フェーズ1:第5話 悪者にならない台本
中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。
どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。
返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。
共通しているのはひとつだけ。
“追伸だけは必ず。”
高校の下駄箱エリアは、足音が速い。
朝は遅刻しかけの速さ、放課後は部活の速さ。靴箱の扉がぱたぱた鳴って、紙がひらひら揺れて、息がすれ違う。だから、掲示板の前だけが変になる。
止まる。
読まれる。
たまに、書かれる。
生徒会が「応援コーナー」と札を貼ったその一角は、いつも少しだけ静かだ。
色違いの用紙が並んでいる。HELPとTHANKS。返事用の白い紙も、端にちょこんと置かれている。紙の束が整っていると、「ここは荒れない」と勝手に思えるから、紙って偉い。
その日、その「静か」が、やけに目立っていた。
バレンタイン前日。
誰もが「明日」の話をしないふりをしながら、「明日」の話しかしない日だ。購買部の紙袋が増えて、机の引き出しが膨らんで、廊下の会話が妙に小声になる。
そんな空気の中で、応援コーナーの前に立っていたのは、背の高い男子だった。
制服の襟元がきっちりしている。
それだけで「まじめ」と誤解されるタイプの姿勢。
運動部のバッグを肩から提げているのに、肩幅より、目の下の疲れのほうが目立つ。
彼は、HELPの束に手を伸ばして、引っ込めて、また伸ばした。
書くのは、渡すほうだと思っていた。
受け取るほうが「困る」なんて、言うのが難しいと思っていた。
でも、困っていた。
むしろ、受け取るほうが困ることもある。
もらうたびに「ありがとう」と言う。
もらうたびに「期待」を感じる。
もらうたびに「断る」って言葉が喉の奥で硬くなる。
彼は、紙を一枚抜いた。淡い色のHELP。
鉛筆を取って、呼吸をひとつ置いてから書き始めた。
『HELP
バレンタイン、渡される側です。
もらうのが嫌なわけじゃないです。ありがたいです。
でも、気持ちに応えられないものを受け取るのがしんどいです。
断ると相手が悪いみたいになるのも嫌です。
どう言えば、相手を傷つけずに「受け取れない」を伝えられますか。
(高2 男)』
最後の括弧まで書いたところで、鉛筆が止まった。
「男」と書いたのは、逃げ道のためだ。相手が「女の子」だと決めつけてほしくない。実際、彼が困っているのは、好意だけじゃなくて、ノリと勢いと“空気”だった。
ピンで留める手が、ほんの少し震えた。
震えながらも、刺さった。
そして彼は、靴箱を閉めた。音が小さい。
小さすぎて、逆に「聞こえてしまう」ような音だった。
昼休み。
掲示板の前は、混む。
高校生は、混むときにしか立ち止まれない。そういう生き物だ。
最初に返事を書いたのは、字がきれいな人だった。
返事用の白い紙に、余白を残しながら、丁寧に書いた。
『高2 男へ
「ありがとう」を最初に言うの、正解。
そのあとに「気持ちを大事にしたいから、受け取れない」を置くと、相手のせいになりにくい。
例:
「ありがとう。すごく嬉しい。
でも、軽い気持ちで受け取るのが失礼だと思うから、受け取れない。
気持ちはちゃんと受け取った」
「失礼」をあなた側に置くのがポイント。
(高3)』
文字が落ち着いていて、読むと呼吸が整う。
掲示板って、こういう「一回深呼吸」をくれる。
次の紙は、ちょっと雑だった。
雑というか、速い。鉛筆の勢いがそのまま字になっている。
『高2 男へ
断るのって悪役になる気がするよね。わかる。
でも、悪役を引き受けないと、ずっと全員がしんどい。
だから「悪役のセリフ」を用意しとけ。台本。
「ごめん、受け取れない」
「理由は言わない」
「ありがとうは言う」
これだけ。
理由言うと、相手が“反論できる場所”を探しちゃう。
(高1)』
最後の一文が強い。
強いけど、必要な強さだ。
三枚目は、笑った。
笑っていいやつだと、みんなが理解したやつだ。
『高2 男へ
「断るのが下手」なら、道具を使え。
THANKS用紙にこう書いて貼っとけ。
「明日、配りものを受け取れません。気持ちは受け取ります。ありがとう。」
掲示板を盾にする。
直接の場で「初めて言う」じゃなくなるから、言いやすい。
(生徒会)
追伸:板は今日、機嫌いい。』
最後の追伸で、誰かが吹いた。
板、という単語だけが独り歩きしている。伝言板に人格があるみたいで、変に安心する。
笑いが起きた瞬間、掲示板の前がちょっとだけ軽くなる。
高校の笑いは、短い。
