忘れものがほしいもの
クタッと肩を落としてうつむいたウサギのぬいぐるみは、もう何時間も一人でベンチに座っていました。葉っぱの匂いのするポカポカの風が、じんわり紅く染まり、ヒンヤリと夜の風になっても、やっぱり一人きりでした。
ああ、僕、忘れられちゃったのかな……。
長い耳をヘナリと垂らし、もともとうつむいた顔をさらにうつむかせます。
ベンチの近くの街灯がチカチカ光り、ウサギは夜の中に出たり隠れたりしながら、いつもウサギのことを抱きしめてくれる陽菜ちゃんのことを想い出しました。
陽菜ちゃんとウサギは小さな頃からいつも一緒でした。陽菜ちゃんのふわふわで温かい胸と小さな手に抱かれながら、たくさんたくさん楽しい時間を過ごしました。
最近はお留守番をすることも多くなっていましたが、今日は久しぶりに陽菜ちゃんとおでかけだったのです。それなのに、ウサギは一人ぼっちになってしまいました。
もしかして、僕のこといらなくなっちゃったのかな?
だって、もうあの子は大きくなってしまったし、ウサギのぬいぐるみなんて興味がないのかも。
ウサギは少し、しんみりしました。
それとも、僕があんまりキレイじゃないからかな?
ウサギの長くヘナリとした耳の先はヨレヨレだし、丸くふわふわだったしっぽは糸がほつれてとなかの綿が少し飛び出しています。白くて柔らかかった毛なみはくすんで、すっかりかたくなりました。
あの子には新しいウサギが必要なのかも。
ウサギは涙が零れそうでした。
だってウサギは陽菜ちゃんのそばにいたかったのです。抱っこも、おままごとも、一緒にお昼寝をしなくても、部屋の片隅にいて、あの子が大きくなっていく姿を見ていたかったのです。
ウサギは月にお願いをしました。
お月さま、お月さま、どうか僕のお願いを聞いてください。
雲に隠れそうになるまんまるのお月さまに、ウサギは手を合わせてお願いをしました。
お月さま、お月さま、どうか僕のお願いを聞いてください。
ウサギは一生懸命、時間も忘れてお願いをしました。
すると、白くまん丸いお月さまに、ポツンと黒い影が出来ました。小さな小さな影は、少しづつ大きくなって、ウサギの座るベンチの背もたれに降りて来たではありませんか。
「月に願うウサギはお前か?」
月から飛んできた月の影は言いました。
ああ、そうです! 僕がお月さまにお願いをしていたウサギです!
ウサギは月の影を見ようとしましたが、月の影はウサギの真後ろにいたので見ることができませんでした。
「ウサギよ、お前は何を願う?」
僕は、陽菜ちゃんのそばに居たいんです。あの子が大きくなっていく姿を見たくて、だけど……。
ウサギは月の影に言いました。
自分は忘れ物になってしまったんだと。もしかしたら、捨てられてしまったのかもしれないと。それはきっと、耳がヨレヨレで、しっぽがほつれてしまって、白い毛なみがくすんで、かたくなって汚れてしまったから。
だから、ウサギはキレイなウサギになりたいと言いました。
そしたら、陽菜ちゃんもよろこんで自分のそばにおいてくれるに違いないのです。
ウサギの願いを聞いた月の影は、ウサギの頭の上で羽を羽ばたかせました。
すると、どうでしょう。ウサギのヨレヨレな耳はフワフワの耳に、ほつれたしっぽは綿のつまったまんまるのしっぽに、くすんでいた毛なみもキレイな白い色になりました。
うわぁ、すごい! 僕、すごくキレイになった!
ウサギはあの子と初めて会った時のようなキレイなウサギとなったのです。
ウサギはうれしくなって言いました。
そうだ陽菜ちゃんは、お花が好きなんだ。キレイなバラの花……。僕がキレイなバラの花を持っていたら、きっと、陽菜ちゃんも僕のことを見つけてくれると思う。お月さま、どうかキレイなバラの花を僕に持たせてください。
それを聞いた月の影は、ウサギの両耳をくちばしでくわえてフワリと飛び立ちました。
月の影は空高く飛び、山を越え、町を越え、夜の空を飛びました。
うわわっ! すごく高いよ!
