彼との約束
午後、二人は並んで、神社へと歩いた。お互い口を閉ざしたまま、自分の爪先を見ていた。春の陽射しは今日も柔らかく、辺りを包んでいる。神社のほうへと向かう道は狭い割に車が多く走り、カーブを描いていて見通しが悪い。片側は国有地で、年に一回しか手入れされないために鬱蒼と茂った竹林がせり出し、ますます視野を悪くしていた。
「ここ、危ないから気をつけて歩かなきゃダメだよ」
不意に浅倉がそんなことを言った。
「急にトラックがカーブを曲がってきて、事故に遭うといけないから」
当分来ないから大丈夫、と適当なことを言う僕に、何度もその危険性を説く。よほど、危ない目に遭ったのだろう。それとも、事故で亡くした知り合いでもいるのだろうか。そんな会話を繰り返しているうちに、神社に着いていた。
この町に住んでいた頃には一度も足を踏み入れなかった場所に、この二日間でもう三回も足を運んでいる。薄暗くて人の気配の全くない空間だったが、子供の頃に感じた気味悪さや近寄り難さを、もう感じることができない。大人になることで様々な権利を得ることができるけれど、知らず知らずのうちに失ってきたもののほうが、ずっと大きいような気がした。
「そうだ、」
僕はふと思い立って、持って来た小さなノートをポケットから取り出した。
「会う日を、決めとかないと」
そう言いながら、ベンチの上で真ん中のページを開き、青い油性ペンでこう書き込む。
『二〇一一年四月十七日、この場所で』
浅倉は心底驚いたような顔になり、僕の顔を見つめた。
「昨日、おまえに会う前、ここに寄ったんだ。枝に結んであったメモ、うっかり見ちゃってさ」
僕はそれが浅倉と誰かの約束の印だったと決めつけてそう言った。浅倉も否定はしなかった。
「今度会うときは、確実にタイムスリップが成功したってわかるように」
過去を待ち合わせの日に選ぶなどと、例の友人が聞いたら、また鼻で笑うのだろう。しかし浅倉は人なつこい笑顔を見せ、
「解った。その時こそ、世界一周旅行だね」
「その時は、おまえも、連れてってやるよ」
僕はそのページを破っておみくじのように蛇腹に畳み、細い木の枝にしっかりと結びつけた。
翌日を待たずに、僕は浅倉に別れを告げ、車を置いた小学校へと向かった。陽が傾き始めて、空が刻々と色を変えてゆくのを眺めながら、洋風の新しい民家が建ち並ぶ細い路地を歩く。一歩進むごとに現実へと戻っているような感覚。このまま帰っても良いのだろうか……。何もかも釈然としないまま、それでも何かを為し得たような複雑な気持ちは否応なく僕の歩調を緩ませ、ついには振り返って坂の上へと目をやる。神社に明かりはついておらず、白い服の幽霊も見えなかった。僕は軽く息を吐いて、再び前を向き、歩き始めた。
「結局、何もなかったんだろ?」
車に戻り、ようやく繋がった電話の向こうで、友人が笑う。
「……まぁね」
「やっぱりな。そんなの当たり前だろ、バカバカしい、」
僕は、悔しがっているフリをして、電話を切った。……本当は、この二日間の出来事を、的確に説明できる言葉が見つからなかったから。
何もなかった、といえば何もなかった。実家のあった場所に、今は二十歳の浅倉奈緒という青年が住んでいて、そこに前住人のよしみで一泊させてもらっただけ。彼の言動があまりにも謎に満ちていて、それが僕の空想をかきたてたのだ。
車のエンジンをかけても、まるで行き先が思い付かない時のような気分で、ハンドルを握る気になれなかった。しばらくの間、必要以上に明るい声で喋るラジオの声を聞いていたが、再び携帯を手に取り、昼間に撮った写真を眺めた。小学校の時の自分が彫った名前の下に、浅倉の名前。過ぎた時間とは、もう取り戻せないものだと思っていたが、想い出を刻んでおけば、そこに在り続ける。そして現在という時間と重なる……。タイムスリップはできなかったけれど、今はそれで満足しておこう。そう自分に言い聞かせて、僕はようやく車を発進させた。