フタりは手を結ぶ
「やられっぱなしで黙っているつもりかい」
反射的に振り向くと、夕陽のオレンジにその身を染めた早稲田が立っていた。詰襟のボタンをホック含め、一番上までキッチリ留めて、細身の体躯にジャストサイズな制服をいかにも真面目に着こなしたヤツは、俺を見下す様に立っていた。
背筋をピンと伸ばし、脇には薄い学生鞄を挟んで、ズボンのポケットには両手を突っ込み、学制帽の下では眼をギラつかせていた。
「何のことだよ」
俺がそう吠えると、すぐ隣の陸橋に電車が通った。轟音を鳴らし、風を吹かせながら走るその車両の方を、俺は見る。その向こうには眩い太陽が今にも落ちようとしていて、川の水面をきらめかせていた。
「無論、湯川のことさ」
電車が通り過ぎると、早稲田が言った。俺は振り向かなかった。
「人間は醜い」
いつの間にか、早稲田は俺のすぐ近くに寄って来ていた。驚いている間にヤツは俺の隣に腰を下ろすと、眼を細め、夕陽を見ながら言った。
「『人間は生まれながらにして悪である』。僕はそれに同感だ。憎み、妬み、騙し、嘲り、怠け、勝手に死ぬ」
早稲田尋彦は俺を見た。長い前髪の奥の白目と、不健康そうな程に白い肌が、光を反射して眩しい。
俺はお喋りなヤツに驚いていた。ヤツはいつも独りで、寡黙だった、
「人間はどうして生まれてきたのだと思う? この世を汚す為か。誰かを傷つける為か。僕はそうじゃない。そうじゃないと思いたいし、そうありたくはない。美しく生きたいんだ」
「ヘェ、意識が高いんだな、お前。そんで、何が言いたいんだよ」
「磯村君への虐めをやめさせようと動いたのは君だけだった。尾下銀。それも君は磯村と特別仲が良かったわけではなく、むしろ磯村を虐めている彼らと友人同士であったのにも関わらず、だ」
「アイツらがそんなことをするヤツらだとは思わなかった」
「『そういうヤツら』さ。大体の人間はね。他人の苦しむ姿を見るのが堪らなく快感なのさ」
俺は早稲田を睨んだが、ヤツは動じなかった。
「ずっと気分は悪かったけれど、磯村にしろ君の元友人達にしろどうしようも無いと思っていたんだよ。一人では、ね。力を伴わない正義心は身を滅ぼすだけだ。でも、君が動くなら。君が動こうとするなら、力になろう。勝算が生まれる」
俺は言葉でなく、顔面いっぱいで疑問をぶつけた。すると、ヤツは悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「簡単に言えば、まず『証拠を取り戻す』。『湯川には痛い目に遭わせてやる』。そして、『磯村君への虐めをやめさせる』」
「そんなこと……出来るのか?」
「出来るさ。やればね。念の為ハッキリ言っておくけど、僕は君と正義の味方になりたいわけじゃない。ただ僕の視界に入る場所で汚い行為が行われていることを見逃す事が酷く気持ちが悪いのさ。僕が悪事を直接している訳でも無いのに見逃してしまっているというだけで僕の心の中にある罪悪感が芽吹く。それが嫌なんだ」
「わかった、わかった。何であれ、俺もこれ以上虐めは見たくない」
協力しよう、俺がそう言うと、ヤツは満足そうに頷いた。
そして俺が左手を差し伸べると、少し表情を歪ませた。
「僕はそういう柄じゃないんだけど」
そう言いながらヤツは白い手をおずおずと差し出した。握った手は冷たく、細く、女みたいだった。
「じゃあ、この先何をするのかは考えてあるのか?」
「早速だけど君、これから時間あるかい」
早稲田はそう言うと立ち上がった。先ほどヤツが言っていた内容とは真逆な、悪い事を思い付いたような笑みを浮かべて。
太陽は落ち切って、藍色の夜が漂い始めた街中に、俺たち二人は並んで歩き始めた。
「夜は長いよ」
そう言うヤツは、なんだか嬉しそうだった。