空蝉
箱根の山は天下の険と唱歌に言うが、壱度中に這入ってしまえば絶える事の無い木陰に汗も退く。樹齢何百年かも知れぬ杉木立が路の両脇に真直ぐに突き立って並んで居ては、正午を過ぎても猶極熱の太陽の光線も其の葉に遮られてちらちらと足元に散らされるのみ。元から余り幅のある路でも無い上に、行き違う人も数えるばかり。それも蝉の大音声を越える声を出す事もない、唯被る笠を僅かに上下しての会釈を交わすばかりだったが、此処暫くは下りて来る人の姿も絶え先生と私しか歩く者も居ない。
顔を上げると、遥か高く蒼天の辺りで針葉が揺れて煌煌と光る。微風が下りてきて首の辺りを撫でる。合わせて降るように蝉の啼く。傍からだけでは無い山の奥からも湧くように聞こえる、其れが又山彦で何重にもなって居るのだろう、耳の中で鳴るのは物凄いばかり。考えるのも億劫に成って、先往く先生の後を只管付いて行った。じゃりじゃりと小石を踏みつつ進む彼の足下で、空蝉が砕けた。殻の主は既に飛び去って、樹上の同胞に肩を並べて居ると見える。詮無い事を考える内に目前がぱっと開けた。
木立が切れた次は寄木細工やら漬物やらを処狭しと並べた土産物屋が並んで、その間に小さい縁台を並べて団子等出す茶店が在る。硫黄の匂いが鼻に付いた。客呼びの声を掻い潜って進んで行くと宿場町の賑やかさも直ぐ後になり、さあさあと流れの音がする。緩まぬ足取りで先を歩んで居た先生は、細いが深い渓に架かった釣橋の袂でふと振り返った。不惑を過ぎてもいや増すばかりの美丈夫は唇を片側だけ持上げて微笑う。
「此処を渡ると直ぐに宿だが。僕が若い時分に伝手があって転がり込んだことが有ってね。まあ辺鄙だが悪くは無い。」
気も軽く言ったが、実際目にしてみると大層立派な構えの旅館である。釣橋を渡り切ると開けた処に植わった楓が眼に染みるような青葉を広げる。その先に、磨きこまれた黒木の柱立が見事な玄関。入っていった先生が帳場と二言三言言葉を交わすと同伴者の私も下にも置かないもてなしを受けた。
女中が荷を持って案内した部屋は十畳。三階から連なる山の頂を掠めて雲が通り過ぎて行くようが目前に。露天風呂が其方にと指す方向にふうわりと湧く白い湯気の手前に見事な庭の広がる。岩が程よく配された中に梅や松の大木があしらってある。母屋とは渡り廊下で繋がる湯殿の向こうは先程渡ってきた渓に落ち込んで、涼しい音が此処まで響く。其の逆に、日暮れも近付いてあんなに喧しかった蝉の声は遠く、下界の残暑の厳しさを一気に忘れた。崖に近い辺りに一軒の離れが端正な佇まいで在るのも又趣きの在る。
女中が下がったら直ぐにでも湯に浸かって、其れから庭園を散策して見たいとも思ったが。先生はにやにやしながらまあ待てと引き留める。仕方無いので手持無沙汰に座って居た。
「大変お待たせ致しました。」
と先程の女中に連れられて来て丁重に頭を下げつつ襖際に控えたのは、小太りの身体を泥大島の単に包み、白髪の多い髪を丁寧に髷に結い上げた、瞼の腫れぼったい、年の頃四十ばかりの婦人である。
「やあ女将さん、」と先生は上機嫌で、二つ提の煙草入れを取り出して、煙管の準備をしながら、
「随分久し振りに来たが、昔と変らず浮世離れした好い宿だね。」
「斯様な山家を御贔屓にして頂いて嬉しゅうございます。」
「今日は忙しいのかい。」
「いえ、左程でもございません。おほほ。」
何が可笑しいのか、愛嬌の有る皺を寄せた目尻に紅絹の手巾を添える。
「じゃあねえ、お願いがあるんだが。こんな歴史の有る屋敷に、色んな人が泊まるだろう。さぞ面白い、奇妙な談が有ることだろうから、其の内一つばかり話して貰いたいんだけれど。」
唐突に似合わぬ幼らしさで強請ったのには私も驚いた。思わず端正な顔を見るが、先生は澄ました儘。窓際に火鉢を引き寄せて、吸いかけた煙管をコツンと敲く。女将は流石に如才無い。
「然うですねえ、」と言って少し考える素振を見せた。
「此処は住んで居りますのは私共ばかり、お客様は長くても数箇月の御逗留で、其の内に人殺しなんぞの血腥い事件が起こった事も有りませんし、幽霊の姿を見たと言う話もとんとございません。此処で生まれ育った私の覚えて居る変った事と言いましても、庭の錦鯉が掻き消えたのは熊の仕業、あとは冬の夜に猿が親子で露天風呂に入っていた位が程度でございます。それもまあ山に暮らせば当然の事で。とは言いましても、此れまで一つだけにも奇妙と言うよりは腑に落ちない事がございました。御希望に副えるとも思えませんが、まあお気慰みになりますのなら。」
