プロローグ
櫛咲櫛夜は人数を数える。
人数は全部で五人。
六人班で休みが一人いるので間違いない。
時刻は午後三時十一分。
第六限の授業そしてホームルームを終えた所だ。
常であれば皆簡単に当番を適当に割り当てるのだが、今日は一人休みがいる。
机を動かし、箒で床を掃く係、二人。
その後雑巾がけをする係、三人。
黒板を綺麗に消し、黒板消しもクリーナーにかける係、一人。
主として教室の清掃担当には以上の事が任せられている。
生徒が行うべきありふれた仕事の範疇だろうが、やらずに済むのであればやりたくはない。そう考えるのは当然のことであり、多分に漏れず櫛夜もやりたくはない。
恐らくは休みがいる分、五人のうち誰か一人は余計に作業を担当しなければならない。
(今日はもう能力を使うことなんてない、よな?)
頭の中で今日のこれからの予定をシミュレーションする。
今日は放課後何もない、が。今日はと言わずに今日も何もない。
帰宅部でかつ高校生にしては珍しく姉と二人暮らしをしている櫛夜は放課後、用事がある日の方が珍しいだろう。
強いて言えば御飯の買い出しに行くことはあるが、それは主に姉の分野だ。
料理の苦手な姉に代わって櫛夜が基本、櫛咲家の献立を握っている。
そのための食料の調達は姉の役割ということになっている。
姉だけにやらせるのも何かということで櫛夜が手伝うこともあるのだが、それは月に数回程度である。
ともあれ今日の櫛夜に予定はない。
予定はないが、余計な体力を使うのは好ましくはない。
(使ってしまうか、今日の分)
高校二年生となる櫛夜達が掃除の追加分を決める方法。
それは、日本全国どこでも行われているはずの手法。
多人数でも問題なく行うことが出来、また細かなルール設定の必要もない。
多少の心理戦の入る余地がないわけでもないがそこまで頭を使わずとも勝敗を簡単に、短い時間で決定することが出来る。
その方法とは、無論、ジャンケンである。
完全に確率のみによって支配されるゲーム。
主に掃除当番や罰ゲームなどを決めるのに圧倒的な支持を受けているゲームの一つだ。
今回も五人は誰ともなくジャンケンの構えを取っていた。
櫛夜は一人、頭の中で、念ずる。
(一回入魂)
特に意味のない言葉。
いつからそう念じだしたのか。
櫛夜自身も覚えていないが。
「ジャーンケーン……」
「ポン」
櫛夜がパー。
それ以外に、グーが二人、パーが二人。
櫛夜はなんということもなく勝ち抜けた。
直ぐにグーで負けた二人が最後の一人を争う。
なんてことはない生活の一幕。
クラスメイトの誰もその光景を不審がることはない。
誰も気づいてはいない。
櫛夜が『一回入魂』と念じたその時。
ジャンケンで必ず勝つということに。
それは、能力と言うにはあまりにも小さな力。
ただでさえ小さな力はさらに、一日たったの一回のみしか使うことが出来ない。
念じた回のジャンケンに関しては何人によるジャンケンであろうと勝ち抜けることができるが。
櫛夜は未だにこの力が本物なのかどうかを疑問視している。
確かに記憶にある内で、負けたことはないのだが。
あくまで確率は確率。
櫛夜にはこのちっぽけな力にわざわざ名前を付ける気は起きなかった。
しかし、この力の話を冗談半分で姉にしたところ、姉は嬉々として名前を付けた。
曰く。
『確率制御』と。
櫛夜は言ったものだ。
いくらなんでもそれは格好良すぎやしないかと。
出来ることは確率を制御することではなく、ただ一日に一度だけジャンケンに勝てるというだけなのだ。
そんな大層な名前はどうかと思う、と。
姉はしかし細かい所にうるさい性分であった。
櫛夜は逆に細かい所に気を遣わない性格であった。
結果、名前は『確率制御』と呼ばれることとなった。
この存在を知る者は二人だけである。
櫛夜はしかし、案外この能力に感謝する機会が多かった。
ジャンケンを用いた決定とは意外と学生生活において多いものなのだ。
そして、日にそう何度も行うものでもない。
櫛夜は半信半疑ながらもこの能力に助けられているとは感じている。
だからと言って、人においそれと自慢する気にもならない。
信じてもらえるとも思えないし、何よりそれによって決定方法がジャンケン以外になられても困る。
今のところはよく効くおまじない程度に考え、有効活用できるうちはそうしておこう、というスタンスだ。
そして、櫛夜は学校という場が好きではなかった。
嫌いと表現した方が近いだろう。
誰とも知れぬ人間と苦楽を共にする意味がわからない。
勉強ならば家で落ち着いて行えるし、質問は個人的に行えばいい。
それ以外に学校に行く意味など感じてはいなかった。
それでも全く一人で生きていけるとも社会でやっていけるとも考えてはいないので、最低限のやりとりを避けるほどではなかったものの。
櫛夜は基本的には一人だ。
一人で何でも出来ていたし一人で困ったこともなかった。
友人と呼べるほど仲の良い人間は周囲にいなかったので、ジャンケンで勝ち続けていても誰も気にはしなかった。
これは日に一度しか勝てない程度の力であったので、仮に疑われてもその場でもう一度ジャンケンをしてみれば単純に運の勝負へと舞い戻るのだ。
いくらでも誤魔化しは出来る。
しかしそんな面倒なことをするまでもなく、櫛夜は今日も誰に指摘されることもなくジャンケンに勝利し、平和に一日を終わらせようとしていた。
そんな高校二年生の四月。
その日。
掃除を終わらせ、足早に帰ろうとする櫛夜に声をかけてくる一人の少女の姿があった。
下駄箱前で両手を腰に当て、堂々と立つ姿がやけに似合っている。
制服は当然櫛夜と同じ学校のものだ。
学年ごとに異なるリボンの色から察するに高校三年生、櫛夜の一つ先輩だろう。
背丈は女子にしてはそこそこありそうだが、平均より少し高いくらいの身長である櫛夜と並べばそこまで大柄な印象はない。
さらさらと風に流れるような黒髪はゴムによって後頭部付近で一つに縛られており、所謂ポニーテールと呼ばれる髪型となっている。
そして何より印象的なのが、その男勝りな目と口元。
しっかり前を見据えた、はっきりとした瞳。
強気な笑みが浮かぶ口元。
恐らく顔の造りは非常に良い部類に入るのだろう。
可愛い、というよりは、綺麗。
綺麗、というよりは、格好いいに分類されそうな顔だ。
(ん、見たことが、ある気がするな……上級生で俺が知ってるとすれば、生徒会とかか?)
