妹が忘れました
受験戦争で死にそうになっている顔の受験生達の間を通り抜け、級友の柏木と呑気にファーストフード店に寄る。英語の先生の胸、絶対詐胸だよなあ、なんて馬鹿話しながら、笑う。笑う。笑う。
なんて平和な日常。しかし日常はある日いきなり変わったりする。例えばいつもふにゃふにゃのポテトしか出てこないのに、今日に限って揚げたてだとか。柏木の携帯がいつの間にか機種変されてたりとか。妹が同じ店にいて、見知らぬ男としゃべっていたとか-
ばっ!!
せっかくの当たりポテトがほとんどこぼれた。夏樹が隠れるように奥のテーブルを覗き込み始めると、柏木も面白そうに続いた。
「何何…お、妹さんじゃん」
「そうだな」
「あの男…友達、のわけないよな。つうかおっさんじゃん。何、ナンパ?お前の知り合いでもなさそうだし」
「そうだな」
柏木に適当に相づちをうちながら、夏樹は頭の中をフル回転させていた。一緒にいる男は正確に言えば夏樹の全く知らない男ではない。いやもういっそ初対面だったらどんなにいいか-『先生』 だった。楽しそうに、美桜としゃべっている。そして更に夏樹の心臓をかきたてたのは、紗雪まで一緒にいることだった。紗雪は記憶の置換が完璧で、ちゃんと、ちゃんというのも変な話だが、心の底から夏樹のことを、美桜のことを兄弟だと思っている。当然、その記憶に『先生』はない-
いや、と夏樹は思い直した。どうしてないなんて決めつけるんだ。考えたら『先生』としゃべっているのを見たことないだけで、紗雪の中にも『先生』は認知されているかもしれない。例えば-ある日突然、夏樹の家族のでなくなっても混乱しないように-
「夏樹どうした、寒いか?暖房緩いよな、ここ」
「うん、大丈夫だ」
曖昧に笑ってみせて、夏樹はちっとも大丈夫ではなかった。妹が妹でなくなるかもしれない、そんな想像だけで武者震いだ。さあどうする、どうするも何も、今は、邪魔するわけにもいかない。だからといって何も見なかったふりで去ることも出来ない。なら-盗み聞きだ。そうなると、申し訳ないが柏木に聞かせるわけにはいかない。
「柏木。俺は今から、あの男と美桜ちゃんたちとの様子を覗こうと思う」
「おお、いさぎよく格好いいなお前」
「だからお前は-」
「おっけ、邪魔者は去るよ。面白いことあったらまた頼むわ。じゃあ、ばいばい」
夏樹の分のポテトまで取り、柏木は去っていった。なんていいやつ、今度最初からポテト奢ってやろう。夏樹は去っていく柏木の背中に敬礼しながら、さっとテーブルを見た。人生そんなに上手いこといかない、真ん前、真横、真後ろでもない限り、この喧噪の中、美桜たちのテーブルの会話を盗み聞くことは不可能に近かった。大きな声が少し聞こえるくらいだ。おまけに今は帰宅時間、店は混み、夏樹がちょっと外しただけでもう席は取られてしまった。いつまでも突っ立っていても目立つばかりだ。外で3人を待とうかと決めかけたそのときだった。
「げほ!げほげほ!」
「大丈夫ですか!?」
「ああ、大丈夫大丈夫。久々だからつっかえただけ。美味いなあ、ジャンクも」
言いながら、『先生』はちっとも食欲があるように見えなかった。食は全然進んでいない、年のせいか、趣向のせいか、それにしても、顔色が悪い。前に会ったときより随分やつれたように見える。しかしそんなことよりも、夏樹の嫉妬心は醜く燃えたぎっていた。具合が悪かろうがなんだろうが、美桜たちの心配を独り占めしてるのが許せなかった。
ふと『先生』が時計を見た。
