息子の友達
四月になり、息子の入学式も無事終わったある日、帰宅した僕を思いもよらない人物が出迎えてくれた。
「奈月の新しいお友達なんだよ? パパとね、同じ名前なの!」
「……へえ、」
「浅倉奈緒くんよ。お家も歩いて行ける場所みたい、」
妻のその言葉に、僕は言葉を失った。目の前で息子と遊んでいる、その可愛らしい子供の名前は、初めて聞くものではなかったから。
「さっき、その柱の名前を見つけて、ビックリしてたわ。僕の名前だ、って」
僕はあらためて、その子供の前にしゃがみ、ジッと顔を見つめた。
「おじさんも、一緒に遊ぶ?」
僕に向けられた、人なつこい笑顔。僕は思わず声に出して笑い、その子供の頭を撫でていた。
「そうか、おまえか。……おまえだったのか」
何のことか解らずにきょとん、とする子供たち。僕は適当にごまかし、着替えてくる、と二階への階段を駆け上がった。
二十年ぶりに再び自分の部屋になった場所には、簡単な机と本棚、あとはベッドがあるだけ。片開きの小さなクローゼットに、あの頃何を入れていたのか、今は全く思い出せない。僕はそのクローゼットの扉を開けて、脱いだスーツを仕舞うと、今度は机に向かい、引出しの中から小さなノートを取り出した。そこに息子の友達が来たことを書き込み、今日の日付を入れる。浅倉 奈緒。それが偶然の一致でないことを、僕は解っていた。
……浅倉と出会った日、ここにあったカレンダーの年は、確かに僕が生活していた当時のものだった。だから、僕のタイムスリップは成功していない。ということは……。
それからも、息子の友達は毎日のように、僕の元を訪れた。聞くと、両親は離婚していて母子家庭らしく、それで僕を父親に重ねてなついているようだった。
『子供ができたら、いいお父さんになるよ』
僕は、十年前の出来事もあり、奈緒を自分の子供と変わらず、可愛がった。僕のパパになって、とそれがどんなに難しいことかも知らない奈緒に言われるたび、答えに困った。
『時々ならパパを貸してあげてもいいよ』
人のいい奈月は奈緒を励まそうとしているのだろうが、できるはずのないことを口にしていることも、解っているようだった。そんな日は、奈緒が帰ったあと、決まって僕に甘える。
『奈緒にパパができるといいね』
僕の胸の中で、奈月が言った。
『そうだな、早くできるといいな』
そう願う気持ちは息子より僕のほうが強かったに違いない。そして、成長した奈緒が時を遡ってまで会いたいと思った相手が、恐らく彼の亡くなった父親であろうことに気付き、その願いが果たされて良かったと、心から思った。
「もう遅いから、送ってくる」
息子が三年生になった初夏のある休日、僕は妻にそう告げて、二人の子供を連れて外に出た。日が長くなって、うっかりしていたら、もう六時を回っている。
「気をつけてね!」
夕飯の支度をしていた手を止めて、妻が玄関の外まで出てきたのが解り、僕と二人の子供は振り返って手を振る。辺りは急に薄暗くなり、通り過ぎる車が、ライトをつけ始めていた。
奈緒の母親は仕事の関係で、土日に子供の相手をしてやれないことをずっと苦にしていたが、小学校に入ってから奈月と楽しそうに遊んでいる様子に、ようやく安心して働ける、と喜んでいた。相変わらずシングルマザーでいることに、彼女と仲良くなった妻がそれとなく尋ねても、再婚する気配は全くなさそうだった。奈緒に分別がついてきて、やたらと父親を欲しがらなくなったからか、それとも僕が時々相手をしてやることで寂しさを紛らせているのか。どちらにしても、まだまだ幼い子供に我慢させるのは可哀相な気がした。
奈緒の自宅は、神社へ向かう道の、少し手前にある。そこは道幅が狭いにもかかわらず、国道への抜け道になっていて、交通量が多い。国有地の竹林は相変わらず手入れが行き届かなくて、風で曲がった細い竹が車道の上空を侵していた。
「危ないから、端っこを歩けよ」
数年前から流行りの、スリッパのような靴を飛ばしながら前を行く子供たちに、声をかける。ゴム素材で、雨が降っても気にせず履けるところは評価したいが、僕はやはり、慣れ親しんだスニーカーのほうが好きだ。そんなことを考えていると、奈緒が飛ばした靴が、大きく曲がって道路の真ん中へ落ちる。カーブを曲がってきた車のライトに気付くはずもなく、奈緒はその靴のほうへ駆け出してしまった。
「危ない、奈緒!」
記憶は、そこで途切れた。