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コードネーム:ジン 〜少年(妄想)スパイは全ての危機をハードボイルド変換で切り抜ける〜

掲載日:2026/07/18

 今日の学校には不穏な空気が満ちている。

 得体のしれない何か。

 大事件の前触れか。臭うぜ。


 これは僕…

 いや、オレ――コードネーム:ジンの勘だ。

 世界を股にかけるスパイには事件を嗅ぎつける嗅覚がある。

 こういうのは日々の積み重ね――感じ取る訓練が大事なんだ。

 父ちゃ…父もそう言っていた。


 オレが今追っている事件は…


 「ペーおはよう!」

 突然、背後から背中を叩かれた。

 っ!オレの後ろを取るとは…貴様。


 コイツはクラスメイトの翔弥だ。

 オレより頭一つ背が高くて、同じバスケ部の次期エース。

 モテるし目立つ。

 スパイには不向きだ。


 「今日、誰来んの?」

 コイツが言っているのは授業参観――

 『戦場視察』のことだ。

 「え、母ちゃん…だよ」

 オレは背中を叩かれた腹いせに、ちょっとぶっきらぼうに答えてやった。

 

 「うちも!あ、聡美のとこは両親が来るって言ってたぜ」

 

 武藤聡美。

 オレが今追っている事件の重要監視対象だ。


 オレは動揺を完璧に抑え込みながら、興味なさげに答えた。

 「へー、そ、そうなんだ」

 少し声が高くなってしまったが、まだ声変わりの途中だからバレてない。


 翔弥はニヤニヤしながらオレを追い越す。

 「昨日の帰りに聞いたんだ。あ、机の中、片付けした?朝点検あるってよ」

 振り向きざまにそう言うと、校舎に向け走り出した。


 昨日の帰りにだと?

 オレは動揺を完璧に抑え込もうとした。


 「おはよ、陣平くん」

 またしても後ろから声をかけられた。

 武藤聡美!!!

 オレは…動揺を…


 「ぉぅ」

 声が小さかったのは、オレがまだ成長期の途中だからだ。


 「…陣平くん、何か最近変わった?」

 なに?

 武藤がオレの変化を敏感に感じ取っている。これってもしかして…

 

 「あ、翔弥じゃん!じゃあ、行くね」 

 そう言って、武藤はオレの心配をよそに小走りで翔弥の後を追っていく。


 オレは立ち止まり、大きく深呼吸した。武藤の背中が小さくなっていく。


 事件は解決していた可能性がある。

 …オレの知らないところで。


 まあ、知らなかった訳じゃない。

 武藤は昼休みいつも翔弥のイスに座ってたし。

 体育館の二階から翔弥ばかり見てたのも知ってる。

 オレの観察眼は甘くないぜ。


 さあ、次だ。

 スパイに休息などないのだ。


 ホームルームが始まっても、オレの心は次の監視対象のことでいっぱいだった。

 

 そんなだったから、担任の山村道子が何か言って、みんなが机の中身を取り出し始めた時、少しだけ危険を察知するのが遅れてしまったんだ。


 「これは何かな?吉田陣平くん」

 よくある事だ。

 有能なスパイなら、こんな時は華麗な反論で尋問官を手玉に取って切り抜ける。

 「えっと…あの、発表の時に、あの、使おうと思って…」

 「発表って、授業参観の?」

 山村道子は真顔で聞き返してきた。

 「…はい」


 「そうなんだ」

 「じゃあ、発表者は君に決定だね」

 クスクスと小さな笑い声が教室に響く。


 逆境に打ち勝つのも、スパイの常だ。

 なんだか無性にお腹が痛くなってきた。


 「何それ、映画?そういうの好きなんだっけ、ペー」

 ホームルームが終わると、案の定ニヤけた翔弥が絡んできた。


 机の上には、先週末父に連れて行ってもらったスパイ映画『コードネーム:ジーザス』のパンフレット。

 つやつやの黒い表紙が光っている。


 オレは忙しいんだ。

 今しがた発生した新たなミッションを完璧に遂行するには、オマエに構っている暇などない。

 「…あぁ、まぁね」

 これ以上追及されないことを願いながら、一応言葉を返してやった。

 「今度俺らも映画行くんだけど、映画館教えてくんない?」

 翔弥は小さな声でそう言うと、武藤の席をチラ見する。

 「うん、まぁ…いいけど」

 オレは別に、なんにも一切気にしていない。

 一般人同士、勝手に楽しくやってればいいさ。

 

