花は返り咲く
※シリアスとシリアルの狭間でごにゃごにゃしている主従な小噺
「旦那様、少し宜しいでしょうか」
「入れ」
浩二は襖越しに聞こえた女中の事務的な問い掛けに、微かな苛立ち抱きながら端的に応える。
すると失礼致します、と控え目な声と共に書斎と廊下を隔てていた襖が開かれ一人の女中が姿を現した。
彼女の名は佐山志乃。随分と昔から花森に仕える使用人の一人だ。
志乃は一礼をしたのち書斎に入り、ピシャリと綺麗に襖を閉めた。
浩二の書斎は、この如何にも旧家の屋敷といった建物の中で唯一西洋風の調度品で固められた部屋となっている。初めて訪れた者は屋敷の中でも一際異彩を放つこの部屋に戸惑うが、十数年屋敷に住まっている彼女にとっては特段動揺するものでもない。
そうして書斎は再び静かな密室となった。
「………」
梅雨明けのからっとした夏空が広がる窓の外とは反対に陰鬱とした雰囲気が漂う室内。
ただでさえ暑さと煩く響く蝉の鳴き声で不快指数が高まっていると言うに、それに合わせたかの様にごっそり感情が削ぎ落とされた志乃の表情が浩二を更に苛立たせる。
そんな辛気臭い顔を向けられるのは非常に不愉快だ。
「何の用だ」
暫く続いた沈黙の後、口を開いたのはこのままずっとつっ立たれていても迷惑だと判断した浩二だった。
「はい。事後となってしまいましたが一つお伝えしなければならない事があり参りました」
そんな浩二の一言を待っていたのか、促されるままに志乃も事情を話し始めた。
三日ほど前の話になりますが、旦那様が神戸へ出張なされていた間に相馬様から私と侍従長の渡辺宛に連絡を頂き帝都でお会いする機会が御座いました。
ご用件は私ども使用人の引き抜きとのことでしたが丁重にお断りしております。
既に相馬様経由でご存知かとは思いましたが、この件に関しましては直接ご報告する方が筋かと思いましたのでご報告した次第です。
私どもは花森を離れるつもりは御座いません。
先代の御恩も勿論御座いますが、それ以上に旦那様にお仕えしたいので御座います。
志乃は感情のない瞳をそれでも真っ直ぐ逸らさず浩二に向け、単調な声音は弱まる事無く一連の言葉を紡ぐ。
――それが浩二の苛立ちを更に増幅させた。
ひと月前、使用人の内部犯行による機密情報の流出が原因となり花森は多大の負債を負うこととなっていたのだ。
「もうお前達の誰の言葉も信用出来ぬ!せめてもの情けと思い相馬へ話を持ちかけたと言うに、その主の気遣いをも無下にしおって――」
「お言葉ですが」
ついに激昂した浩二の言葉を、志乃の冷静な声が遮る。
「今回の件で問題を起こした使用人はこの屋敷に来て日の浅い者でした。我々が花森に仕えた年数とは比べるまでも御座いません。……十数年、長いものは数十年仕えてきた、その者達の言葉をも最早信用するに値しないと言うことでしょうか」
「そうだと言っている」
浩二の抑え切れない苛立ちが声音に現れ低く響く。整髪剤で整えていた髪も無意識のうちに乱していた。
志乃はそんな浩二の様子に一つ息を吐き、改めて浩二を見据えた。
「では――長いことお情けを頂いていた私の言葉でも信用出来ませんか」
ピクリと。
それまでの単調な声と違い少し揺れて出たそれに、それまで仕事の手を止めることがなかった浩二の動きが一瞬止まる。
ドクドクと心臓の音が煩く響く。
それが浩二のものなのか志乃のものなのかは浩二にも志乃にも分からなかった。
「――お前の言葉が一番信用ならない。恋だの愛だの、そんなものは瞞しだ。残念だが花森にお前の期待する財はもう無い。相馬でも、何処へでも行きその身体でまた誘惑すればいい」
僅かな沈黙の後、浩二から出た言葉は内心本人も驚く程に冷たく書斎に響いた。
