神社の明かり
思いがけなく、過去の実家に泊まることになった僕は、今の住人が出掛けたあと、十年ぶりに自分の部屋だった二階の子供部屋を覗いてみた。家具は手作り風の、がっしりとした平机と、同じデザインの椅子だけ。それと、まるで客があることが解っていたかのように、日干しされて太陽の匂いのする、清潔そうな布団が置いてある。その久しく嗅いだことのない懐かしい匂いの中で、僕は持って来た小さなノートを広げて今日の出来事を書き込んでいった。友人から、世界一周したければ証拠を持って帰って来い、と言われているのだ。まだ何も起こってはいなかったが、諦めたわけではない。僕は少しでも気にかかることを思い出しては、箇条書きに、連ねていく……。
車を停めた小学校は、県内で一番の広い校庭が自慢だった。子供用のサッカーコートを二面、野球コートを一面、その他にバスケットコートが二面取れるほどの大きさ。校舎は三階建てで、三つ又に分かれたような形をしているが、それはどの部分にも日が当たるよう設計されている。特に何の設備もない中庭も広く、都会の学校の狭苦しい配置からしたら、贅沢すぎる敷地の使い方だ。
小学校を出ると、一面、田園風景が広がる。その真ん中を貫く通学路は、ちゃんとアスファルトで舗装されており、児童たちの他には、農作業をするトラクターや軽トラックが通る。田植え時には道のあちこちに、トラクターが落とした泥の塊があって、子供たちは乾いたそれを蹴ったり潰したり、時には投げたりして遊びながら帰宅するのだ。
田畑に水を引くため、あちこちに用水路がある。通学路の脇の用水路は幅八十センチほどあり、意外と水は綺麗だ。そこに膝まで浸かって、黒いタニシを捕ったことを思い出すが、田畑に水を供給する大元の川に架けられた橋が、何かと想い出深い。藻が多いのか、流れが緩やかなのか、いつも濁って見える川の底には、ヌシと呼ばれる白い魚が棲んでいて、台風や梅雨で増水すると、川面まで浮かんで来てその姿を現す。ナマズなのか鯉なのか解らないほど大きく成長し、悠々と漂う姿から、ヌシと呼ばれるようになったのだろう。その姿を見た日は何か良いことがあるような気がして、毎日、その橋の上を通る時は、遥か下の川を覗いた。
一応、信号機のついた公道を渡り、さらに歩くと、古くからの集落に入り込む。あの頃は、世帯が増えて増築に増築を重ねたような古い民家が殆どだったが、今は古い世代が消え、残った世代が新たな町並みを造っていた。その民家の合間を歩いて行くと、なだらかな坂になり、その一番上に、神社が見える。
『二〇一一年四月十七日、この場所で』
不意に神社で見た紙切れのことを思い出した。急に胸の中がざわめいて、ノートから顔を上げる。今日……。僕は自分がこの場所に来るために今日という日を選んだことは、確実に偶然ではない気がしてきていた。考えてみれば、今既に、想定外の出来事が起こっているではないか。
僕はペンを置き、再び一階へ降りて行った。勝手も解っているし、好きに使ってくれと言って出て行ったのだから、遠慮することはないのだが、今は全くの他人の家だ。名前が同じで親近感が持てるとは言っても、知り合ってまだ数時間。あれこれ観察するのは不躾だと思いつつ、ふと自分が名前を彫った柱が気になって、その傷を探してみる。あの時は、見つからないように小さく彫ったつもりだったが、今見てみれば、叱られて当然の大きさだ。僕は苦笑しながら、その柱の拙い文字をなぞった。
壁の時計を見ると、午後六時を少しまわったところだった。無防備にも置いていった合鍵で戸締まりをした僕は、近くにあるというコンビニまで歩いて、夕食の調達に行くことにした。ここは、この辺りでは一番大きな住宅団地で、当時は八百戸ほどの世帯が暮らしていた。更地が埋まっていることを考えると、今は更に増えているのだろう。大手のコンビニが出店している理由にも納得だ。