 そんな感じで、週末の土曜日、翔弥と一緒にオレの行きつけの映画館を偵察する事になった。

 行きつけと言っても一度しか行ったことはないけれど。


 休憩時間を翔弥に潰されたオレの最重要ミッションは、一限目が終わると同時に最大の危機を迎えた。

 腹が、とにかく痛いんだ…

 おそらく、下腹部に対人地雷を埋め込まれている。

 だが、この戦場での拘束時間は間もなく終わりを迎える。

 処理場までの時間も折り込み済みだ。

 問題は何もない…はずだった。


 「この度、産休に入る事になったので、みんなとは今日でお別れなのよ」

 社会科の久慈先生がチャイムの直前にそんな告白をしちゃったもんだから、みんなの興味が爆発した。

 当直の芳雄が授業終わりの礼も忘れて心底どうでもいい情報を聞き出そうとしている。

 「京子先生の旦那さん、何歳なんすか?」

 「赤ちゃんって、いつ産まれるんですか?」

 「なれそめ聞きたいー!」

 女子達が無意味な質問を被せる。


 オレは爆発寸前だった。

 もう時間は過ぎているぞ、チャイムの音、聞こえなかったのか芳雄。

 実戦では一秒の狂いが命取りになるのだ。

 オマエがスパイなら、真っ先にお陀仏だぜ。


 嗚呼だめだ、限界だ…

 「…ちょっと、トイレに…」

 この時ほど、最前列中央――先生の目の前にある自分の席を恨めしく思ったことはなかった。

 オレは爆発物も扱える超エリート工作員だ。

 下腹部の地雷に衝撃を与えないように、ゆっくりと立ち上がる。

 

 みんなの視線がオレに集中する。

 静かに一人入口へ向かい、建付けの悪い引き戸を開けた。

 刹那、背後から笑いの渦が巻き起こった。


 隠密行動だけがスパイじゃない。

 今は時間との戦いなんだ。

 あのジーザスでさえ、終盤は大胆な立ち回りで敵を圧倒していた。

 処理場まで概ね30メートル。

 まずは早足で接近。

 至近距離から猛ダッシュだ。

 ここか!

 開かれた処理室に滑り込み、一気に信管を解放した。

 

 「シュゴーーージャジャーー」

 こうして、最高難度の地雷処理ミッションは、幾多の障害を乗り越え間一髪のところで達成された。

 ふぅ、やれやれだ。

 オレは至福の快感に溺れかけていた。


 だが、忘れるなジン!

 もう一つ最も重大な任務が残っている。

 尋問官、山村道子に課された難題。

 そして『視察者 理沙』の存在を。


 とにかく今は、ごんぎつねだ。

 お題の物語をアレンジしたり続きを書いたりするんだっけ。

 幾つかお題はあったけど、オレは迷わず『ごんぎつね』を選んだ。

 他のは知らなかったし。

 まぁ、一番簡単そうだったから。

 

 ごんと翁、ジーザスと助手のベティ。

 誤解と裏切り、そして銃撃。


 ………タイムリミットまで、あと何限あったっけ。

 

 オレは焦燥の中で処理室を後にした。

 仄かな残り香が、処理場を訪れる工作員達を優しく包みこんでいた。

 

 これは、何度目のチャイムだ。

 無情にも時間だけが過ぎていく。 

 既にカウントダウンまで一限を切った。

 新たな地雷の兆候は無い。

 考えろ。

 いたずら好きのごんは、ベティと似てる。

 いたずらを反省したごんは、独り身の兵十にこっそり食料を持っていくんだよな。

 でも鈍感な兵十は気付かなくって、ごんを撃ち殺しちゃうんだ。

 ごんに銃を持たせるか…ベティも持ってたし。

 いや、なんか台無しになる気がする。

 

 

 廊下にコツコツと無機質な靴音が響く。

 それはまたたく間に数を増し、不穏な空気を校内に撒き散らしていく。

 

 現れたな『視察者 理沙』よ。

 ハッ!知っているぞオレは。

 その服は由紀子おばさんに借りたのか。

 オレはいつも母ちゃ…理沙を見てるから分かる。

 観察はスパイの基本だ。


 「はい!席について下さい」

 山村尋問官の良く通る声が教室の空気を一変させた。

 みんなが席についたところで、視察者の面々が廊下にびっしりと列をなした。

 史上最大のミッションが始まる。


 作戦の前段は尋問官の描くストーリーに沿って進んだ。

 机の端から順番に、簡単な質問に答えさせられ、尋問官が上手く誘導して正解っぽく聞こえるようにする。

 さすがはプロの仕事だ。


 そんなに余裕はなかったけれど、武藤の順番の時だけは彼女の両親を特定するのにオレの鋭い観察眼を使った。

 

