第四章:異邦の天に昇る
夜が明け、気づけばガランは再び現代の、がらんとした食卓へと戻っていた。先ほどまでの喧騒とは違う、新しい昼時の客たちで店は賑わっている。
「ようやくお目覚めか?」カウンターを拭きながら、店主が声をかけてきた。
ガランは背伸びをした。口の中にはまだ鉄の味が残っている。「ああ……どれくらい寝てた?」
「一時間ほどだ。本格的に眠りたいんなら、宿へ行くんだな」
ガランは決まり悪そうに後頭部を掻いた。「すまない。……いや、実はまだ泊まる所を決めてなくてな。観光客を歓迎してくれるような、地元の宿を知らないか?」
店主は考え込むように頷いた。「それなら、俺の親戚が内陸を北に二十分ほど行ったところで、宿屋兼そば屋をやってる。月ノ谷村で『風村』の一家を訪ねてみな。……ただし、あまり遅く着かないようにな」
ガランの宝物庫に収められた神聖手引書が、自動的にその道順とこれまでの旅の記録を書き込んでいく。「遅くなるとどうなる? 復讐の幽霊にでも捕まるのか?」
店主がビクリと肩を揺らした。「……ほう、噂を聞いてるのか」
「何か知ってるのか?」
「いや、残念ながら」店主は視線を逸らし、溜息をついた。「調査官殿の役に立つような話は何もない。……口外するなと言われてるんでね」
「そんなに固く口を閉ざされてるのか」
「ああ。だが、ここの連中は神語を話せんからな」店主は付け加えた。「あんた相手なら話しても問題ないだろうよ」
(なるほど。重要人物に会う必要がありそうだな)「分かった。情報をありがとう」
ガランは軽く手を振って、真昼の太陽の下へと踏み出した。空気は潮風と焼き魚の匂いで満ちている。ビーチは活気に溢れ、様々な人種や神族たちが砂遊びや海水浴を楽しんでいた。
群衆の中に、緑色の鱗に覆われた河童が数体混じっている。一体が浅瀬に頭を浸し、頭頂部の皿に海水を満たしていた。水かきのある手と嘴を持つ彼らは、波間を滑るように泳ぎ、観光客の監視員を務めている。
(ふん、塩水に耐えられるように遺伝子を組み換えられたか。驚くことでもないな)ガランは思った。
彼は、色鮮やかなポスターが並ぶ大きなガラスの掲示板の前で足を止めた。そこには火山の見学ツアーや文化体験、さらには「船幽霊」や「濡れ女」がガイドを務めるダイビング体験の広告が躍っていた。
(危険な化け物どもを、よくもまあ観光資源に変えたものだ)
彼の視線は、あるポスターに釘付けになった。鬼格闘大会の決勝戦。牙を剥いた鬼の頭を象ったトロフィーのイラストが描かれ、その下には対戦カードが記されている。
『酒呑童子――饗宴と破滅の鬼』対『大嶽丸――峰の憤怒の鬼』
詳細を確認する。試合は午後五時、空寵島の「飛天劇場」で開催予定。
(重要人物が集まるには絶好の場所だな)とガランは判断した。
現在時刻を確認するため、宝物庫から念波対応の懐中時計を取り出す。午後一時二十六分。時間はたっぷりある。
彼はフェリー乗り場へ向かったが、切符売り場の料金表を見て顔をしかめた。島まで二百皇金だと? 泳いだほうがマシだ。
水上を走って渡ることも考えたが、魔力の消耗が激しいため却下した。代わりに、混雑するドックを通り過ぎ、色鮮やかな船からフジツボを削り落としている一人の老漁師に目を留めた。
(評議会が支配する前の日本を知っていそうな風貌だな)
ガランは男に近づき、丁寧にお辞儀をした。「すみません」完璧な日本語で話しかける。「空寵島まで乗せていってはくれないか?」
漁師は腰を伸ばし、日焼けした顔に深い皺を作って笑った。「空寵島? ああ、いいよ。四十皇金で送ってやる。問題ないさ」
「助かる、お願いしよう」ガランは頷いた。
漁師は波止場の仲間に向かって手を振った。「おい、手伝ってくれ! この親切な観光客さんを空寵島まで送った後、もう少し漁に出るぞ!」
「もうかよ?」一人がぼやいた。「休憩も終わってねえのに!」
「つべこべ言わずに来い! ボーナスが出るんだぞ!」
それを聞いた仲間の目が輝いた。「よし! 今すぐ行く!」
彼らは色鮮やかな船を浅瀬へと押し出した。ガランが船の中央に落ち着くと、漁師たちはリズミカルな水音を立てて漕ぎ始めた。
ガランは念波を伸ばし、彼らの中に復讐の幽霊のヒントがないか探ったが、聞こえてくるのは根拠のない噂話ばかりで、思わず呆れた溜息が漏れた。彼は背を預け、水面に踊る陽光を眺めた。
「ところで」しばらくしてガランが尋ねた。「この辺りで働いて長いのか?」
「俺か?」一人の漁師が振り返った。「子供の頃からさ。親父も、そのまた親父もな。ずっとここで漁をしてきた。この辺の海は第二の家みたいなもんだ」
「空寵島に行くんだよな?」別の漁師が口を挟む。「あそこは変わっちまったよ。昔は天狗が住んでる静かな場所だったんだが、今は評議会のおかげで大賑わいさ」
「彼らが来たことで、良いことばかりなのか?」
