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最後の患者

作者: 葛西渚
掲載日:2026/05/18

『十五分後。怪我人、一名でお願いします』



 蓮水(はすみ)からのメッセージを見て、僕は暗闇の中、体を起こした。ベッド横の照明をつけて、目をほぐしてから、時刻を確認すると、深夜二時と表示されている。


 蓮水が患者を連れてくるときは、いつもこんな時間だ。


 僕は急いで顔を洗って歯を磨き、診察室の暖房のスイッチを入れた。そんなことをしている間に、十五分が経過しようとしていたので、僕は慌てて白衣を着てから鍵を開けると、ちょうど階段を上がる音が聞こえた。



「あ、先生。いつも遅くにごめんね」



 蓮水はパーティにでも遅れてきたような、申し訳なさそうな笑顔を見せるが、その背中にはぐったりとした女性の姿があった。どうやら気を失っているらしい。



「取り敢えず、中に」



 僕は蓮水に手を貸して、どうにか女性を診察室に運ぶ。寝台に乗せると、女性は真っ青な顔で浅い呼吸を繰り返していた。雑に巻かれた手首の布は、蓮水による応急処置だろう。僕はその布を外してから、傷の様子を確かめる。大したことはなさそうだ。



「こんな繁華街の隅で無免許医師がひっそりやっているところより、普通の病院に行っても良かったんじゃないか」



 そう言うと、少し離れていたところで見守っていた蓮水が小さく笑った。



「だって、先生のところなら、たらい回しにされないで確実に診てもらえるじゃん。それに、傷の治りが早いし。肉体的にも、精神的にも、ね」



 分かっていたことだが、寝台の上で眠る患者は、特別な事情を抱えているらしい。僕は小さく息を吐いてから、蓮水を見る。



「じゃあ、この女性に何があったのか……背景を教えてほしい」



 蓮水は小さく頷くと、まるで紙に書かれたメモを読み上げるように説明した。



「新山加奈惠さん。三十八歳。二つ年上の旦那と暮らしているけど、子どもはなし。仕事は週三回、スーパーのパート。趣味は……」


「その辺はすっ飛ばしていいよ。いつも言っているけどさ」


「あー、ごめんごめん。仕事柄ついね」



 蓮水は改めて必要な情報を告げる。



「新山さんの旦那は異常なまでの束縛野郎でね、彼女が働くことを反対していたみたい。でも、別に稼ぎが多いわけじゃないから、彼女も働いていたのだけど、男性の同僚とたまたま帰りが一緒になったところを旦那に見られて、そこから大変だったみたい」


「なるほど。それで監禁されたとか?」


「正解。少しでも外に出してほしいって訴えると、酷い暴力を振るわれたみたい。で、うちの会社に連絡があって、救助に向かったんだけど、一足遅かったみたいで」



 蓮水は運び屋だ。と言っても、怪しい品物を運ぶわけじゃない。家庭内暴力や引きこもりなど、事情があってある場所から出られない人を運び出す仕事だ。特殊な事情を抱えている人が多いため、争いごとも珍しくなく、彼女自身も怪我を負うことがあるが、今日に関してはその心配はないらしい。



「一足遅かったって……この手首の傷のこと?」


「そう。彼女がうちに連絡を入れたこと、旦那にバレたみたい。昔みたいに手首を切って、俺に謝れって怒鳴られたみたいよ」


「そのあとも殴られて、今はショックで眠っているのか……」



 僕が患者の顔面についた痣を軽く撫でると、蓮水は「そう」と短く言った。



「分かった。じゃあ、治療を始めるよ。三十分ほどで済むと思うけど、どうする?」


「ここで待っててもいいよね?」



 頷くと蓮水は僕の高機能チェアに身を埋めた。彼女が患者を連れてきたときは、いつもそこで休むため、座り心地のよさを知っているのだ。ただ、普段から僕が座っている椅子に、彼女が自分の居場所であるような顔で、全身を預けている姿は、いつも不思議な感じがする。本当に何年経っても。



「さて……」



 僕は頭を切り替えて、患者と向き合った。巻いたばかりの包帯の上に手をかざし、目を閉じてから何度か深呼吸を繰り返すと、彼女の「痛み」が見えてくる。僕の瞼の裏側には、亀裂の入ったお皿のようなものが浮かんでいた。たぶん、これが彼女の心で、亀裂は強い痛みを抱えている証拠なのだと思う。その痛みを刺激しないよう、僕は亀裂に干渉した。