 いよいよだ。


 「それでは、ここから発表に移ります。事前に提出してもらった作案から二人にやってもらいますね」

 山村尋問官の言葉に、心臓がドクンと脈打つ。


 「まずは、木下さん。山椒魚のアレンジね」

 木下は学年トップクラスの分析能力を持っている。

 スパイというよりエージェント向きだ。おそらく交渉事に強い。

 口喧嘩に負ける男子を何人も見た。

 オレの助手にしてやってもいい。


 「山椒魚 ―種の存亡と系譜―」


 木下の発表は、大きな拍手を受けて終わった。

 大きくなりすぎて岩の部屋から出られなくなった山椒魚の元に、カエルやらヘビやらメダカやらが入り込んで食うか食われるかみたいな話だった。

 最後は、一度人間に埋め立てられて土の中で冬眠してた山椒魚が戦争で爆撃を受けて川の流れが復活、山椒魚も復活!


 んーと。

 もう…いいんじゃないかな、オレの発表。

 なんだか色々深い話だったし。

 

 尋問官はひとしきり木下を褒めちぎったあと、無慈悲に次の犠牲者を宣告した。


 「それじゃ、最後に吉田くん。ごんぎつねのアレンジね。提出してくれていた作案から変えてもいいからね」

 

 …提出していた作案は狐一族と村人連合軍の大規模戦争だったけど、山村道子、アンタはそれをこの最終局面にぶち込むつもりだったのかよ。


 覚悟を決めろ、ジン。

 オマエは創作もできる天才スパイだ。

 「ごんぎつね」

 オレは目を細め、精一杯低い声で話し始めた。


 子狐のごんは、いたずら好きだった。

 いたずらと言っても、誰彼構わず仕掛けていいものじゃない。

 ごんは常に対象を観察し、最高の結果が出る事を確信できるまで、決していたずらしなかった。

 

 今のターゲットは翁、兵十だ。

 

 兵十には妻がいる。

 妻も兵十も年老いてはいるが、その目の奥には底知れぬ闇が潜んでいた。

 表向きは二人とも優しい老夫婦。

 だけど兵十の持つ猟銃――殺傷兵器は、どの猟師とも違っていた。

 妻の服には鉄と火薬の匂いがまとわりついているし、ただの村人ではない。隙が無さすぎるんだ。


 兵十には、こちらを伺う子狐が何か企んでいるのは分かっていた。

 経験、勘、そんなところだ。

 だが、殺意はない。

 何かあればその時に対処すれば事足りる、そう思っていた。

 妻、べてぃが倒れるまでは。


 絶対に助けてやる。

 兵十は静かに誓った。

 これまで何度も二人で死線をくぐり抜けてきたんだ。

 隠密として時の帝に仕え、多くの汚れ仕事に手を染めた。

 「一息つこうよ」

 べてぃがそう言ってくれなければ、オレは戦場で野垂れ死んでいた。

 うなぎを食べさせよう。

 それしかない。


 (よし!ここまではいい感じだ…)

 (…あれ?なんか笑われてる?)


 ごんは兵十の妻が倒れたのを見ていた。

 妻は魚ばかり食べていて、兵十は獣肉ばかり食べていた。

 この川の魚はダメなんだ。

 ごんは野生の勘でその事を知っている。

 最高のいたずらのために、今兵十の妻に死なれては困る。

 兵十の仕掛けるうなぎカゴを壊す。

 それしかなかった。


 子狐、貴様…

 ちぎられたうなぎカゴの前で、兵十は拳を握り締めていた。

 

 この日から、兵十のターゲットはごんになった。

 それからのごんは、毎日命の危険にさらされていた。

 狩ったリスとネズミを兵十宅に届け、殺戮兵器から逃げ続ける。


(…ヤバい…続き…忘れた…)


 ごんは考えた。

 スパイとして完璧ないたずらを仕掛けるのがオレの美学だ。

 いざとなったらこの44マグナムで差し違える。


 (あれ?違った?なんだっけ…ヤベえ…えっと)

 

 兵十にも誤解を解いてもらわないと。

 意思疎通ができないから、なんとかしなきゃ。

 ごんはキノコを使った。


 (て、なんだそれ……)


 兵十が寝静まった頃に家の前にキノコを並べる。

 川の方向にバツ印を、山の方向に丸い印を描いて置いた。

 

 (ベティ…死んじゃうんだっけ…)

 (あぁ、もーだめだ)


 兵十はキノコの意味を理解した。

 コイツは子狐に見えて本当は凄腕スパイか。

 妻は死んだが、コイツとならこの先やっていけるぜ。

 村に来る敵は俺たちが許さねぇ。

 死にたい奴は掛かってこい。

 神様に祈ってからな。

 ジーザス!


