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追伸は必ず。  作者: 科上悠羽


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9/17

フェーズ1:第9話 テスト前、空気が重い

中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。

どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。

返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。

共通しているのはひとつだけ。

“追伸だけは必ず。”


---


 廊下の掲示に貼られた日程表は、文字の形をしていない。あれは圧だ。目で読んだ瞬間、肩に乗る。


 赤い丸が、きちんと働いている。笑いもせず、見逃しもせず、淡々と「来週」を指差してくる。なのに周りの空気は勝手にざわつき、足音だけが少し速い。


 教室の扉が開くたび、薄い紙の匂いが流れてきた。ノートの紙、プリントの紙、消しゴムの紙箱。ぜんぶ「やること」の匂いだ。

 やることが増えると、匂いまで増える。人って不思議だ。


 掲示板の前を、みんなが一度は通る。通って、ちらっと見て、通り過ぎて、もう一回だけ戻ってくる。

 別に用があるわけじゃないのに。

 けれど、用がないわけでもない。


 掲示板の右下に、小さな箱がある。投函口が、いつも少しだけ開いている。閉めようと思えば閉まるのに、閉まらない。ここは「応援ポスト」の席だからだ。

 箱の横の板には、色のちがう紙が、週替わりで貼られる。HELPの色。THANKSの色。返事の白。

 色があるだけで、迷いが少し減る。


 放課後の気配が近づき、廊下の声が少しずつ大きくなっていく。その中でこの角だけ、静かに人を集める。

 集まるのに、混まない。

 混まないのに、満ちている。

 足が止まるだけで場所が埋まる。けれど誰も、押しのけない。


 今日の板に、紙が一枚増えた。端がそろっている。字も小さく整っている。貼り方が丁寧だと、内容まで丁寧に見えるからずるい。


【HELP】

テスト前って、空気が重い。

やらなきゃ、って思うほど、手が止まる。


 その一枚を見て、板の前の空気が「分かる」に変わった。

 分かる、は音じゃない。だけど、集団で出すと、ちゃんと形になる。


 しばらくして、もう一枚、上に重なるように貼られた。こちらは紙の角が少しだけ斜めで、急いで貼った感じがある。字は丸い。


【HELP】

家に帰ると、机に座る前に負ける。

座るまでが遠い。


 板の前で、誰かが小さく息を吐いた。負けのため息じゃなくて、「やばい、同じ」っていう吐息だ。

 空気が重い、机が遠い。

 どっちも、来週の赤い丸が作っている影みたいに見える。


 返事の紙が貼られたのは、二枚目のHELPが出てから少ししてだった。

 黒いペン。行間が狭い。短い。短いから、読む側が余計なことを考える余地が減る。今はそれがありがたい。


【返事】

空気が重い日は、重いままでいい。

勝ちの単位だけ小さくする。


・「今日の一行」を決める(問題でもメモでも予定でも)

