同じ名前の青年
実家のあった場所に着くと、住んでいた建物は、外壁や瓦の色は変わっているものの、形はそのままに残っていた。表札はなかったが、今も誰かが住んでいるらしく、庭の手入れは行き届いている。……どうやら時の流れを遡ることはできなかったらしい。僕は、そんなものか、と、さほどガッカリもせずに軽く息を吐いて、懐かしい景色に背を向けようとした。
「あの、すみません」
いつの間にか、一人の若い男性の姿。大学生くらいだろうか。赤いギンガムチェックのシャツが良く似合っている。平日の昼間とあって、他に人の姿は全くと言っていいほどなかった。子供たちはまだ学校にいて、親たちは仕事をしている時間帯。スーツ姿なら、何処かの営業マンにも見えただろうが、当然普段着の僕もその場には相応しくないわけで、不審者に間違われたのかも知れない。
「昔、ここに住んでいた者です。今、どうなっているのか、気になって、」
何を尋ねられたわけでもなかったが、僕は慌ててそう説明した。すると彼は信じられない、というような表情で、
「河瀬 奈央さん、ですよね」
それには僕も、驚いた。まさか、名前を呼ばれるとは思ってもみなかったから。
「そうだけど、……」
僕は目の前の人物に全く心当たりを見出せず、ジッとその目を見つめる。涙を堪えているように見えた。小学校が、同じだったのだろうか。同級生だったとしても、涙の再会をするほどの想い出は、何処を探しても見つからなかった。
「ごめん、思い出せないや」
正直に、そう言ってみた。知っているフリをしたって、厄介なだけ。すると彼は、しばらく僕の顔を見つめていたが、涙を拭いてその表情を和ませ、今度は自己紹介をした。
「僕は、浅倉 奈緒。今、この家に住んでるんです」
「……奈緒? 同じ名前?」
「家の柱に名前を見つけた時、ビックリしました」
それでようやく、彼が僕の名前を知っているわけに納得がいった。小学校の時、彫刻刀でリビングの大黒柱に名前を彫ったこと。見つかって、親にこっぴどく叱られた。
「少し、上がっていきませんか? せっかくここまで来たんだし、」
僕に負けず劣らず、人なつこい様子だ。浅倉は戸惑う僕の腕を引っ張って、玄関の中へと招き入れた。
「一人暮らし?」
自分が住んでいた時に比べると、家具が少なく、広々として見えた。他の住人がいるような気配もない。
「うん。贅沢でしょ? 二階なんて、全然使ってないよ」
一階には、リビングとダイニングキッチンに、客間と寝室用に和室が二つ。二階は六畳の子供部屋が二つ。確かに、一人暮らしには、広すぎる。
「俺なんて、まだ狭いアパートだっていうのに。1LDKなだけ、マシだけど」
僕は自分の汚い部屋を思い出して、そう言った。それに比べて、ここは男の一人暮らしとは思えないほど、綺麗だ。掃除好きな彼女がいるのか、それとも世話焼きの母親がしょっちゅう出入りしているのか……。そんなことを想像しながら、部屋の中を見渡してみる。殺風景とまではいかないが、飾り気がなく、生活感もなかった。唯一、壁にかけられたカレンダー以外、目を引くものはない……。奈央はそのカレンダーの今日の日付に、赤で大きくマルがつけてあることに気がついた。
「……今日、何か予定があるんじゃないの?」
浅倉がさっき出掛けるところだったような気がして、そう尋ねてみる。
「そうなんだけど……、」
浅倉は口ごもった。聞いてはいけなかったと悟った僕は、
「ごめん、カレンダーにしるしがあったから、気になっただけ」
予定があるなら長居しては迷惑だと思い、淹れてくれた珈琲のお礼を言って、立ち上がろうとした。すると、
「ねえ、……もう少し、一緒にいてほしいな。……河瀬さんさえよければ、」
遠慮がちにそう言われて、特に急ぐ理由もなかった僕は、再び腰を下ろす。心なしか不安げなその表情は、まるで初めて一人で留守番を任された子供のようだ。顔だけ見ていれば、まだ少年と言ってもいいような、あどけなさが残る。随分年下なのかも知れないと思いながら、再び珈琲を口に運んだ。
僕が今住んでいるアパートからここまでは、高速を飛ばして二時間もあれば、辿り着く。それなのに、わざわざ三日も有休を取ってきた理由が、雑誌で見つけた記事だと説明すると、浅倉は予想に反して、目を丸くした。
「すぐに帰れないかも知れないと思って、三日も休んだけどさ……。友達や会社の同僚には、散々笑われたよ。そんなこと、あるわけないだろ、って」
もし本当にタイムスリップできたら、世界一周旅行に連れていってやるよ、とまで言われた。その話を聞いた浅倉は、
「じゃあ、三日間、ここに泊まっていってよ。すぐに帰るのは、悔しいでしょ?」
部屋は余ってるんだし、ホテル代助かるよ、と、からかうように言った。