 (なんか、最後だいぶんマズかったよな…)


 「えっと…終わり…です」


 (母ちゃん…見てたよな…)

 気付けばオレは、背筋と腋にじっとりと汗をかいていた。


 山村尋問官が思い出したかのように拍手を始めた。

 ポツポツとそれは大音量の響きに変わり、同時に親も子も好き勝手な感想を語りだす。


 「ジーザス!」「ぺーオモロー」

 「ベティすぐ死ぬし」

 「キノコを使った!テッテレー!」

 「ぺー最後テキトーすぎ」


 一時、教室も廊下もガヤガヤとざわめきが収まらなかったものの、山村道子がなんとか締めにかかって、ようやく戦場に静けさが戻った。

 ま、まぁ、オレにかかればこんなもんよ。

 史上最大の作戦!ミッションコンプリート!…だよな、たぶん。


 あぁ、早く家に帰りたい。



 「ジーザス!部活いくだろ?」

 いつからオレの渾名が変わった?

 翔弥が学食帰りに昼からの予定を聞いてきた。

 「ジンと呼べ、ジンと」

 オレは別にジーザスでも良かったんだけど、まだその名を名乗るには早すぎると思って自重した。

 「今日部活休みなんじゃなかった?」

 「キャプテンが自主練するぞって。マネージャーも来るらしいぜ」

 白石美久…重要監視対象か。

 「そう、な、なら行こうかな」

 完璧な冷静さで翔弥に答えたオレは、次の任務に頭を切り替えた。

 今日はずいぶんと忙しい。



 「え?三人も帰ったの?」

 「なんか親と一緒に帰る奴らがいるんすよ」

 キャプテンと話していた翔弥が、突然こちらを向く。

 「へい!ジーザス!」

 「ぺーの渾名、今日からジーザスになったんすよ」

 「は?何それ」

 またオレをネタに話してんな。

 バッシュを履きながら、いつものクセで二階席を見上げた。

 武藤聡美。いるよな、やっぱり。

 いつも一緒に見てる隣の子も。


 だが、既にオレの監視対象からは外れている。はい、一般人に格下げです。

 そして横を…近い!

 近いよ白石美久。

 そんなに近いと監視できない。


 オレはすぐさまボールを拾って靴を鳴らし、白石から離れて柔軟を始めた。

 特にキャプテンから指示もないので、各々シュート練習をしていると、性懲りもなく翔弥が近寄ってきた。

 オレは白石が見える位置に移動しつつ、翔弥に正対する。

 「ぺー、なんか担任が呼んでるって」

 「え?オレを」

 「うん、知らないけど、校舎行ってみ」

 山村道子がオレを呼んでる?

 さっきの発表のことか?

 翔弥も何かよくわかってないみたいだし。

 オレは急いでバッシュを脱ぐと、上履きをつっかけたまま走って校舎に向かった。

 職員室かな?まぁとりあえず、うちのクラスに行ってみるか。


 廊下からでも耳をすませば聞こえるくらいの音量で、教室の中から尋問官と理沙の声が聞こえてくる。

 まだ面談中なのか?

 「……そう…父親と…はい…映画に行ってからなんです……うん…ですよねぇ」


 あ、聞こえてしまった。

 たぶんオレの話だ。

 それもそうか、面談だしな。

 やめよう。スパイにも超えてはならない一線がある。


 オレは踵を返して廊下を走った。

 と、誰もいなかった廊下の隅に、見覚えのある影があった。

 「よ、吉田くん!」

 えっと、誰だっけ。

 「石田、純子です。あの、先生まだ面談中だよね」

 …思い出した。

 いつも二階で武藤の横に立ってた子だ。時々目が合ったりして…


 待て。冷静になれジン。

 これはダメだ。

 「えっと…うん…まだみたい。オレ、練習戻らないと」

 なんでだよ。

 自主練だから戻らなくてもいい。

 心臓が爆音で、息が…


 「えっ、そうなんだ…うん、頑張ってね」

 「ぉぅ」

 頭が真っ白になる。

 最高速度で体育館まで爆走した。


 「あれ?先生いなかった?」

 翔弥がいつものニヤけ面で近づいてくる。

 オマエの仕業か。

 

 ベンチに座っている白石に視線を向けた。

 ごめん、白石。

 最重要監視対象が見つかった。


 

 理沙の詰問は夕食を食べ終わると同時に始まった。

 オレにではない。

 コードネーム:イチ、オレの父親、吉田陣一に対してだ。

 「…あの映画、いつの時代なの?もう流行らないから」

 「…」

 イチは答えず、ただグラスを傾けるだけだ。

 「父ちゃん牛乳おかわりいる?」

 これはオレの姉、美奈だ。

 コードネームを与えてやるというイチの提案を頑なに拒んでいる。

 「陣平ちゃんは優しい子なの。あんな映画に影響されて…」

 「強くないと優しくなれねぇ。分かってるだろハニィ」

 「…もう、そういうのいいから!」


 オレはミナと顔を見合わせ、食器を片付けてから部屋に戻った。

 