此処まで言えば志乃も自分から離れるだろう――そう思っていた浩二は、次に彼女が起こした行動に激しく動揺することになる。
「わかりました」
そんな何の感情もこもらない一言をきっかけに、志乃はズカズカと浩二の書斎机まで近づいてゆく。
そして机上においてあったペーパーナイフを掴んだその瞬間――
「志乃、止せ……!」
書斎に敷かれた絨毯に、赤い血が散った。
* * *
「――どうしてこうなるんだ」
布団に横たわる志乃を見て、浩二は一人頭を抱えていた。
あの時、志乃は掴んだペーパーナイフで己の首を刺そうとし――致命傷への刺傷は辛うじて浩二が阻止したが、それでも刺し処が悪かったらしく酷い出血で一時は瀕死の状態まで追いやられた。
すぐ駆けつけた使用人の応急処置が適切であった事、タイミングよく花森の主治医が屋敷に居た事など様々な偶然が重なり、現在は奇跡的に回復へ向かっているが浩二の心は一向に晴れなかった。
――どうしてこうなるんだ。
現在は何とか養えているが、今後花森が再起するのは難しい。
今のうちに何処か余所の――相馬の様な、安定した家へ移った方が彼らや彼らの家族の為なのだ。
わざわざ沈みかけている泥船に乗り続ける必要は無い。
だからこうして手放そうとしているのに、どうして言うことを聞いてくれない。
ふと、浩二は握り続けていた志乃の手の下を見るとシーツに二つの水滴の痕があった。
志乃の手を離し己の手を頬に当てると一筋の水が流れた痕がある。
――泣き虫こーちゃん格好悪い!
そんな懐かしい声が頭の中に蘇った。
(――ああ、俺は泣いているのか)
遠い昔に言われた言葉で初めて自覚したそれに、一体何年ぶりだろうと苦笑する。
あの頃が懐かしい。あの頃に戻りたい。
俺もあいつも父上も母上も、みんなが居て笑い合っていたあの頃に――
「泣き虫こーちゃん、格好悪いですよ」
項垂れていた頭の上からふわりと優しい声が聞こえる。
声につられ顔を上げると、そこには苦笑した表情の志乃がいた。
「―――、の…」
驚きのあまり声にならない浩二の情けない表情にもう一つ苦笑を零し、志乃がいつもよりも幾分か柔らかい声で尋ねる。
「今日は何月何日ですか?」
「……七月、十七日」
「そうですか、三日も寝てしまっていたんですね――早く起きて仕事しなくちゃ」
「馬鹿、起きるな!」
何食わぬ顔で起床しようとする志乃を浩二が必死で抑える。
まだ医者からは絶対安静と言い渡されたままなのである。
仕方ないですねぇと再びベッドに横になる志乃の、三日前との様子の違いに呆然としながらその様子を眺める。
いや、確かに志乃は元々、女中として本格的に働き出す前まではこういう奴だったが……
「どうしたんですか、こーちゃん。間抜けな顔して」
「……あ?いや、何だ。言いたいことは色々あるが、その……こーちゃんって」
「ああ、どうせ非番なんです。それに今は口煩い渡辺さんも居ない。わざわざ律儀に女中っぽく振舞う必要も無いじゃないですか」
「でもいつもは二人の時でも」
「そりゃあ、こーちゃんが女中の志乃を呼ぶからでしょう」
「な――」
劇的な展開に付いていけてない浩二に、志乃がもう何度目か分からない溜息をつく。
「いいですか、こーちゃん。耳の穴かっぽじってよく聞いて下さいよ――あんたは一人で何もかも抱え込みすぎなんですよ、馬鹿!」
つまり事の顛末はこうだ。
普段から浩二の何もかも一人で抱え込む癖にヤキモキしていた屋敷の使用人一同は、今回浩二が企てた引き抜き話に堪忍袋の緒が切れた結果、志乃の狂言自殺を企てた。
「傷自体も実際はそんな大した事無いんですよ。事前に指導も受けてましたし。ただあのジジ――主治医の廣田先生が、どうも一服盛りやがったみたいで……前々から仕事中毒だ休めと言われ続けていたので、恐らくそう言うことでしょう」