・書けたら今日は合格


 その下に、もう一枚、白い紙が並んだ。筆圧が軽い。軽い字は、読み手の肩も軽くしてくれる。


【返事】

机が遠い日は、机を目標にしない。

「座る前の三手」だけにする。


①カバンを置く

②ペンを一本出す

③紙を一枚開く

ここで止めても勝ち。


 “止めても勝ち”を目でなぞる人が増えた。

 目でなぞるだけで勝てるわけじゃない。

 でも、勝ちの定義が変わると、負けの顔が少しだけ薄くなる。


 貼り紙の端に、追記が小さく足された。たぶん同じ人が、あとから戻ってきた。


【追記】

「一行」は紙じゃなくてもいい。

机に指で書いても、空中でも、心の中でも。


 この追記で、板の前の空気にほんの少し、笑いの粒が混じった。

 誰かが机のない廊下で、空中に指を走らせる真似をして、それを見た誰かが口元だけ上げた。

 笑いって、重さを消さない。けれど、重さの中に穴を開ける。穴が開くと、空気が通る。


 次の返事は、太い字だった。見た瞬間に分かる。「読む」より先に「当たる」字。


【返事】

帰ったら、机に向かう前に水を一杯飲む。

それが合図。

合図がないと、だらだら負ける。


 廊下の自販機の前で、ちょうど誰かが水を買っていた。タイミングが良すぎて笑いそうになる。だが笑いそうになる程度の軽さが、今はちょうどいい。


 その下に、価値観のちがう返事が来た。角がきっちりそろっていて、字が四角い。きれいにそろいすぎて、逆に怖い。


【返事】

「家でやる」を捨ててもいい日がある。

今日は学校で五分。

帰宅後は、負けてもいい時間にする。


 板の前で、誰かが一瞬だけ眉を上げた。捨てる、という言葉は強い。でも、強い言葉が必要な日もある。

 その人はしばらく紙を見て、それから自分のカバンを持ち直して、教室の方へ一歩戻った。たぶん、五分の方へ。


 また別の紙。字が丸く、少し大きい。読みやすさが優しい。


【返事】

「座るまでが遠い」なら、座らなくてもいい。

立ったまま一問だけやる。

終わったら、座ったことにする。


 意味が分からなくて、板の前で小さく笑う人がいた。

 座ってないのに座ったことにする。たしかに変だ。

 でも変な手順は、意外と効く。効くかどうかは、ちゃんとやってみないと分からない。


 返事が増えるにつれて、板の前の滞在時間が少し伸びた。読む人は、全部を選ばない。選べない。

 だから目は、勝手に「今の自分に合いそうな短いところ」へ滑っていく。


 廊下の端で立ち止まる人。階段の踊り場で立ち止まる人。靴紐を結び直すふりをして、実は紙を読んでいる人。

 立ち止まることが「止まる」じゃなくて「準備」になっているのが、少し面白い。


 返事はまだ増えた。増えると、選ぶのが怖くなる。怖くなるから、紙は短くなる。短くなると、今度は選べる。


 丸い字で、こんな返事が貼られた。


【返事】

机が遠い日は、机まで行かない。

「椅子を引く」だけにする。

引けたら、今日はもう座ったことにする。


 板の前で、誰かが椅子を引く動きを空中でやってみせた。引いたあと、座らずに立ち去る真似までして、周りが小さく笑った。

 座らないのに座ったことにする、の次は、引いただけで座ったことにする。どんどん怪しくなる。でも怪しい手順ほど、重い日に効くことがある。


 その下に、筆圧の強い追記がついた。


【追記】

机は遠いけど、椅子はわりと近い。


 さらに、紙の角がぴしっと揃った返事。


【返事】

「机に座る前に負ける」の正体は、たいてい“準備の無限ループ”。

片づけ始めたら負けるから、片づけは三秒。

三秒で終わらなかったら、今日は散らかったまま勝つ。


 三秒。数字があると、手順が急に現実になる。

 板の前の誰かが、指を三本立てて、ひとつずつ折った。折り切ったところで「もう勝ち」と顔で言って、ちょっとだけえらそうに歩いていった。


 別の返事は、柔らかい字だった。余白が多い。


【返事】

夜に勝てない日は、夜は“準備だけ”にする。

机にノートを一冊置くだけ。

それで明日の自分が、座りやすくなる。


 ノートを置くだけ。置くだけなら、できそうだ。

 できそう、はまだ勝ちじゃない。でも勝ちの入口だ。


 返事を読み終えた人たちが、ほんの少しずつ散っていく。散りながら、それぞれの手に、ひとつだけ手順を持ち帰る。

 持ち帰るときの顔が、さっきより軽い。軽いというより、呼吸が長い。たぶん、ちゃんと息をしている。


 その日の夕方、板の前で小さな事件が起きた。事件というほど大げさじゃない。でも、テスト前の学校では、ちょっとしたことが事件になる。


 返事の中の「今日の一行」を、真面目な人ほど真面目に受け取ってしまうのだ。

 廊下の端で、誰かが紙を取り出し、ペンを構えた。顔が、すでに「一行じゃ済まない」顔をしている。


 書き始めた文字は、案の定、長かった。

 “英単語を十個、例文つきで……”

 そこまで書いたところで、その手が止まった。空気が重い。手が止まる。HELPが、また来た。


 その人は一度、紙を伏せた。伏せただけで、負けた気がする。周りの人の足音がやけに大きい。

 けれど、板の方から視線を引き戻される。“勝ちの単位だけ小さくする。”


 紙を裏返して、書き直した。

 “英単語、一個。”

