古い空き家
会社の同僚にも散々馬鹿にされたあと、今まで通りの生活が始まり、僕はいつものように古い営業車でラジオを聴きながら走っていた。忘れるはずがないと思っていた記憶も、新しい情報によって徐々に塗り替えられ、古い家の外壁のように、それはもう過去と同じものではなくなってしまう。忙しさはその現象にさらに追い打ちをかけ、無くしたことにも気付かないまま、時は流れた。
三年が経ち、五年が経ち、十年が経ったある日、僕は転勤することになった。その先は偶然にも、元の実家のあるあの町。忘れかけていた記憶が、鮮明によみがえった。
「あの約束、まだ有効?」
僕は、真ん中のページが破られた小さなノートを手に、友人に電話をかけていた。
「あの約束って?」
「世界一周旅行」
友人はまた、鼻で笑った。
「ああ、一生有効にしといてやるよ。いつでも証拠を持ってこい」
その答えに満足した僕は携帯を切り、引っ越しが何のことなのか知らずにはしゃぐ息子に、静かにするように注意した。
「ホラ、大事なものを箱に入れろ。自分で持っていくんだぞ?」
「はーい!」
子供はそう返事をして、与えた小さな段ボールにおもちゃを入れ始めた。大切なものを、真っ先に選べる純粋さ。それを少し羨ましく思いながら、
「ちょっと古い家だけど、いいかな」
僕は妻に、そう尋ねた。どうせまた転勤があるだろうから構わない、という返事に安心して、子供と一緒に荷造りを続けた。
転勤が決まった日、僕は会社から紹介された不動産屋に、ある質問をした。
『一戸建ての借家、ありますか?』
いくつかあると言うので、実家のあった場所を言うと、
『……そこに物件があると、よくご存知ですね』
電話の向こうで、営業マンは驚いたように、そう言った。
『あそこは、もうずっと空き家で。……古いし、不便な場所なもので』
他の物件を紹介する、という申し出を断り、僕はその古い空き家を借りると言って電話を切った。
「小学校まで、ちょっと遠いけど、子供の運動には丁度いいよ」
車でその家に向かいながら、妻に周辺の地理の説明をした。歩いて行ける場所にコンビニもあるし、車があれば、大型スーパーにも近い。
「六畳の子供部屋が、二つあるんだ。もう一人、増えても平気だよ」
そう言うと、妻は笑った。
現地につくと、既に引っ越し業者のトラックが停まっていて、僕はあらかじめ受け取っていた鍵で玄関を開けた。当然、何も無い、ガランとしたリビング。がっしりとした体つきの若いスタッフが、手慣れた様子で床にクッション材を敷き、次々に家具を運んでいった。
「パパ、ここに、パパの名前がある!」
さっそく、新しい家の中を走り回っていた子供が、声を上げた。
「そうだよ、ここはパパの家だから、当然だろ?」
「すごーい!」
そんな子供騙しにも、子供は簡単に、騙されてくれる。それなのに、
「奈月は、そんな悪戯しちゃダメよ?」
事情を知る妻が、子供にそう言って聞かせた。
驚くほど早く家具の搬入が終わり、業者の人間が帰って行くと、積み上げられた段ボールの梱包を解く作業が始まった。荷造りも大変だが、元の場所に戻すのもまた、労力を使う。飽きてぐずりだした子供を寝かせたあと、再び段ボールを開けた僕は、その影から現れた柱の懐かしい傷を眺めた。
『何年か経って、ここに来た時、懐かしいって思えるように』
確かに、あの時彼が言ったことは、本当だった。もしかしたら彼は、僕がまたここに戻って来ることを、知っていたのかも知れない。そんなことを考えていると、
「それ、友達の名前?」
妻が尋ねる。
「うん。変なヤツでさ、」
それ以上は説明せず、ただ笑った。たった二日を一緒に過ごしただけ。変なヤツ、という表現しか思い浮かばなかったが、これほどもう一度会いたいと思う相手は、いない。
「でも、良かったわ。奈月がちょうど、幼稚園を卒園したあとで」
大方、片付けを終え、段ボールから出したばかりのマグカップで珈琲を飲んでいた。息子はこの四月から、小学生になる。新しい友達を作るには、丁度良い時期に転勤になったと、僕自身も思っていた。
「仲の良い友達が、出来るといいわね」
「できるさ、きっと。人見知りもしないし、明るい子だから」
呆れるほど自分に似ている。僕は息子の寝顔を眺めながらそう言った。