買い物を終え、時間を持て余すことが解っていた僕は、遠回りをして帰ることを思い立った。あの頃よく遊んだ公園の前を通りかかると、こんなに狭かったかと思うほどで、広々としていた砂場は、その気になれば一歩で飛び越えられそうだ。ブランコやシーソーも、想像以上に小さく見える。今は、その大きさに相応しい子供たちが遊んでいた。
「奈央、いつまで遊んでるの? お化けが出ても、知らないわよ?」
驚いて声のしたほうを振り返った。どうやらその声は、公園の中の子供にかけられたものだったようで、一人の男の子が仕方なさそうに返事をしている。もう一回だけ、と叫んでブランコを漕ぎ、やがて友達に別れを告げると、僕のすぐ側を走り抜けていった。今日は、同じ名前の人によく会う日だな。そんなことを思いながら、ようやく薄暗くなりだした道を歩いた。
簡単な食事を終え、再び二階の部屋でノートに向かっていたが、どうしても落ち着かずに再び外に出た。向かう先は、あの神社。今日、あの場所で、一体何があるのか。偶然にもあの紙切れを見てしまった自分にも、知る権利はある気がする。
『こないだ、あそこの神社で、白い服を来た幽霊が出たんだって、』
『男の幽霊らしいよ?』
『夕方、明かりがついてる日があるよね。あれってもしかして、ヒトダマ?』
キャーッ! と、女子たちの悲鳴が上がる。それを楽しみにして、男子たちは作り話をさも事実のように聞かせているのだ。不思議なことに、その神社の明かりは夕方いつも灯るわけではなく、むしろ、灯っていない日のほうが多かった。ただ単にあそこを通る時間が早いか遅いかだけのことなのか、それとも暗がりを照らすための明かりではない、ということなのか、……。そんな謎が余計に、子供達の想像心を刺激した。僕も何度か夕暮れ時にその明かりを見たことがあったけれど、まさかヒトダマだとは、思っていなかった。
『今度、肝試ししようぜ。夜、明かりがついてる日に、みんなであそこに行くんだ』
ある日、誰かがそんなことを言い出した。その計画を実行したのかどうかは知らないが、その後、何故か神社の話題はパッタリ、なくなっていた。
神社に着くと、明かりがついていた。それはヒトダマでもなんでもなく、昼間に座ったベンチの脇にある、古い街灯だ。小さな蛾が、その明かりに衝突して弾かれては、また向かっていく。蛾は光に向かっていく性質を持ち、かつ体の側面を、常に光と直角になるように飛ぶ。その軌跡は収束する螺旋を描いて光の元へと吸い込まれてゆくのだ。何度も何度も同じことを繰り返し、時折、思いのほか大きく弾き飛ばされて、顔に触れそうなところまで来た。僕はその蛾を手で払うようにしながら、その街灯では少々暗い境内を見渡してみた。
「あれ、」
枝に結んだ、紙切れがなくなっている。自分の結びかたが甘かったかと、辺りの地面を探したが、何処にもない。それほど風は吹いていなかったから、遠くに飛ばされたとは考えにくかった。……誰か、あれからここに来たんだ。約束の日は、果たされたのだろうか。僕は勝手に、何らかの理由で離ればなれにならざるを得なくなった男女が、再会する約束をしたのだろうと想像していた。こんな場所でというのは、少々悪趣味な気もしたが、何か深い思い入れでもあったのだろう。もしかしたら、自分の同級生たちかも知れない。
想像以上に奥深い敷地の殆どは、遊歩道のようになっていて、所々に塗装の剥げかけたベンチが置かれている。目的もなく歩いていると、薄暗い街灯の光がぼんやりと映し出す視界に、二つの影が浮かび上がった。抱き合う、二人の男性の姿。赤いチェックのシャツは、こんなに暗くても、それが誰なのかをハッキリと教えてくれた。僕は慌てて踵を返し、神社をあとにした。