「何度見ても……凄いよねぇ」



 少し離れたところから、蓮水の呟きが聞こえる。彼女が何に感心しているのかと言うと、治療中の僕の手のことだ。僕自身は目を閉じているため、その様子を見たことがないが、治療中に手の平が仄かに発光するらしい。蓮水いわく、優しい色の光に。



「ねぇ、どうやって治療しているの?」


「百回は説明したと思うけど……まだそれ聞く?」



 三回に一回は聞かれる質問に、僕は苦笑いを浮かべてしまうが、蓮水の方は百回聞いても新鮮な気持ちで受け止められるらしい。



「いいじゃん。教えてよー」



 僕は目を閉じて、治療を続けたまま、慣れた説明を口にした。



「感覚的なことだから、上手く言えないけど……その人の痛みをそっとすくう感じなんだ。水の表面を両手ですくいあげるみたいに」



 共感してくれる人は誰一人いないだろう。だが、それが僕の治療なのだ。



「痛みに強く触れてはいけない。ほんの上澄みをすくうよう、注意しながら」


「強く触れてしまうと、どうなるの?」


「同調できなくなる。患者の心が見えなくなってしまうんだ。そうなると、癒すこともできない」


「……何度聞いても、やっぱり分かんない」


「僕も分からないから、この世界にちゃんと説明できるやつはいないと思うよ」



 この力はなんだろう。僕は改めて考えてみた。



「たぶん、みんな……痛みを共感したいんだと思う。痛みや苦しみを分かってもらうことなんて、滅多にないことなのに、僕はなぜかその気持ちに同調できるんだ。でも、痛いところや傷付いたところを、はっきり主張できる人って意外に少なくて……逆に、はっきり伝えたところで、同調してもらえることも少ないんだと思う」


「そうなの?」



 蓮水はどこまで理解しているのか、さらなる説明を求めた。僕だって理解しているのに、こんな説明でいいのだろうか。そんなことを思いながらも、僕は続ける。



「うん。はっきりと痛みを訴えても、現実感が伝わらないんだ。リアルじゃない。説明すればするほど、明確にすればするほど……リアルじゃない。何て言うか……他人事なんだよ」


「うーん……」


「だから、僕は上澄みだけをすくうように心掛けているんだ。そうじゃないと、同調できないし、治療はできない。そう思っていた……」



 それ以上、蓮水の返事がなかったので、僕は治療に専念した。予定通り、三十分程度で患者の心は修復される。もちろん、完全に痛みが消え去ることはないけれど、これで手首の傷も早めに治るはずだ。心の痛みも。



「終わったよ」


 僕は目を開き、蓮水の方を見たが……彼女は小さな寝息を立てて眠っていた。


「だと思ったよ……」



 そう、彼女は僕の治療時間を自分の休憩に当てているのだ。それだけ、この椅子の座り心地がいいのだろう。


 彼女のために買い換えてから……もう何年経ったか。


 彼女の寝顔を眺めながら、僕は昔を思い出す。蓮水がここにやってきた日のことを。



 彼女の上司である、市川さんがここに連れてきたのだが、最初はとにかく目付きが悪いという印象だった。数年の間、自衛隊にいたらしく、かなり取っつきにくい性格だったのだが……それでも、少しずつ彼女の笑顔は増え、それなりに親しくなったつもりだった。



「先生の椅子、凄い落ち着く」



 そうだ、いつも丸椅子に座ったまま眠って、倒れそうになるから、買い換えたのだった。あのときも、彼女はすぐ眠ってしまったが、僕は良い買い物をした、と思った。


 だが、彼女と出会って三年ほど経った日のこと。そのときも、彼女は治療中に眠ってしまい、僕は目覚めるまでの間、暇を持て余していた。だが、ふと彼女の表情を見たとき、違和感があった。もしかして、と思って、僕は彼女に近付き、そっと手を伸ばした。


 彼女の心。それは痛みによって、今にも割れてしまいそうだった。癒さなくては。僕は治療を試みようとしたが……手首をガシッと掴まれた感覚に目を開くと、彼女が僕を睨み付けて言うのだった。



「私に触れるな」



 親しくなったと思ったら、酷く攻撃的な口調で、驚いたのを今でも忘れない。そして、それは物理的な接触のことを言っているわけではなかった。いや、それもあったのかもしれないが、何よりも彼女は心に触れられることを拒絶したのである。