 今日は疲れた。早く寝よう。

 

 ハッとして目が覚めた。

 寝る前の大事な仕事を忘れていた。

 オレは暗闇の階段を静かに降りると、一階のトイレへと向かう。

 リビングを隔てる扉の向こうから、静かな声が聞こえる。

 二人はまだ話してるのか。

 

 「…いろんなモノに触れて、カッコつけるのもいいじゃねぇか」

 「私は心配なの。あの子、あなたに似て正義感も強いじゃない…」

 

 理沙、心配するなよ。

 オレは父ちゃんも母ちゃんも好きだぜ。

 オマエを悲しませることはしない。

 (ジーザスの台詞だ。やっと言えた!)


 突然、二人の話し声が聞こえなくなった。

 オレは少しだけ扉に近づいた。

 次の瞬間、目の前の扉が勢いよく開かれ、イチの分厚い手がオレの頭に被さる。


 「まだまだだな、ジン。それじゃあ優秀なスパイにはなれんぞ」


 オレはイチを睨みつけてから、急いでトイレに駆け込んだ。


 土曜日の昼過ぎに翔弥と待ち合わせして、商店街の外れにあるオレの行きつけの映画館に行った。

 「…休業中、だってさ」

 確かに古びた映画館だったし、イチと一緒に見た映画は貸切状態だった。

 

 「客がこないんじゃない?」

 翔弥がつまらなそうに言う。

 「武藤と行くならショッピングモールとかにある所がいいでしょ」

 オレは既に吹っ切れているから、なんにも動じずにそう言ってやった。

 あの時は分からなかったけど、この映画館で上演してるのは、古い映画ばかりだった。


 「あ、これ『コードネーム:ジーザス』、ぺーの見たやつでしょ」

 翔弥が壁中に貼られているポスターからそれを見つけた。

 パンフレットのとは違う。

 ポスターは黒い背景にジーザスとベティが背中を向けて立っている。

 「なんで、後ろ向きなの?」

 翔弥が素朴な疑問をぶつけてきた。


 オレは知っている。

 イチに教えてもらったんだけど。


 「手もさ、なんで『四』ってしてるの」

 ポスターの二人は手のひらをこちらに向けて、親指だけを曲げている。

 

 「後ろ向きなのは、誰にも顔を見せられないから」

 ん、ちょっと違うな。

 イチはなんて言ってたんだっけ。

 「…見て欲しくないから…だったかな」


 「手はね、助けて!のハンドサイン…あの四本の指を親指に重ねるんだ」

 「へぇ、じゃあ、まだ助けて!にはなってないってこと?」


 「そう…」

 イチはもう少し説明してくれたけど、オレにはよく分からなかった。

 その時は…なんか二人ともギリギリで、色々大変なんだ…って思ったんだ。


 「ぺーさぁ、これから予定あんの?」

 翔弥はこちらを振り向きもせず、そう言った。

 「え、特にないけど…」

 「そんなら、ちょっと付き合ってよ」

 オレの直感が激しい警笛を鳴らす。

 …悪い予感しかしない。



 土曜日の午前中はそれほど人が多くない。

 知り合いに会う確率…ほぼゼロ…のはずだった。


 「よぉ!なんか…偶然だね」

 ショッピングモールの入口を入ってすぐ脇のベンチに、よく知っている監視対象と元監視対象の一般人が三人並んで座っていた。

 

 「ほんと、偶然、偶然だね!」

 笑顔で翔弥に近づく武藤。

 …そんな訳ないだろ。

 オマエら絶対、待ち合わせしてたよね。


 オレの頭脳と観察眼が全ての布石を回収する。

 翔弥のなんともいえない表情。

 武藤のグイグイ感とキラキラした目。


 フッ…そうか…

 押し切られたな、翔弥。


 白石美久、そして石田…純子。

 あっちの一般人どもは戦力外。

 オレに二人の刺客をあてがったというわけか。

 

 そういうのいいから。

 とりあえずこの空気、なんとかしてくれ。


 「…吉田くん、私のこと憶えてる?」

 石田純子。

 当たり前だ、最重要監視対象だぞ。

 「あぁ、この前廊下で…」


 「ねぇ、『くん』とか止めない?陣平でいいよね?陣平」

 また近いよ白石。…いい匂いだけど。

 てか早いんだよ、呼び捨て。

 距離感あるだろ、距離感。

 スナイパー適正ゼロなのかよ。


 「別にいいけど…ジン、でもいいけど…」


 「え?ぺーはぺーだろ」


 翔弥ぁ!