「おっと、もうこんな時間か…紗雪、もう行きなさい。外は寒いから気を付けて」
「はい」
それだけ言われると紗雪は会釈一つ、静かに帰っていった。可愛そうに紗雪、大好きな100円ソフトクリームも買ってもらえずに、よし、兄ちゃんが買ってやろう。まだ『先生』と話してる美桜が気になったが、今は、紗雪を追うのが先だ。あの男の前で、美桜に兄と呼ばれないのが、あんた誰と言われるのが怖かった。それならまだ、あの男の見てないところで、紗雪にあなた誰と聞かれた方が、きっと傷が浅い。
自分が打算的な上に怖がりで嫌になる、夏樹が紗雪を追って、階段を下りた。最後に一瞬だけ見た美桜の顔が笑っていた顔が、安心10,嫉妬心100。
「紗雪ちゃん」
震えるように、騒がしいファーストフード店内で、虫のような声で呼んだ。どうか振り返ってくれ、どうか、どうか、祈るように言ったところで、かすれるような虫のような声なのに。
「お兄ちゃんっ」
何が、何が浅い傷だ。こんなファーストフード店内で、大泣きしながら、抱きしめるかと思った。
「美味しい」
「あんまり食うと虫歯になるぞ」
「大丈夫だよ」
ああ可愛い可愛い、可愛いな畜生。食べられるソフトクリームに僕がなりたい。妹が可愛いのにほんとに気持ち悪いな僕-でも幸せだ。
にやにや笑いながら、あのねあのね、と紗雪の今日の報告をうんうん聞いていた。学校での話を一通り聞いたが『先生』の話は全く出てこない。紗雪の笑顔から十二分に勇気はもらった、夏樹はぎゅっと深呼吸して、努めて笑顔で、紗雪を見た。
「し、しかし偶然だったな。今日は友達と来たのか」
「ううん、美桜ちゃんと、遥人おじちゃんと」
「…遥人おじちゃん?」
「駅で偶然会ったの。覚えてない?親戚の-」
なるほど、そういう設定か。安心したのか、心配になっていいのか、いや今はとりあえず安心しよう-妹の前なのだから。夏樹はまた深呼吸して、笑った。
「なんとなくしか覚えてないな。おじさん元気だった?」
「うん、元気だったよ。まだお姉ちゃんと話があるからって私は先に帰るように言われたけど…なんだろう、進路の話かなあ」
何の進路の話かこの野郎、やっぱり迎えに行くべきかどうか夏樹は迷ったが、少なくても、紗雪の頭の中に美桜はいる。なら、今はまだ安全だ。あの男も、こんな店内で馬鹿な行動はしないだろう。いやそもそも、記憶置換がどういう方法でやるのか検討もつかないが-
というか、そうだ、そもそも、なぜか美桜は記憶がちゃんとあるんだった。
それでもさすがに先に帰るのもなあ、と思いながら、ふと、紗雪がそわそわしていることに気づいた。
「どうした?」
「あ、あれ」
「あれ?」
からん、と、ぬいぐるみが落ちてきたときには金メダルを取ったような気分だった。
「取ったど-!!」
「お兄ちゃんすごい!」
「はははは!」
勝ち誇った顔で夏樹は紗雪が欲しがっていたUFOキャッチャーの景品を渡す。紗雪が顔をほころばせながらぬいぐるみを抱くのをちゃんと両目に治めて、瞬間的に財布を見て、かなり泣きたくなった。これ普通に買った方が安かったんじゃないのか-
「お兄ちゃん、ありがとう」
「いや、なになに」
いいんだよ、この笑顔があれば。しばらく小遣いなしでも我慢できますよ。
さて、と夏樹が時計を見る。この時間なら、そろそろ兄が妹を迎えに行ってもいい時間帯だ。ご機嫌の紗雪を連れて、夏樹はふと、足を止めた。ゲームばかりしてるくせに、視力がいいままの両目を褒め讃えたかった。