「ははは、もちろんさ」四人目の漁師が笑った。「あいつらが現れてから、祭りはデカくなったしな。観光客も年々増えて、商売あがったりだよ」
「金だけじゃないぜ」三人目が付け加えた。「最近の妖怪は愛想がいい。ビーチを見守ってる河童なんかもそうだ。昔は厄介な連中だったんだが、評議会が手懐けちまったからな」
(しっかりとした計画があるわけか)「面白い。危険な存在だという話も聞いていたがな」
「ああ、そりゃ本当だ」三人目の漁師の声が少し真剣になった。「今はルールがあるからな。だが海は……海だけは変わらねえ」彼は座席の下からひょうたんを取り出し、一口煽った。「覚えておきな、島と本土の間の海には、まだ危険が潜んでる。船幽霊や濡れ女はルールなんて気にしねえからな」
「評議会の管理が及ばない場所が、まだあるということか?」ガランが尋ねる。
「ああ、間違いない。海は深いし、森は広大だ。……あんた、冒険家だろ? そういう場所を探索するのが好きなんじゃないか?」
「ふん、そうかもしれんな」
漁師がひょうたんを差し出した。「へい、あんたもどうだ?」
「これは別料金か?」
男たちは大声で笑った。「いいや、タダだよ。異邦人と酒を酌み交わすなんて、毎日あることじゃないからな」
「ありがたく頂こう」ガランはひょうたんを受け取った。深く息を吸い込むと、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。一口飲む。リンゴと梨のような風味が弾け、その後に深いコクが広がって、冷たい潮風から胸の奥を温めてくれた。
「ほう、これは美味いな」感心した様子でガランが言った。「日本人は酒造りの天才か」彼はひょうたんを返した。
「ところで、あんたの名前はなんて言うんだ?」
「ガランだ」彼は親しげに微笑んだ。
漁師は聞き慣れない響きに顔をしかめた。「ガラン?」
「ガラン(Galan)だ」
「ガラン……伽藍か?」二人目の漁師が考え込む。「お寺のことか?」
ガランは首を振った。「いや、そうじゃない。ええと……」 (さて、どうしたものか……)
彼は念波を伸ばし、彼らの思考の中にある言語の糸をたどり、彼らにとって馴染みのある響きを探った。文字が頭の中で組み替えられ、一つの完璧な名前が浮かび上がる。
「……『穏川』と呼んでくれ」 それは神語の名前と同じ、「穏やかな川」を意味する名だった。
「その場で決めたのかい?」
「ああ。どうだ?」
「いい名前だ、穏川さん」最初の漁師が笑った。
「『穏』でいい」
それから数分の間、彼らの会話は続いた。
島が近づくにつれ、船の下を泳ぐ「人魚」の姿が見えてきた。彼らは光を反射してしなやかに泳ぎ、他の船の底を自在に通り過ぎていく。岸辺では若い天狗たちが空から舞い降りて観光客を驚かせ、悪戯っぽく菓子をひったくっていた。
港に入ると、船は頑丈な梯子の横で止まった。「ありがとうございます(アリガトウ・ゴザイマス)」ガランは立ち上がった。
手首を軽くひねると、手のひらに四枚の黄金色の硬貨が現れた。「ほら。細かい持ち合わせがなくてな」
漁師たちは目を丸くした。「お、おい……今の、どうやったんだ?」
「ん? これか?」ガランはニヤリと笑い、硬貨を本、鏡、花火へと次々に変身させ、再び硬貨に戻してみせた。
「穏川さん……」最初の漁師が息を呑んだ。「あんた……もしかして、神様なのか?」
「まあな。だが、誰にも言うなよ? 面倒なことになるのは……」
言い終わる前に、漁師たちは船の底に額がつくほど低く跪いた。ガランは溜息をつき、顔に手を当てた。「……勘弁してくれ」
彼は膝をつき、男の肩を叩いた。「いいか、この金を受け取って、仲間と分けて家族のために使え。……そうだな、俺を楽しませてくれた『試験』の合格祝いだと思っておけ」
「……は、はい! 穏川様!」彼らは声を揃えて答えた。
「おい! 通路を塞ぐな!」桟橋の上から港務官が怒鳴る。
「すまない!」ガランが応えた。彼は漁師の手の中に硬貨を落とし、梯子を駆け上がった。「さようなら(サヨナラ)!」手を振る。
「穏川様、お帰りの際はお迎えに上がりましょうか!?」
「いや、帰りは他の観光客と一緒に戻るよ」ガランは桟橋の上から手を振った。「みんな、達者でな」
彼が歩き出すと、背後から波止場の喧騒に混じって賑やかな声が追いかけてきた。「穏川様! 日本の旅を楽しんでくださいよ!」
ガランは振り返らずに、親指を立てるサムズアップの仕草で応えた。
「……あれ、どういう意味だ?」漁師の一人が、同じジェスチャーを真似て尋ねた。
「幸運を祈る、って意味じゃないか?」別の者が推測する。
「おい! さっさと行けと言っただろ!」港務官が再び怒鳴る。
「うわっ、はい!」
笑い声が上がり、漁師たちは慌てて船に戻り、外海へと必死に漕ぎ出していった。ガランは肩越しにその光景を見やり、思わず心からの笑みをこぼした。
「……ふん。人間め」