 てめえ、一般人はすっこんでろ。


 「…ぺー?ジン?」

 困った顔も可愛いのかよ、石田純子。


 「ジンだ、ジン」 

 「じゃあ、私はジュンね」


 クソッ!完全に浮き足立っている。

 ジン、目を覚ませ!

 オマエは沈着冷静なスパイだ。

 だけど――

 (コードネーム:ジュン)

 新たな任務か。

 悪くない。


 「俺ら映画館の下見に行くけど、三人はどうする?」

 コイツはもう開き直っているな。


 「じゃあさ、バッシュ見に行こうよ陣平、ジュンもそれでいいよね」

 オレもジュンも、頷くだけ頷いて美久の後に続く。

 

 一度だけ振り返ると、翔弥と武藤は手をつないでエスカレーターを登っていた。

 押されっぱなしだな、翔弥。

 いい気味だ。

 「なんか…イチャイチャだね」

 ジュンが上目遣いで見つめてくる。


 楽しすぎる。

 

 翔弥、オマエのエージェントとしての能力は一流だ。

 それだけは認めてやろう。

 

 靴屋を出たオレたちは、行く当てもなく一階の大通りを歩いていた。

 「いいの無かったの?」

 美久がオレの顔を覗き込む。

 「…うん…色が…」

 「やっぱりジンく…ジンって黒が好きなの?」

 ジュンが可愛い。

 「え?」

 「今日も、その…全部黒だよね」

 まぁ、あの日映画を見て、オレが陣平からジンになった時から、黒しか着なくなった。

 イチと美奈姉のお古を譲り受け、全ての黒を我が物にした。

 スパイの色をその身に纏う。

 黒がオレの制服だ。


 「学生服も黒だしね。似合ってると思うよ」

 ジュンの笑顔が可愛い。


 ジン!口を閉じろ!歯を食いしばれ!

 今日の任務は過去イチ厳しい。

 オレは大きく息を吐いた。


 少し並んでから、アイスを買った。

 オレはチョコで二人はバニラだ。

 できるだけスパイの色に近いもの。

 黒ゴマ味があれば、オレは迷わずそれを選ぶ。

 通路の中央にあるベンチに腰を下ろす。

 真ん中にジュンが座る。

 美久はスマホをイジりながら器用にスプーンを操っている。

 …コイツは工作員向きだ。

 あの手つき…間違いなく武器の扱いに長けている。


 ベンチからは、イベント用の広場が見えていた。


 視界が揺れる。

 ん…気のせい…かな。


 不意に気になって、ジュンに聞いてみた。

 「助けて!のハンドサインって、知ってる?」

 「んー…知らない、かな」

 美久も知らない、と一緒になって首を振る。


 女子も知らない。

 きっと、あそこの広場で走り回ってる子ども達も。

 オレの住む世界は平和だ…


 オレは二人にサインを教え、勢いのまま翔弥をいじってやった。

 「今頃アイツ、サイン出してるかもよ」

 「あぁ確かにねー。聡美って結構押し強いから」

 美久が呆れたように笑う。


 ジュンが食べかけのチョコアイスを狙ってきた。

 「チョコ、美味しい?」

 …やはりスパイの色がいいのか。しょうがないな…


 !!!


 不意に強烈な違和感を覚え、オレは広場で走り回る二人の子供に釘付けになった。

 「…ねぇ、ジン」

 

 悪いが、緊急案件だ。

 後は頼んだぜ。

 オレは溶けかけのアイスをジュンに押し付け、広場に走った。


 ステージの奥にある巨大な液晶画面――

 揺れている?

 画面の周りで追いかけっこをする二人は、急激な方向転換の都度、その土台と支柱に手をかけていた。


 走れ、ジン!

 幼き要人を視界に捉え、救出への道筋を頭の中に描き出した。

 人の背丈をゆうに超える黒色の画面が大きく揺らぐ。

 ミシッ。

 支柱の亀裂が音を立てた。


 支柱から伸びるコードの束が波打つように中空に立ち上がる。

 取り残された男の子が、一人画面の下に座り込んでいる。

 甲高い悲鳴が広場の天井に響きわたった。


 届いてくれ!