「―――……」
言われてみれば思い当たる節は多々あった。
突然の騒動だったにも拘らず、異様に準備が良かった使用人に主治医の爺さん。
事が起きてから志乃の様子を直接確かめる事は三日経った今日まで許されなかったが、事前に聞いていたほど重くは見えない彼女の容態。
「……やられた……」
何とも言えない脱力感に襲われた浩二は、今度は先程とは違う意味で項垂れることとなった。
* * *
「浩二様、失礼しても宜しいですか」
「……ああ」
程なくして、襖の向こうから侍従長の声がした。
行き成り背を伸ばす志乃の様子を片目に捉えながら入り口へ目をやると、侍従長の渡辺の他に初老の爺さん――主治医の廣田が部屋へ入ってくる所だった。
「おお志乃、目が覚めましたか――久々にぐっすり眠れてよかったですな?」
してやったりと言った顔で話しかける廣田に志乃が引きつった笑みを返す。
「ええお陰様で。復帰後の仕事がどれだけ溜まっているのかとーっても不安で、今夜は眠れそうにありません!」
「……志乃。廣田先生も、旦那様の前ですぞ」
不謹慎だと嗜める渡辺に廣田があっけらかんと言い返す。
「相変わらずお堅いのう渡辺。どうせ志乃のこの様子じゃネタ晴らしは済んでるんじゃろうて――のう、坊ちゃん」
「……あ、ああ」
突然懐かしい呼び名で呼ばれ、戸惑いながらも答える浩二。
そんな浩二の様子に、渡辺は安堵の息を漏らしながら表情を和らげた。
「どうやら憑き物は無事に落とせたようですね」
――俺は自分が思っていた以上に多くの人から心配されていたらしい。
その後も続々と現れる使用人達の話しを聞きながら、浩二は改めて実感していた。
七年前、不慮の事故により両親を亡くし二十一という若さで花森を継いだ浩二。
そんな浩二の支えになりたいと全力で尽くしてきたつもりだったが、今回の事件を防げなかった。しかし――花森の再起の望みはまだある、一人で抱え込まずもっと自分達を使ってくれと、語気を強めて言い募る使用人達。
自分も家族も花森にしか仕える気は無いのだと、その重すぎる覚悟に最初こそ戸惑った浩二であったが、そう言えば最近では使用人一人一人の話を聞く余裕すらなかった事を思い出し、この機会に積極的に話し込んだ。
ほんの数時間前まで抱いていた絶望の淵に立たされた様な考えが劇的に変わってしまうほど、それは有意義な時間となった。
「しかし、疲れた……」
「お疲れ様です」
気付けば日付は当に越えていた。随分長いこと話し込んだこともあり、脳の疲労は限界に来ている。
思わず畳に寝転んだ浩二は、その隣でクスクス笑う志乃を見て少しくすぐったい気分になる。
「――結局誰も吐かなかったが、今回のこの馬鹿げた計画の発案者はお前だろう」
「どうしてそう思うんですか?」
上半身を起こした状態の志乃が、面白そうに浩二を見下ろす。
「まずあいつ等がこんな過激な計画を出す筈が無い。次に志乃、お前は自分で出した案を他人に実行させるような奴じゃない」
「………」
暫く無言で見つめ合う二人。だが結局は「さあ、どうでしょうねえ」と志乃が流して会話が途切れた。
「それで、花森のご当主様はこれからどうなさるんですか?」
ポスンと勢い良く布団に横になり浩二の視線に合わせた志乃が歌うように問う。
その表情はとても晴れやかで、爽やかな夏の空を思わせた。
「ああ、そうだな――」
彼女の表情を二度と曇らせない、そんな未来を描く為の指針を浩二はゆっくりと語りだしたのだった。
-了-
うだうだしてる幼馴染みカップルもだけど、ナイス中年渡辺と廣田のじっちゃん達書くのめっちゃ楽しかったです。
閲覧頂きありがとう御座いました!