約束の日
いつからそこにいたのか、考えてみた。薄暗いが見覚えのある景色は間違いなく、ヒトダマが出るという、通学路の坂の上の神社。その街灯の下のベンチで、僕は自分が何をしていたのか、考えているのだ。
……そうだ、あの雑誌の記事。タイムスリップをしようとして、小学校に車を置いて歩いてきた途中だった。ようやく思い出し、僕は立ち上がる。すると、神社の入り口に、数人の子供たちが現れた。大方、この街灯をヒトダマだという噂に、真実を確かめにきたのだろう。僕はその子供たちの会話に、耳を澄ませた。
「あそこ、白い服の人がいるよ?」
「え? どこ?」
「ホラ、ベンチのところ、」
女の子が指差したのは、自分だった。確かに、白いシャツを着ているが……。僕は怖がらせてはいけないと思い、その子たちのほうへ歩いて行った。しかし、思いもよらない事態に、言葉を失う。目の前にいるのは、小学校の時のままの同級生たちだった。
「裕樹?」
覚えていた一人の名を呼ぶと、途端に真っ青な顔になり、悲鳴を上げて逃げ出す。お化けが出た、と叫ぶ甲高い声が、耳に突き刺さった。
『……ということは』
僕は持って来た小さなノートとペンを、ポケットから取り出し、再びベンチに座った。タイムスリップしたという証拠を持って帰れば、世界一周旅行に連れて行ってやると、友人に言われているのだ。こんなに容易いのなら、ビデオカメラでも持って来ればよかった、と後悔しながら真新しいはずのノートを開くと、そこには既に自分の字で書き込みがあり、何故か、真ん中のページが破られている。
『誰かと、待ち合わせしてたんだよ、その白い服の人』
不意に、記憶の底からそんな言葉が甦って、僕はハッとした。街灯の下の細い木の枝に結ばれた、一枚のおみくじのような紙切れが目に入った。寒気のような感覚が体を駆け巡った。どういうわけか、記憶があちこちに散らばっているらしく、かなりの時間をかけて必死にそれらを拾い集め、並べてみる。そして僕は、ようやく悟った。記憶が途絶えたその日に、自分に何が起こったのかを。
僕は、この状況で自分が落ち着いている事を意外に思いながら、広い境内の奥へと歩いて行った。点在するベンチの一つに腰を下ろし、薄暗い街灯の明かりの下で、辺りの景色を眺めてみる。日が落ちて間もなく、生い茂る木々の隙間から見える空にまだ色が残っていて、それは切り絵のように見えた。そんな景色も、瞬きと同時に移ろい、時はかつて感じたものとは全く違うもののように流れていく。ただ、僕の意識の中にハッキリと、ここにいるべき理由だけが留まっていた。
気が遠くなるほどの時間だったのか、それとも一瞬のことだったのか。再び意識が体に戻った。辺りの景色は相変わらず薄暗い神社で、鬱蒼と茂る木々に囲まれている。この眺めにもそろそろ飽きて、いい加減に他の場所へ行きたいと思うはずなのに、それは叶わないのだと知っていた。枝に結ばれた紙切れが、錨のように僕の体をこの場所に繋ぎ止めている。
物音一つしなかった空間に、砂利を踏む音が聞こえて、僕は顔を上げた。
「おじさん」
駆け寄ってきたのは、見覚えのある、青年だった。赤いギンガムチェックのシャツを着た、大学生くらいの。
「やっと、会えた」
彼は目に涙を浮かべて、ギュッと、僕に抱きついた。その震える体を抱いて、僕は彼の名を、思い出した。
「奈緒、……大きくなったね」
「うん」
「幾つ?」
「二十歳だよ」
あの時は答えなかった質問に、素直に答えてくれた。
「小さい頃、おじさんから聞いたタイムスリップの話、ずっと覚えてたんだよ」
「……そうだったのか」
よく、息子と奈緒をここに連れて来て、そんな話を聞かせたことを思い出す。息子たちは不思議な話に目を輝かせていた。
『二〇一一年の四月十七日に、奈緒とここで会う約束をしてるんだ』
そう言うと、奈緒は怪訝そうな顔をした。
『それって、ずいぶん昔だよ?』
小学校に上がったばかりの子供でも、さすがに過去に会う約束というのは理解し難いのだろう。僕自身、期待しながらも実現することはないだろうと半ばあきらめていたのだから。……奈月の友達としてこの子供に会うまでは。
『未来の奈緒に、会ったことがあるんだよ。柱のところに名前が彫ってあっただろ? あれはそのとき、奈緒が自分で彫ったんだ』
『ホント? すごい!』
息子たちは顔を見合わせて叫んだ。奈緒は自分が将来、タイムスリップを成功させるのだと、興奮してはしゃいでいた。
『でも、これは三人の秘密だぞ。誰かに話すと、効果が無くなるかも知れないから』
僕はそう嘘をついた。子供たちが学校でそんな話をして、馬鹿にされるのを避けるためだ。いつも僕の話を鼻で笑う友人の顔が浮かんだ。
あの時木の枝に結んだ紙切れは、当然もう何処にもなかった。しかし、次に子供たちと神社を訪れると、少々低い位置ではあったが、蛇腹に畳んだメモが結びつけてある。得意げな彼らの顔に、それが誰の仕業かは容易く知れた。子供たちはそれが風に飛ばされるたび、新しい紙を持って行く。そんなことを何年繰り返したのかは解らないが、奈緒に初めて会った日、メモは確かにここに結んであった。
有給休暇を取って小学校から歩いてきたあの日、偶然出会った二十歳の浅倉奈緒は今、目の前にいる。……いや、必然だったのか。彼には確実に、僕に会おうとする意志があったのだから。
「おじさん、あの時は、ごめんね。僕が飛び出したせいで、」
彼はまた、涙を零した。恐らく、その一言のために、彼はここに来た。そして僕は、彼との約束のために、ずっとここで待っていた。
「これ、覚えてる?」
奈緒が古びた紙切れを、僕に見せた。
「覚えてるよ」
「世界一周旅行、一緒に行こうね」
約束の日は、ようやく果たされたのだ。妻と息子も元気だという奈緒の言葉に、嬉しさよりも寂しさが勝ってしまうのは何故だろう。奈緒は息子の奈月が一緒に会いに来なかった理由を、二人では何度タイムスリップに挑戦しても、成功しなかったからだと言った。そのうち奈月も一人で会いにくるよ、と。
成長した息子の姿を、一目で解ってやれるだろうか。そんなことを思いながらも、二度と会うことは叶わないのだと解っていた。錨は、放たれた。僕の体はもう、ここに留まっている理由を失って、何処かへ行こうとしている。
僕は小さなノートを開き、古びた紙切れをもとのページに挿んだ。世界一周旅行のチケット。まさか本当に証拠を持ってくるとは思っていないだろうな。僕は可笑しくなって、笑った。
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました!
不思議な気分になってもらえたら嬉しいです。