 オレはステージに駆け上がり、力いっぱい跳躍した。

 男の子の頭に手を添え、もろともうつ伏せに滑り込む。

 刹那、大轟音と共に画面の角が足元に落ち、大きく跳ね上がった。


 男の子は泣いていた。


 誰か…早く…

 頭が割れるように痛い。


 ハンドサインは見えないけれど

 助けてあげてよ。この子を。


 …男の子は、急いで走り寄ってきた誰かに抱えられ、いなくなった。


 怪我は無さそうだ。

 任務達成…だよな…


 ゆっくりと立ち上がる。

 ステージ上で、三つのアイスを抱えた石田純子が何かを叫んだ。


 「危ない!」

 

 咄嗟に見上げると、頭上からコードの束が迫っていた。

 辺りの景色がゆっくりと動く。

 背後から激しい息づかいが近づき、オレの身体にぶつかった。

 「ビシュッ」

 コードの束が頭を掠める。


 意識が吹き飛んだ。

 無意識に指が動く。

 虚しいハンドサイン。

 誰にも届かない。


 あれ…この匂いどこかで…


 そして、柔らかい何かに包まれた。


◇◇◇


 「…ぺい!…じんぺい!…陣平!」

 「お母さん、少しお静かに」

 

 ここは…

 

 手術台か…

 改造されるのか、オレは…

 どうせなら隠し武器がいいな。

 大口径のやつ。


 白い天井、りんご、理沙の泣き顔。

 ん?


 「あ、起きたみたい」

 あぁ、美奈姉か。


 いっ!あったま、痛え。


 縋り付く理沙の肩に手を乗せ、オレは痛みを堪えて首を捻った。

 近いよ白石美久。

 そこは家族の立ち位置だろ。

 顔クシャクシャだし。可愛いけど。


 翔弥、武藤、石田純子もいる。

 泣いててもイケメンだなオマエ。

 あれ?ジュンの服変わった?


 「とりあえず良かった。話できる?陣平。無理しなくていいよ」

 美奈に言われ、オレは低い声で呟いた。

 「フッ…みんな無事で良かった」

 声は盛大に裏返ったけど、頭がめちゃくちゃ痛かったからだ。

 

 「そろそろ、よろしいですか?お母さん」

 白衣の改造医が理沙に何かを促す。

 助手の女が言葉を挟む。

 「親族の方以外は、お時間なので」

 おいおい待て待て、感動の再会だぜ。

 まぁ…いいか。お姉さん綺麗だし。


 「良かった。ぺー…陣平、退院待ってるから」

 翔弥の言葉に武藤も頷く。

 だから、泣くなって。


 「陣平くん、早く良くなってね。すごく、カッコよかった」

 ジュン、コードネームはどうした?オレはジンだジン。

 

 白石美久は何も言わなかった。

 ただオレの手を、助手に引き剥がされるまでひたすら握り続けていた。

 美久の指には包帯が巻かれていた。

 あの時と同じ、いい匂いがした。


 オマエだな。

 あの時、オレを包んでくれたのは。


 チッ、まだまだだなオレは。

 コードネーム:ミク。

 こちら側の人間だったか。



 その日から二日間、オレは経過観察という名のもと、改造前の過酷な検査を受けさせられていた。

 囚われの白い監獄。

 動くことが許されない巨大な筒に入れられ、轟音に耐え続ける身体実験。

 精神耐性のチェックか。

 こいつら…

 オレの脳までいじるつもりだ。


 イチは海外出張中、理沙はそう言ってたけど…

 たぶん西か東か中央か、どこかのガワ諸国の陰謀を暴く極秘任務にあたっている。


 「いつでも退院できるってさ」

 美奈姉が大きなバッグをオレの足元にドサリと置いた。

 「お父さんがこっちに向かってるって、下で待っておきましょうよ。手続きしてくるわね」

 理沙はニコニコしながら、荷物を片付け始める。

 オレはバッグから着替えを取り出した。

 お、分かってるね、美奈姉。

 漆黒の上下に身を包み、オレは白の監獄を後にした。

 

 「…うん、そこの角、曲がるとこだよ、はーい、切るね」

 美奈姉はイチとの電話を切ると、嬉しそうにオレに話しかける。

 「映画館の前で待ってるって」

 オレは別になんとも思ってないけど、早く家に帰りたいし、少しだけ早足になってもおかしくない。


 「あ、待ちなよ陣平!」

 背中に美奈姉の声を聞きながら、オレは映画館への角を曲がった。

 いつものイチが見えた。


 たぶん監獄の改造医に何かされたんだ。

 脳にもチップが埋め込まれてる。

 目にも仕掛けがあるはずだ。

 こんなに溢れてくる水は、まだ馴染んでないからだ。


 「よぅ!陣平、なんだそのつらは」

 オレは俯いたまま、イチに拳を突き出した。

 「あぁ…ヒーロー、聞いたぜ!よくやったじゃねえか」

 イチは拳を合わせると、大きな手でオレの頭をクシャクシャする。

 