 たったそれだけ。字が小さくなって、笑えるくらい短い。


 書けた。

 書けた瞬間、肩が少しだけ下がった。空気が重いのは変わらない。でも、重い空気の中でも、腕は動いた。


 その人は紙を畳んで、ポストに入れた。なにを入れたのかは、本人しか知らない。けれど投函する音は、軽かった。

 カタン、と。小さな勝ちの音。


 翌日、板にTHANKSが貼られていた。紙の端が少しだけずれている。貼った人が焦っていたのかもしれない。焦るのは、やりたい気持ちがある証拠だ。


【THANKS】

「一行」を、長くしすぎて止まった。

裏返して「一語」にしたら動けた。

空気は重いままだけど、手は一回動いた。


 THANKSを読んだ瞬間、板の前で小さく頷く人が増えた。頷きの速度が、みんな少しだけ似ている。

 似ているのに、同じじゃない。それぞれの「重い」の形が違うからだろう。


 次のTHANKSは、字が丸い。たぶん二枚目のHELPを書いた人だ。そう思うだけで、勝手に仲間が増える。


【THANKS】

帰ったら水を飲んでから、カバンを置いた。

机は遠かったけど、三手だけやった。

止めても勝ち、って思ったら、座るのが少し近づいた。


 そのTHANKSのすぐ横に、もう一枚、小さめのTHANKSが貼られた。字が細い。細い字は、たぶん声も小さい。


【THANKS】

机を片づけ始めて、普通に負けた。

三秒だけにしたら、途中でも止められた。

散らかったまま一問だけやったら、罪悪感より眠気が先に来た。


 “途中でも止められた”のところで、板の前の誰かが小さく笑った。

 止めるのって、意外と難しい。止められたなら、もう勝っている。


 その場で、誰かのポケットから電子音が鳴った。ピピ、と小さな、でも妙に目立つ音。

 驚いて周りを見ると、鳴った本人が肩をすくめて、指で小さく丸を作った。たぶん、三分か、三秒か。数字の手順を試している人の音だ。

 板の前で鳴るタイマーは、ちょっと間抜けで、ちょっと頼もしい。


 さらに、その下に短い報告が重なった。字が丸い。照れが混じる丸さだ。


【THANKS】

椅子だけ引いた。

座らなかったけど、引いた。

引いたら、なぜか座れた(ずるい)。


 (ずるい)に、数人が同時に口元を上げた。ずるい勝ち方は、だいたい続く。ずるいのに、ちゃんと前へ進む。


 もう一枚、THANKSが増えた。今度は太字で、短い。


【THANKS】

立ったまま一問やった。

終わったら、座ったことにした。

本当に座れた。


 その「少し近づいた」を、板の前の誰かが二回読んだ。二回読むのは、信じたいから。

 信じたい気持ちがあるなら、空気が重くても、人はまだ動ける。


 さらにもう一枚、THANKSが来た。字が四角い。短い。報告も四角い。


【THANKS】

学校で五分だけやった。

帰宅後は、負けてもいい時間にした。

負けたけど、罪悪感が減った。


 罪悪感が減った、という一行が、板の前の空気を少しだけ柔らかくした。

 テスト前の罪悪感は、増えると自分を食べる。減ると、次の一手が残る。


 掲示の赤い丸は、相変わらず事務的だ。

 でも、応援ポストの前の空気は、少しだけ軽い。

 軽いというより、「重いものを重いまま持てる」感じ。


 帰り際、板の前に誰もいない瞬間ができた。

 その瞬間、廊下の音が少しだけよく聞こえる。遠くの笑い声、靴箱の扉、階段のきしみ。

 今日が今日として終わっていく音だ。


 最後に、返事の白い紙が一枚、端に貼られた。誰が貼ったかは分からない。たぶん、今日いちばん小さい字。


【返事】

「重い」は悪い日じゃなくて、季節。

季節なら、毎日同じ勝ち方にしなくていい。


 季節。そう呼ぶだけで、赤い丸がちょっとだけ遠くなる。

 板の前で、誰かが笑ってしまった。笑ってしまったのに、悪くない顔をしていた。


 板の前には、紙だけじゃなくて、見えない手順も貼られていく。

 誰かが深く息を吸うと、隣の誰かもつられて吸う。呼吸の連鎖みたいに、勝ち方も伝染する。


 階段の踊り場で、空中に指を走らせている人がいた。見かけた別の人が、同じように指を動かして、ふたりで同じ空中ノートを共有しているみたいになる。

 たぶん、内容は違う。けれど、動きが同じだと「やってる感」だけは共有できる。やってる感は、意外と背中を押す。


 追伸:

 空気が重い日は、軽い勝ちだけで合格にする。

 合格したら、帰り道で一回だけ深呼吸していい。


---


頑張る人ほど、追伸に救われる。

追伸は週1以上、基本は14時更新

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