 僕が謝ると、彼女は何事もなかったように眠ってしまい、目を覚ましたときにはいつも通りだった。あれから、僕は彼女が無防備な姿を晒していたとしても、絶対に手は触れまいと心に決めている。でも、今日みたいに深く眠っている姿を見ると、どうしても気になってしまう。



「君の心は……痛みを訴えていないのか?」



 もちろん、返事はなかったので、僕は何もやることがなくなった。奥にある自室で眠ることもできたが、患者を放置するわけにもいかないので、仕方なくデスクの隅に置いてあった文庫本を手に取る。


 別に興味があって買ったものではなかった。スーパーの隅にある、流行りモノの本が紹介されているスペースで売っていたものだから、きっと面白いのだろうと思っただけだ。しかし、どんなに文字を追っても、僕には魅力を理解できなかった。



「あっ……寝てた」



 蓮水が目を覚ます。寝ぼけた顔に微笑みを浮かべると、彼女も照れくさそうに手で口元を拭った。



「治療は終わっているよ」


「ありがとう。じゃあ、次はシェルターまで運んであげないと。先生、タクシー呼んでよ」


「はいはい」



 僕はいつもお願いしているタクシー会社に電話すると、少し時間がかかると言われてしまった。



「三十分くらいかかるってさ」


「三十分も??」



 蓮水は時計を確認するが、諦めたように溜め息を吐いた。



「まぁ、もう少し休めると思えばいいか」



 再び椅子に体を埋める蓮水だが、僕はずっと先送りにしていたことを、彼女に伝えることにした。



「そういえば、今週末にここを閉めるって話……市川さんから聞いた?」


「……えっ?」



 やはり、聞いていなかったようだ。僕は肩をすくめてから言った。



「たぶん、君の依頼を受けられるのも、今日で最後じゃないかな。あ、深夜に対応してくれて、色々な事情について目をつぶってくれるような医者は、既に市川さんに紹介してあるから。君の仕事に支障は出ないと思う」


「……どうして、やめちゃうの?? 引っ越し、とか?」



 僕は首を横に振る。


「もう、僕には人を治せないから」


 蓮水の視線が、寝台の上に横たわる患者に向けられた。



「そんなことないじゃん。今日だって、ちゃんと治療してくれたんでしょ?」


「今日はね。でも、本当にギリギリだった」


「ギリギリって?」


「上手く言えないけど……同調が難しくなってきたんだ。今までは痛みが視えれば、同調して、癒すことができた。それが最近は……人の痛みを理解できなくなってきたんだ」



 もしかしたら、僕の考えが変われば治療は続けられるかもしれない。だけど、僕は人の痛みを強く掴むようなマネは絶対にしたくなかった。



 蓮水は黙ってしまった。引き止めよう、と思ってくれているのだろうか。でも、僕の治療は僕だけが体感する世界であり、誰かがどうこう言えるものではない。それを彼女も分かっているのだ。



「田舎に帰るつもりだよ。もう会うこともなくなるだろうけど……」


「やめないでよ。普通の闇医者でも続ければいいじゃん」



 普通の闇医者ってなんだ、と僕は思わず笑みをこぼす。



「いや、もう疲れた。疲れたと認識してしまったら、もう続けられない」


「……そんなことないって」


「君も他に仕事を考えた方がいいんじゃないか? そろそろ三十だろう? 体力的に厳しくなってくるはずだ」


「私は……」



 何を言おうとしたのか。だが、蓮水はそれ以上言葉が出てこなかったみたいだった。



 そろそろタクシーがくる時間だろうか。蓮水もそう思ったのかもしれない。ずっと僕を見つめてから、意を決したように言うのだった。



「ねぇ、先生」


「ん?」



 彼女の視線に気付かないふりをして、段ボールに荷物を詰めていたが、僕は振り返った。僕を真っ直ぐ見る彼女は、まだ何かを躊躇っているようだったが、少し唇を震わせながら言うのだった。



「私を治療してよ」


「……どうして?」


「先生に診てほしいから」



 だが、僕は思い出す。彼女が僕の手を拒絶したあの夜のことを。



「君に治療が必要だとは思わないけど」



 あの日、何も見なかったことにして、そう言ってみたのだが、彼女はゆっくりと立ち上がると、狭い診察室の限られた距離を詰めてきた。



「お願いだよ。私を診て」



 切実な何かが、そこにあった。彼女の視線に押されるように、僕はゆっくりと手を持ち上げる。頭の辺りにかざして、目を閉じれば、彼女の心が見えるだろう。蓮水もそれを受け入れるように目を閉じた。