 理沙に渡されたハンカチで鼻を噛んだオレは、映画館の方を向いた。

 イチにどうしても聞きたいことがあったんだ。


 「ここって潰れちゃうの?」

 イチは少し黙って映画館を見つめていた。

 「…どうかな、もう…客も入ってないみたいだから…」

 「じゃ、じゃあさ、あのポスターも無くなっちゃうの?」


 『コードネーム:ジーザス』


 オレの指の先に目を向けたイチは、ニコリと笑う。

 

 「無くなるかも知れねぇけど…ジン、オマエパンフレット持ってるよな?」

 

 あれじゃダメなんだ。

 ジーザスしか映ってない。


 ベティとジーザスが背中を向けて、ハンドサインを送ろうとしている。

 このポスターだけの特別な仕草。


 「これが…いい」

 オレのスパイ人生の始まり。

 あの時、走り出せたのは――

 翔弥がこの映画館に連れてきてくれた。武藤に押し切られて。

 三人で、あのベンチでアイスを食べてなかったら、あの子はどうなってたんだろう。


 「写真、撮る?」


 …やっぱ、分かってるね、美奈姉。

 

 「はーい、カッコつけてー…って、おい!顔見せなよ」

 ジーザスと同じ姿勢だ。

 顔は…見せられねえ。


 「お父さん、仕事は大丈夫なの?」

 理沙が心配そうにイチに声をかけた。


 「明日の朝、発つよ」

 そう言って、口に手を添えると小さくオレに囁いた。

 「オマエのミッション、一部始終を聞かせてもらわないとな」

 オレはすかさず言い返してやった。

 「機密情報だぜ。タダじゃ教えられねぇな」


 何故か呆れた様子の理沙が、スタスタと歩き始めた。

 「…もう、本当に忙しいのね。なら早く帰りましょうよ」

 「ま、待てよハニィ!君の顔を見に帰って来たんだぜ」

 イチが慌てて後を追う。

 

 古びた喫茶店の前で、オレは一人歩みを止めた。

 「どうした、ジン、早く帰るぞ!」

 イチは理沙の機嫌をとりながら、それでも速度を落とす。

 オレは立ち止まっていた。


 「もう、なんなの陣平ちゃん」

 「早く行くよー」


 ゆっくりと三人がオレの元に戻ってくる。

 「イチ、ここ」

 「ん?あぁ、この前映画の帰りに寄った…」


 イチ行きつけの喫茶店。

 「へぇ『喫茶ジーズ』?なんか渋そうなお店だね」

 美奈姉にも分かるのか?


 オレには言ってみたい台詞があった。

 今しか言えない。

 大チャンス到来だ。


 「イチ、忙しい?」

 「…ん?お、おぅ、まぁな…」


 ベティがジーザスに放った言葉。

 必死に武器を手入れするジーザスに、ベティが優しく声をかけたんだ。

 最後のミッションの直前だった。


 オレは扉を顎で示し、最高に痺れる一言を贈ってやった。


 「ねぇイチ、一息つこうよ」


 (言ったーーー!渋いぜオレ)

 声もベティっぽかったし、呆れた顔も完璧にシンクロしてたはず。

 


 イチは口を開けたまま、目を丸くして笑い出した。


 「言うようになったな!カッコいいぜジン!」

 「理沙!入るぞ、ここ」


 もう一つ、イチに言いたいことがあった。

 「オレ、助けたんだ、あの子を。ス、スパイになれたかな…」


 イチは真顔になって答えた。

 「オレの息子にしちゃあ、上出来だ」

 「だけどな、ジン」

 そう言ってオレの頭に手を置いた。


 「スパイとしてはヒヨッコだ。自分の身は自分で守れ」

 「誰も、悲しませるんじゃねえ」


 理沙と美奈姉は、呆れた様子でオレたちを見ていた。

 とても優しい笑顔だった。


 「カロン、カラン」

 年季の入った木製の重たい扉を開ける。

 外国のおじさんの歌?

 店内のBGMは何を言ってるのかよく分からなかったけど、一つだけ聞き取れる単語があった。


 「Smile」

 

 「これって何の曲?」

 イチに尋ねる。


 「ん?…そうだな、笑えよって曲だ。オマエも…笑え!泣き虫スパイめ」

 

 明日から、新たな任務が始まる。

 翔弥と武藤は…あいつら、上手くいかないね。たぶん。

 重要監視対象も整理しなくちゃ。

 ジュンは可愛いし。

 ミクは…うん。

 まず、ありがとうって言おう。

 スパイって笑うんだっけ?

 でも…笑顔でありがとうって言いたいんだ。


 ♫Smile and maybe tomorrow,You'll see the sun come shining through for you.


 オレの名は吉田陣平。

 今はまだヒヨッコのスパイ候補生。


 コードネーム:ジンだ。



 Fin


最後まで読んでいただきありがとうございます。

初投稿&初小説です。

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