ウサギは、両手でしっかり目を押さえました。だって、こんなに高いところにやってきたのは初めてだったのですから。すっかりふるえてしまって、景色を見ることもできません。
しばらくすると、しっかりと目を閉じたウサギのお尻に地面を感じました。
「ウサギよ。目を開けるがいい」
月の影に言われてウサギは恐る恐る目を開けました。
するとどうでしょう。そこには大きくて立派なバラの樹と見たこともないほど大きくてキレイなバラの花がいくつも咲いていたのです。
「すごい! すごくキレイなバラの花!」
ウサギはヘナリとした耳がピンと立ってしまいそうなほど驚きました。
こんなにキレイなバラの花、ウサギは見たことがありませんでした。このバラなら、陽菜ちゃんもきっと喜んでくれる。ウサギはそう思いました。
「どちらさま?」
ウサギがはしゃいでいると、バラの樹の根本から毛なみの長い、お月さまのような瞳をした黒猫がスラリと出てきました。
ウサギは一目で、この黒猫がこのバラの樹の持ち主なのだと気がつきました。だって、このキレイなバラのようにとても美しい黒猫だったのです。
黒猫は月の影を見ると少しだけ顔をしかめて「またあなた?」と言いました。
「猫の子よ、このウサギにお前のバラを一つ分けてやってくれないか?」
「どうして?」
黒猫はウサギを見て首をかしげて見せました。
あのねあのね! 猫さん、僕の話を聞いて下さい!
ウサギは、黒猫に自分が思っていたことを一生懸命話しました。
自分には大切な子がいること、そしてその子と一緒に居たい気持ち。だけど忘れものになってしまったこと、あの子がキレイな花が好きだということ。
黒猫は夜の星のようにウサギの気持ちに耳を傾けました。
だから猫さん、僕にバラを一輪ください!
黒猫はウサギの願いにバラの樹を見ながら少し考えたあと、こう言いました。
「バラをあげてもいいけど、でも……」
「でも?」
「本当にバラが必要かしら?」
黒猫はしなやかに飛び上がると、器用にバラの花を一輪、バラの樹から取り、ウサギに差し出しました。
「持って行きなさい。ウサギさん」
「うわぁ! 猫さん、ありがとう!」
ウサギはとてもよろこんで、黒猫に何度もお礼を言いました。月の影も黒猫にお礼を言うと、またウサギをくわえて飛び立ちました。
ウサギは黒猫からもらったバラをしっかりと抱きしめながら、
すごくキレイなバラ、いい匂いもするし、陽菜ちゃんもきっとよろこんでくれる。これで僕のことちゃんと見つけてくれるよね。
ウサギは耳もしっぽも、毛なみも新品同様。それに見たこともないような大きくてキレイなバラを持っているのです。
ウサギはウキウキして自然と胸を張りました。
「さあ、ついたぞ。ここで待つといい」
ありがとうございます
月の影が連れて来たのは、ウサギが月にお願いをしたベンチでした。ウサギをそこに座らせると、月の影はベンチの背もたれで羽を休めました。
あ……
しばらくすると、一台の車が走ってきました。
ウサギは思わずドキリとしました。
あの車は、陽菜ちゃんの家の車です。
きっと、陽菜ちゃんが探しに来てくれたのです。
ウサギは思いました。
ヨレヨレの耳も、ほつれたしっぽも、くすんだ毛なみもキレイになったし、こんなに素敵なバラも持っているんだ。陽菜ちゃんはきっと喜んで、僕のことを連れて帰ってくれるに違いない。と。
車が止まると、ドアが開いて可愛らしい小さな女の子が飛び出してきました。女の子は慌てた様子でキョロキョロとあたりを見回しています。
ウサギはその女の子の姿を見て、涙が溢れそうになりました。
ああ、あんなに僕のことを探してくれている。
ウサギはうれしくてうれしくて、早く陽菜ちゃんが自分を見つけて抱き上げてくれないかと思いました。
キレイになった自分を見てもらいたかったし、陽菜ちゃんにキレイなバラの花をプレゼントしてあげたかったのです。
きっと、見つけたら笑って自分のことを抱き上げてくれるに違いないのですから。
もう少し、もう少しで僕のことが見えるはず、僕はここだよ。早く見つけて!
ウサギはバラをしっかり両手で抱きしめながら、陽菜ちゃんに見えるように持ち上げました。
パタパタと歩いて来た女の子はウサギの前までやってくると、ベンチに座ったウサギとウサギが持ったバラを不思議そうに見ました。
わわっ! 僕だよ!