と語ったのが次の談である。
「私が未だ幼かった頃の話でございます。
丁度今頃でございましたか、立秋は疾うに過ぎたというのに暑さの中々退かない年でございました。――夏のみぎりより離れに御婦人客がお一方で御逗留なさっておいででした。幼心にも感心するほどのお美しい方で。小造りの、声のやさしい、色の白い。それにしても何となく世間に疎い御様子、眉を落として歯を染めていらしても初々しく、身分の高い方のお嬢様が其の儘奥様に成られたのだろうと宿の者も推量っておりました。すらりとした指には何時も銀の指輪を嵌めていらして、その当時は結婚指輪など珍しいもので御座いましたから、私も強請って何回も見せて頂いたものです。ええ、姐さま、姐さまと呼ばせて頂いては私も好く懐いたもので。
又、御召物の立派な事と言えば、あの方に及ぶ御婦人に未だお目に掛かった事がございません。金糸銀糸の縫い取りや総絞りと言う訳では御座いませんが、大層お品の良いものをいっそ無造作に着こなしておいででした。殿方は余り御興味を持たれる事も無いのでしょうが、其処が女の性というもので、若い内からお客様のお召し物にも気を配ることを覚えます。
例えば同じ大島の単でも今私が着て居る物とは比べ物になりません。数有る大島紬の中でも、白大島はその難しさから織子泣かせと聞き及びます。其れが一見灰色と見紛う迄に細かな亀甲の織り出されたものとなれば、一体如何程のものか、と当時女将を勤めて居りました母が驚く程でございました。織目の細かさ、滑らかさときたら爪でなぞっても、まるで漆塗の椀を撫でるよう。掌に吸い付くようでありながら、シャリシャリとした涼しさに、触らせて頂いた時に陶然としたことなど、今でも昨日の事の様に思い出せます。
あの方も唯御一人でお寂しかったのでございましょう。然うやって御召物を広げて見せて下すったり本を読み聞かせて下すったり、纏わりつく私の相手を嫌な顔一つせず。
それが或る時から気分の勝れぬ御様子で、溜息がちに指輪を抜いては嵌めることを繰り返すという……物事を知らぬ私にも何がお悩みの原因かは知れました。私の親も勿論其れには気付いたのでございましょう、お客様をお煩わせするな、との口実で私に離れへの出入りを禁じたのでございます。
ところで、あの離れでございますが、崖の方から廻りますと人知れず出入りすることが出来る細い道がございます。禁じられれば禁じられる程思いは募るもの、私は或る日そっと塀を伝わり歩きまして、あのお方に会いに参りました。如何やら憬れにも似た心持に衝き動かされていたのでしょう。玄関から参りますと人目に付きますから、そっと裏から声を掛けると、閉められた障子の向こうが慌しく動いて、あの方が出て来られました。私の姿を見ると驚いた声で名前を呼ばれると、縁側に跪いて顔を両手で挟むようにされました。左手に嵌められていた指輪が頬に当たって冷たい思いをいたしました。
(お邪魔でしたか)と押し掛けたことは棚に上げてしおらしく訊けば、天女のように優しげな顔を傾けて(いいえ、嬉しいわ)と望外の御返事。
(ただ今日はもう遅いから、明日いらっしゃい。御本の続きも読んであげましょう。)
其の時読んで頂いていたのが、源氏物語。気を塞がれて中途になって居りましたのが丁度空蝉の巻でございました。其れがまた次の日の出来事と合わせて何かの符丁かのように心に残って居ります。」
と此処で女将は一息つく。
「浅はかな子供の身は明くる日が待ち遠しく、朝もまだ早くから離れに参ったのでございます。
すると障子も何もかも開け放されておりまして、唯、縁側と畳の境に御召物が崩れ置かれて居りました。
それが先程申しましたあの夏大島だったのでございます。ふわりと脱ぎ捨てられた中に麻の襦袢が斯うさらさらと。けれど中身は空蝉、蛻の殻。
天女で在ったならば衣無しには天に戻れまい、と縁側から膝行り上がって傍まで寄ったものの、あの方の姿は何処にも見えず行方も知れず。
其れからあの方にお会いしたことは終ぞ無いのでございます。」