「……いや、やめておく」



 僕は手を下ろして、彼女に背を向け、再び荷物を詰め始めた。そんな僕の背中に蓮水は控えめに懇願する。



「私からのお願いなのに、駄目なの?」


「なんでも言うことを聞くほど、僕は君に甘くした覚えはないよ」


「……嘘つき」



 彼女は小さく呟いてから、あの椅子に座った。そう、彼女のために用意した椅子に。そして、諦めがつかないと言わんばかりに、彼女はしつこく聞いてきた。



「ねぇ、どうして診てくれないの?」



 何度か適当なことを言って誤魔化す僕だったが、あまりに蓮水がしつこいので、少しだけ本音を教えてやることにした。



「君の心を診てしまったら……たぶん、僕はここから離れられない」



 その意味をどう感じたのだろうか。蓮水はしばらく黙ったあと、僕に提案した。



「離れなければいいじゃん。ずっと、ここで……先生やりなよ」



 それもいいかもしれない。実際、ここ一ヵ月ほど、そういう道を模索していたのは確かだ。だけど、考えれば考えるほど……その先には何もなかった。



「駄目だよ」


 だから、僕はそれを彼女に伝える。


「そうしてしまったら、あまりに惨め過ぎて……耐えられないから」



 蓮水は反論するつもりだったのか、口を開きかけたが、思わぬ方向から呻き声が聞こえて、僕たちは同時に寝台の方を見た。患者が目を覚ましつつあるようだ。



「あれ……私は?」



 患者は少しずつ意識がはっきりしだしたのか、その目に不安の色が濃くなる。意識を失う前の出来事を思い出したのかもしれない。蓮水はすぐに彼女の手を握り締めた。



「新山さん、大丈夫。ここに、あの男はいないから」


 それでも追いつめられたような表情を見せる患者に、蓮水は続けて言った。


「もう大丈夫なんだよ。あの家に帰る必要もない。ちゃんと、やり直せるから安心して」



 やっと、記憶がつながり、自分の状況を理解したのだろう。患者は緊張の糸が切れたように涙を流し始めた。そんな彼女の背中を撫でながら蓮水は何度も同じ言葉を繰り返す。



「頑張りましたね。よかった、よかった……」



 患者が少し落ち着きを取り戻したころ、ちょうどタクシーが到着したようだった。蓮水は患者を支え、出口の方に歩き出す。僕はいつものように立ち去る蓮水を見送るつもりだったが……彼女の背中に躊躇いが見られ、足が止まった。蓮水はゆっくりと振り返る。



「先生」



 僕は黙って、彼女の言葉を待った。



「先生はつらかったんだろうな、って今更だけど、分かった気がする。やめたいって言うのも、分かるよ。……だけど、先生は確かに人を救っていたんだよ。それを……忘れないでね」



 そこには一種の切実さのようなものがあったが、僕はどういうリアクションを返すべきか分からず、ただ微笑みを浮かべる。それに対し、彼女はどこか心もとなさそうに目を細め、再び背を僕に背を向けた。そして、聞き取れないほど小さな言葉で呟く。



「私も、その一人だよ」



 診察室の扉が閉ざされる。最後に彼女が残した言葉は、僕の聞き違いではなかっただろうか。だって、僕は彼女の心を一度だって診ていないのだから。診ることを……許されなかったのだから。


 眠る気にはなれなかったので、しばらく片付けを進めていると、朝焼けの光がブラインドの隙間から差し込んできた。僕は久しぶりにビルの屋上に出て、都会の汚い景色を見下ろす。そして、汚い空気を吸い込みながら考えた。



「僕はこの世界に何か残せただろうか」



 きっと、何も残せなかった。この汚い景色のどこにも、僕の痕跡は残ることはないだろう。景色だけじゃない。誰の心にも残りはしないのだ。



 ――私も、その一人だよ。



 空耳だったかもしれない、蓮水の声を思い出す。もし、彼女の心に自分の一部が残っているとしたら……僕はまだ生きていけるのだろうか。



「それだけで満足できるなら、僕はとっくに医者なんてやめていただろうさ」



 自分の貪欲さに笑ってしまう。本当にどうしようもないのだ。


 僕は眼下に広がる汚い景色に向かって、嘲るように鼻を鳴らしてから、屋上を後にするのだった。



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