女の子はバラの花を持つウサギを見て、顔を明るくしました。
あ、あのね、このバラ、キレイでしょう? 陽菜ちゃん、お花が好きだから、僕……
陽菜ちゃんはバラを抱えるウサギに少しだけ触れると熱いお湯にでも触った時のようにすぐに手を離してしまいました。
明るくなった陽菜ちゃんの顔は曇り、さっきまでと同じように、またウサギを探しはじめたのです。
そんな、僕だよ! 陽菜ちゃん! 僕を探しにきてくれたんでしょう?
陽菜ちゃんはベンチのまわりの草むらや陰になっているところまで一生懸命探しました。
やがて疲れたのか、ウサギの座るに陽菜ちゃんも座りました。
……どうして? 僕はここにいるのに。
「ウサギさん、あなたも迷子?」
「……」
「私の大切なお友達も迷子なの、あなたによく似たウサギを見なかった?」
「……」
陽菜ちゃんが悲しんでいる。
小さな頃から一緒にいるウサギには、陽菜ちゃんの悲しい声や寂しい声、今にも泣きだしそうな時の声も知っています。
そんな時、陽菜ちゃんはいつもウサギのことをギュと抱きしめていたのですから。
ウサギは思い出しました。
ウサギのヨレヨレとした長い耳は、陽菜ちゃんがもっとずっと小さい頃にあむあむしたからなのです。 さみしい時にしっぽを握るクセがあったのです。ウサギのまるいしっぽは陽菜ちゃんが握る形になって、ほつれていったのです。たくさん何度も抱きしめたので、ウサギの白い毛は陽菜ちゃんの成長とともにくすみかたくなりました。
ウサギは自分のキレイな耳やほつれていないしっぽや白くてやわらかな毛なみに肩を落としました。
ウサギは新品のウサギになったけれど、陽菜ちゃんにとってただのウサギになってしまったのです。 陽菜ちゃんと過ごした時間は、ウサギの体にはありませんでした。
だから、陽菜ちゃんがウサギを別のウサギだと思ったとしても仕方のないことだったのです。
ウサギは泣きはじめた陽菜ちゃんの横で一緒に泣きました。バラを持ったまま泣きました。
ああ、お月さま、お願いです! 僕の願いを取り消してください!
ウサギは陽菜ちゃんに聞こえない大きな声をあげて月の影に言いました。
すると、月の影は首を振って言いました。
「いいや、願いを取り消すことはできない」
そんな!
ウサギはまた肩を落します。
「陽菜ぁ、陽菜ぁ!」
あっ。
陽菜ちゃんを呼ぶ声。あの声はお母さんです。きっと、手分けして探してウサギを探していたに違いありません。
かけて来たお母さんは泣いている陽菜ちゃんを見て驚いたように声を上げました。
「陽菜、見つかった?」
「ううん、見つからない」
陽菜ちゃんは涙声で言いました。
「そのとなりにいるのは違うの?」
「違うよ、別の、誰かの忘れものみたい」
「うそ、ちゃんと見たの?」
「ちゃんと見なくても、わかるよ! このウサギさんは……」
ウサギは大きなバラで自分の顔を隠しました。
けれど陽菜ちゃんのお母さんは、ウサギを持ちあげ陽菜ちゃんに抱かせました。
「あっ……」
「ほら、この耳もこのしっぽも、どうみても陽菜のウサギさんでしょう?」
「あ、あれっ? 本当だ!」
えっ?
ウサギが気がつくと、ウサギの耳は元のようにヨレヨレで、しっぽは少しだけほつれ、白い毛なみはちゃんとくすんでいました。
僕のちゃんと陽菜ちゃんのウサギになってる!
「ああ、よかった!」
陽菜ちゃんはウサギを抱きしめて、やっと笑いました。ウサギは陽菜ちゃんに抱きしめられて泣きました。
「それにしても、すごくキレイなバラね」
お母さんが言いました。
「うん」
それは本当にキレイなバラだったのです。
陽菜ちゃんはウサギが持っていたバラをそっとベンチに置きました。
「そのバラ、持って帰らないの?」
「うん、だって、このバラも誰かの忘れものかもしれないもの。ここにあれば、誰かが迎えにくるかもしれないでしょ」
「そうね」
こうしてウサギは最初にお月さまにお願いした通り、陽菜ちゃんのもとに帰ることができました。
それからウサギは、自分がいくらヨレヨレになって汚れても、形が崩れても、それほど気にならなくなりました。ウサギは陽菜ちゃんが大きくなる姿をそれからも見守り続けました。
☆
とある森の深いところ。ひっそり育つ立派なバラの樹に住む黒猫はふと顔を上げて言いました。
「ほら、やっぱり必要なかったじゃない」
バラをくわえてやってきた月の影に黒猫は思わず微笑みました。