくなっていた。たぶん家に帰ったのだろう。
***
とてもたくさん、年月が過ぎていく。すべてが夢であるかのように。
***
ある時。
ある場所に、若者がいた。
こんなところになど誰も住んでいないだろう、と思うような森を選んで歩いたら、急に現れた家。
中は整頓されていて、優しい柔らかい、けれど薬品のようなにおいがした。
今は留守だろうかと進んでしまった若者は、急にかけられた声に驚いた。
「誰の、何を、知りにきたの」
見ると、白髪の小柄な老人だった。
「アンドリュー=ウエルハイム。初めまして?」
若者は驚いた。どうして自分の名を、この老人は知っているのだろう。
「もう一度だけ、尋ねる事にしましょう。アンドリュー=ウエルハイム。あなたは、誰の、何を、知りにきたの」
魔女だ、と若者は震えた。
そして、ある事実に気付いた。
「そう。それが真実よ。ここは、魔女と呼ばれやすい人たちが作った場所なの。魔女と言っても、男も暮らしているのだけどね。何にせよ、あなたは、特別にこの私が出迎えてあげただけ。ようこそ、この世には無い場所へ」
若者は理由を話した。理解を求めようと思ったのだ。
「祖父が。祖父が、死ぬ間際に、思い出して、世話になった人がいるって、だから私が」
「そう。別離の涙で、思い出してしまったのね。やっぱり」
老婆は深くため息をついた。
「こうなると思っていたわ」
「ひょっとして、あなたが祖父を?」
「いいえ」
老婆はけだるそうに若者を見た。
「私ではない。あなたなら迎え入れましょう。良いこと、この場所は秘密。ここに住んでいるのは、ただの人々。化け物じみた人外などではない。それがきちんと飲み込める人でなければ迎え入れられない。あなたの祖父は、秘密を守れない男だった。そんな訪問者はいらない。でもあなたは。きちんと、真実の在処が、分かる?」
老婆の言葉は、最後は若者への確認だった。
「恩返しを、頼まれて。祖父の遺言です。命の恩人だと言った。お礼をしたいと。助かったと礼を述べたいと」
「私じゃないって何度言わせるの」
老婆は忌々し気に座っていた椅子から身を起こした。
「まぁ良い。あなたなら道を教えましょう。窓を見なさい。キツネがあなたを見ている。あれを追っていきなさい。会いたい人に会える。・・・そうね、ご褒美をあげてちょうだい。あの子は、ずっと外の世界を知りたかった。思い出に、たくさんを教えてやって。きっと良い土産になることでしょう・・・」
老婆は、少し寂し気な顔をした。
***
気がつくと、家などなかった。
夢? 若者は茫然とした。
ふと、じっと自分を見ているものがいる事に気が付いた。
「キツネだ・・・」
若者は、息を飲んだ。
キツネがふと向こうに姿を消す。
若者は慌てて踏み出した。