「…紗雪ちゃん。お兄ちゃん、プリクラというのをやってみたい」
「え、え?」
「どれがいいか分からないから、選んでくれないか」
「分かったっ」
紗雪がいそいそとその場を去って行き、そして、ほっとした。目の前の現場を見られるわけにはいかなかった。美桜が、知らない男といる。大学生くらいだろうか、知らない男の腕を抱いて、おにいちゃん、と呼んでいた。
どうにか、生まれたての子鹿みたいな両足を踏ん張って、踏ん張って、どうにか、耐えた。今日一日限りのレンタル妹、ということにしてくれ。でないと、僕は、泣きそうだ。こっちを向いて、合図のウインクでもしてくれれば-
「あれ、美桜ちゃんじゃん」
しかし、助けは思ってもない方向から、おまけに夏樹自身にも気づかずにやってきた。柏木だった。にこにこ笑いながら、手にはメダルを持っている。
「やっほー」
手をふらふら振る。しかし美桜は不審そうに彼を見るだけで、男から離れようとしない。男が知り合いか、と聞いても、美桜は顔を横に振るだけだ。とても演技には思えなかった。あれで演技なら、僕の妹は主演女優賞を総ナメだ。美桜は何度も柏木を見たことあるはずだ。そう、夏樹が知っている美桜なら。
「ウソ、覚えてない。柏木だよ。ほら、兄貴と同じクラスの-」
「知らないってさ。新手のナンパ?いいから、早くどっかいけよ。しかも兄貴ってなんだ、こいつの兄貴は俺だけだよ」
「………は?何言ってんの、あんたこそ。その子は夏樹の妹の美桜ちゃんだよ。俺が美少女を見間違えるだけ」
「いいから、どっかいけって!!」
人が吹っ飛ぶところを始めてみた。店内から悲鳴が上がった。吹っ飛ばされたのは級友だ、友達だ。助けに-行きたい、のに、情けなくも夏樹の体は動かなかった。
興奮した様子の男は、更に柏木を締め上げた。これにはさすがに美桜も駆けつけた。
「お、お兄ちゃん、もういいよ。ね。何もされてないしさ」
「五月蠅い!ああもう、やっぱり妹なんて『買う』んじゃなかったな、その辺のソープにでもいけば」
ばきっ!!!
あ、びっくりした。僕って、人、殴れるんだ。殴れたんだ。呆然と自分の拳を見た夏樹の向かいで、鼻を押さえた男が夏樹を睨み上げる。
「す…すいません?」
そして謝るんだ僕は、疑問系で。
「てめえ、このクソガキぶっ殺す!」
「~~~あんた!私の兄ちゃんに何すんのよ!?」
「わあ、美桜ちゃん!?」
「おい誰か警察呼べ警察!!」
喧嘩スキルはなくても、逃げ足スキルだけはあって助かった。見つかったら、確実に停学だ。受験がないとはいえさすがにまずい。柏木のお母さんに何度も謝り、謝られ、彼は少し恥ずかしそうに母の車を待っていた。少しだけ羨ましいことなど、とても言えなかった。高3にもなって、母が恋しいなんて。
「ごめんな、柏木」
「いやほんといいって…しかし、格好いいな、お兄ちゃん」
「どこがだよ」
「血の繋がってない妹にそこまで真剣になれるか普通」
は。
「帰るよー?」
「はいはい!…じゃあな、いつか話せたら話せよ-」
ほんと、格好よすぎるよお前。
車を目線だけで見送り、夏樹が少し歩くと、泣きじゃくる紗雪を美桜が苦笑して抱きしめていた。お姉ちゃんの顔をして。どれだけほっとしたか。
「…どうした兄ちゃん」
「いや、なんでもない。帰るぞ」
「うん」
買う、って何だ。そして、どうして一瞬でも、何時間でもいいが、美桜の記憶が置換されなきゃいけなかったんだ。何かが、壊れてしまいそうで、壊れなくて、だから、今は、今は。
帰ろう。僕たちの家に。