短いから、効く。
放課後。
彼はまた、掲示板の前にいた。
返事を全部読んで、足元を見て、上履きのつま先を揃えて、もう一度返事を読んだ。
「ありがとう」「失礼」「台本」「理由は言わない」「掲示板を盾に」。
どれも、今日の自分の心臓に刺さる言葉だった。
刺さるって、悪い意味じゃない。
刺さったら、止血ができる。
少なくとも、走り回って出血し続けるよりは。
彼はTHANKSの束から一枚取った。
淡い別の色。紙の肌が少し違う気がする。気のせいかもしれない。
鉛筆を握り直して、書いた。
『THANKS
返事くれた人へ。
「失礼」を自分側に置く、すごく助かりました。
台本も、用意します。
たぶん僕は、その場で頭が真っ白になるタイプなので。
生徒会の「掲示板を盾にする」も、ありがたいです。
逃げじゃなくて、準備だと思えました。
明日、ちゃんと「ありがとう」を言います。
(高2 男)』
そして、追伸欄の代わりに、最後に一行足した。
『追伸:板、明日も機嫌よくいてくれ。』
自分で書いて、自分で少し笑った。
笑ったのは、勇気が出たからだ。
そのとき、背後から声がした。
「それ、めっちゃいい頼み方」
振り向くと、同じクラスの女子が、靴箱を閉めるところだった。
彼女は、掲示板の紙を指差さない。見て見ぬふりもしない。ちょうどいい距離で、ちょうどいい声量で言う。
「板に頼むの、反則じゃない?」
「反則でも、勝ちたい日はある」
彼は言ってから、しまったと思った。
“勝ち負け”にしたくないのに、口が勝手に戦ってしまう。
女子は、くすっと笑った。
「わかる。勝ちたい日、ある。
明日、もし誰かに何か渡されたらさ、言っていい?」
「なにを」
「『ありがとう。気持ちは受け取った』って。
それ、受け取る側も、渡す側も、ちょっと救われる言葉だと思った」
彼は、返事が遅れた。
遅れたけど、うなずいた。
「……言っていい」
「じゃ、言う。板の機嫌も借りる」
「借りすぎると、板がすねる」
「板、すねるの?」
「たぶん。機嫌いい日しか見たことないけど」
ふたりは、もう一度笑った。
短い笑い。
でも、短いからこそ、明日まで持ち運べる。
彼は靴箱の扉を閉めた。
朝より大きい音が出た。
大きい音が出ても、悪くなかった。
「聞こえる」って、怖いだけじゃない。
聞こえたぶんだけ、世界にちゃんと立っている。
翌日。
バレンタイン当日。
彼は、台本を胸ポケットに入れて登校した。
紙は折らない。折ると「緊張」を増やす気がした。
代わりに、まっすぐ入れる。まっすぐでいい。
昼休み、廊下で、渡された。
小さな袋。リボン。手が震えている。相手のほうが震えている。
彼は、一秒、固まって。
掲示板の前で練習したように、息を吸った。
「ありがとう。すごく嬉しい」
相手の目が、ほんの少し明るくなる。
そこから、台本の続き。
「でも、軽い気持ちで受け取るのが失礼だと思うから、受け取れない。
気持ちはちゃんと受け取った」
言い終わった瞬間、喉が痛かった。
でも、痛いのは、ちゃんと声が出た証拠だった。
相手は、袋を引っ込めて、唇を噛んで、でも笑った。
泣かない笑い。
泣かないようにしている笑い。
「……ありがとう。
ちゃんと受け取ったって言ってくれて、助かる」
彼は、びっくりした。
断ったのに、相手が「助かる」と言った。
「……ごめん」
「ごめんじゃない。
あのさ、これ、持って帰る。
家族で食べる。
じゃあ、私は勝ち。板の機嫌、借りた」
彼女はそう言って、走っていった。
足音が速い。高校の速さだ。
でも、その速さは、逃げじゃなくて、次の授業に向かう速さだった。
彼は、胸ポケットの紙に触れた。
紙が、そこにある。
それだけで、肩が落ちる。
放課後、掲示板にTHANKSが増えていた。
誰かの字で、こうあった。
『THANKS
「ありがとう。気持ちは受け取った」って言葉、今日使った。
泣かせないで済んだ。
(高2 女)
追伸:板、今日も機嫌よかった。』
彼は、思わず笑ってしまった。
板、働きすぎだ。
彼も、もう一枚THANKSを貼った。
『THANKS
掲示板へ。
今日、誰も悪者にならなかった。
(高2 男)
追伸:板、今夜は休め。』
掲示板の前で、誰かが吹いた。
吹いた笑いが、短く伝染して、靴箱エリアが一瞬だけ春みたいな音になる。
そして翌週には、きっとこの紙も回収される。
掲示物は、いつも回収される。
だから、持ち越さなくていい。
今日の「助かった」は、今日で終わっていい。
また別の日に、別の誰かが、別の紙で助かればいい。
掲示板は、そういう場所だ。
追伸:受け取る側の台本、私も一枚ほしい(板へ)。
頑張る人ほど、追伸に救われる。
追伸は週1以上、基本は14時更新