櫛夜は冷静に分析をする。
そんな少女が、はっきりと櫛夜を見ている。
「あなた、持ってるでしょ」
抽象的すぎる発言。
櫛夜はとりあえず真意を探る。
「何の話ですか。というかあなた先輩ですよね? どちら様ですか」
「敬語自体をやめる必要はないけれど、その距離のありすぎる話し方はやめてちょうだい。たかがただの先輩よ、私」
言葉の一つ一つをはっきりと発音している。
女優志望かアナウンサー志望か何かか、と櫛夜が思うほどその少女の声ははっきりとよく通る声だった。
「はぁ。で、俺が何を持ってるって」
「ジャンケン」
少女が、にや、と笑う。
明らかに、悪い事考えてますよ私、と言いたげな表情だ。
「ジャンケン、勝てるんでしょ」
だが、櫛夜としてはこの指摘はそこまで衝撃的なものではなかった。
いつか誰かしらが疑いを持つだろうと思ってはいたのと、櫛夜としてはそこまで隠し通したいほどの秘密でもないからだ。
「よく気づきましたね、結構些細なことだっていうのに」
「気づくわよ。あれだけ勝ち続けていたらね」
「あれだけ、って言うほど学校で勝ってないように思いますけど」
「私が気づくには十分よ」
そういうものか、と櫛夜は特にこの先輩の事を疑ったりはしない。
初対面で何がしたいのかはよくわからなかったが、ただジャンケンでやたらと勝つ奴が後輩にいるらしい、とかそんな噂がどこからか立ったのかもしれない。
そうでなければ見知らぬ先輩にこうして絡まれることなど普通はないだろう。
櫛夜としては、せっかくジャンケンに勝って楽に帰れることになったのだ。
早く帰りたかった。
「あの、じゃあそろそろいいですか帰っても」
「いいわけないでしょ、話は最後まで聞いて」
「じゃあなんですか」
「やけにあっさり聞くのね、それは意外」
「先輩が聞いてくれって言いましたよね?」
「そうね、ごめんなさい」
ただ櫛夜は知っているだけだ。
大体こういう時は、反抗すればするほど時間が余計にかかる、と。
すぐに話を進めて適当に流した方がすぐに終わることが多い。
多くの人間は、相手が自分の話を聞いている、そのことに満足するものだから。
今回もすぐにそう判断して、櫛夜は名も知らぬ先輩の話を聞くことにしたのであった。
しかし。
何かが間違っていると言うのであれば、この時の櫛夜は選択を間違えたのだろう。
どこまでも低い確率を拾い集めて、間違いへと進んでいってしまったのだろう。
櫛夜が話を聞く姿勢を見せてからなおもたっぷりと間を置いて。
少女は言った。
「櫛咲櫛夜くん、あなたに、生徒会に入って欲しいの。私の補佐として」
「……補佐?」
「ええ、会長補佐ね。この五月の初めに三年から一人二年から一人選ばれる、役職」
そんなことは知っている。
それを、何故初対面の人間に頼むかがわからない。
というかやはり生徒会長だったのかこの人は、と櫛夜は頭を回転させる。
「その、じゃあ俺を脅してるんですか? ジャンケンに勝つ能力があることをばらすぞ、と?」
笑わせるな、と言外に匂わせる。
そんな下らない能力の為に一年間学校の為にあれこれ動かなければならない理由など、櫛夜には一つもない。
いくらでもばらすがいいだろう。
「そんなことしないわよ……私にはあなたが必要なの」
「どうして、理由は?」
そう櫛夜が尋ねると、その生徒会長である少女――綾文綾――は、ふっ、と髪を手で払い威厳に満ちた声で答えた。
「私にも能力があるからよ。一日に一度だけ、落ちている十円玉を拾うことが出来る能力が」
それは、衝撃的な言葉だった。
櫛夜は三つのことを同時に思った。
一つ目は、自分と同じ、能力者がいることへの驚き。
二つ目は、なんて微妙な金額なんだそしてそれは本当に能力なのかという脱力感。
三つ目は。
結局それが何故、自分が会長補佐になることと関係があるんだという解決されていない疑問。
それらを含めて。
「はぁ」
と、櫛夜はため息をつくことしか出来なかった。