語り終わって女将はまた紅絹を目に当てた。
「いや、とんだ天女だ、宿賃を踏み倒したんじゃないかね。」
と言って先生は煙管をコツンと打付ける。
「いえ左様な事はございませんでしたようで。つまりは御召物以外のものも全部残されていたと後に聞き及びました。失くなったのはあの方唯一人。其れから多日は離れも其の儘に置いていたのですが、御家族の方が遺された物を引取られてからは、又使うようになった次第でございます。」
「ふうん。」と興がりもせずに「処で、先から目を拭ってばかり居るが悪いのかい。」
「ええ、」元から細い目を更に細めて、
「お気遣い有難うございます。この歳にも成りますともう治る見込みもございませんし……前々から慣れて居りますのが勿怪の幸いでございます。」
心付を渡して女将と女中を下がらせた。
川音に混じって何時の間にか聞えるのは蜩の声、箱根の山々に暮が迫る。
「談はお気に召しませんでしたか。」
窓辺から動かぬ先生に聞けば、
「いや、」と上の空で。「空蝉ね。君は知ってるかい。」
「源氏の初めの方の巻でしょう。方違えに訪れた源氏と一夜を共にした人妻が、後日再び関係を迫る彼から衣を脱ぎ捨てて迄も逃げる話でしたか。」
「大方は合っているよ。」
と弄んでいた煙管を置くのも様に成る。若い頃は艶事に多くの浮名を流したと言うのも頷ける男振り。次に口を開いた美丈夫は全く別の事柄に触れた。
「可哀相に、あの女将は生まれつきの弱視だよ。其の所為で歳よりも老けて見えるが、実際は三十を越すか越さないか位だ。親も哀れがって甘やかしたのだね。」
「はあ。」
「手探りで這って居たのでは、鴨居を見上げはしなかったろう。」
黙って居ると、かなかなと鳴く声が座敷に満ちる。
「僕は女の着物には余り知識が無いがね。――それでも先の談に大事な物が抜けて居る事は分かるよ。
帯だ。着物はぞろりとした布を彼れで巻き付けなくては形に成らないよ。組合せ次第で着こなしも変ると言うものだ。それに着物を彼れほど詳細に語っても、帯について一言も及ぶ処が無いのは妙だと思わないか。」
「……。」
「だから、帯は無かったのだろう。
……避暑で一人で居たなら気軽な半幅帯か。幅が狭いが却って結び易い。首に捲くのも、」
私は思わず鴨居を見上げた。柱と同じ黒木で頑丈造り、人一人の重み位ではびくともしないだろう。
眼の殆ど見えぬ儘、少女が打ち捨てられた、いや、締付ける帯を無くして滑り落ちた着物の傍に膝行り寄る、其の頭に触れるか触れぬかの処で……ぶらぶらと揺れる。
「――空蝉は賢い。そして憐れだ。
実際は然う美しい女では無かった。鼻筋のはっきりしない、地味な老けた女だが、所作が得も言われず艶だった。
……と確か斯う紫式部は書いたね。」
箱根に避暑に行こうと突然柄にも無い事を言い出した、其の次第がじりじりと腑に落ちるような。切れ長の目を半ば閉じて、先生は諳んじるが如く。
「自尊心と過去ってしまった若さに恋を認められず苦しむ人妻、彼女の苦しむ姿にこそ源氏は惹かれたのだ。サディスティックな劣情は人妻が逃げれば逃げるほど募る。思い通りに成らぬ女に焦れる。追っては更に苦しめる。
さて、脱捨てたのは衣だけか、空蝉の枕詞は命に掛かる。」
(なくなったのはあの方唯一人。)
失くなった、いや、亡くなった、か。
「……首を括るに雨戸迄開けることは、」思わず声にしてから言い澱んだ。
雨戸は内から開けるもの、外からは開けられぬ。逆しまに、閉めるも外に出てからでは能わぬ。
(玄関から参りますと人目に付きますから、そっと裏から――)
(若い時分に伝手があって転がり込んだことが有ってね。)
(閉められた障子の向こうが慌しく動いて――)
(あの女将は生まれつきの弱視だよ。)
言い差した台詞を引取るように、
「然うだね。
実際は逃げ出しただけだろう、夜闇に乗じて妙齢の裸女が渓へ駆け往くと言うのも乙な眺めだ。」
先生は巫山戯て見せたが、浮かぶ笑みは暗く含むよう。
(思い通りに成らぬ女に焦れる。追っては更に苦しめる。)
――殺人者は手を下した場所に戻ると聞く。
「ああ、でも矢張り離れには往かない方が好いかも知れないね」
欄干に身を凭せ掛け気怠げに呟いた先生の顔は、下りてきた夕闇に呑まれたように見えたのである。