フェーズ1:第3話 おませの言い訳と味見係
中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。
どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。
返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。
共通しているのはひとつだけ。
“追伸だけは必ず。”
下駄箱のあたりって、いつも音が多い。
靴箱の扉がばたん、スリッパが擦れて、誰かの「早くー!」が跳ねていく。冬の朝はそこに、外の冷気まで混ざるから、息が白いぶん、笑い声がやけに目立つ。
その掲示板の端っこに、生徒会が借りた小さなスペースがある。
見出しは太字で——
「応援コーナー(生徒会)
HELP:困ってること
THANKS:助かったこと
返事:誰でも書けます
追伸だけは必ず(書けない日は顔文字でもOK)
※個人名・個人情報・悪口は禁止」
紙は色が違う。HELPは薄いピンク、THANKSは薄い水色。返事用は白。
小等部の掲示板には、なぜか丸っこいスタンプで「追伸」って印が押してあって、かわいい。かわいいけど、ルールは硬い。
私は、五年二組の——紬。
背はクラスで真ん中よりちょい下。足も速くないし、声も大きくない。
でも、知ってるふりだけは、上手い。
「ねえ紬、今年さ、どうする?」
朝、同じ班の美咲が言った。「どうする?」の前に、言葉があるのを私は知っている。
(チョコ)
あの、二月の、甘くて空気がざらざらするやつ。
テレビもお店も、やたら赤い包装紙で世界を包むやつ。
小等部でも、去年から「交換」っぽいことをする子が増えた。先生は「食べ物のやり取りは、家で確認してね」って言う。でも、禁止とは言わない。禁止しないから、空気だけが勝手に大きくなる。
「うーん……まだ、決めてない」
私は、軽く笑って言った。
決めてない、は便利だ。どっちにも逃げられる。
「えー、決めないと遅いよ? 材料とかさ」
美咲が当たり前みたいに言う。材料。
材料って言い方が、もう「やるのが普通」になってる。
私は「そっかー」と言いながら、靴箱の前でひもを結び直した。結び直す必要なんてないのに。
目線だけ、応援コーナーに逃がす。
ピンクのHELPが一枚、端っこに貼られている。
文字が、私のクラスの子の字に似ていた。似ているだけ。名前は書けないから、分からない。
『HELP:だれにあげるの?ってきかれるのがこわい
追伸:だれにもあげないっていうと、へんっていわれそう』
私の胸の奥が、勝手に「それ」と言った。
それ、分かる。って。
でも私は、知ってるふりのまま通り過ぎる。五年生は、共感した顔を見せるのが一番恥ずかしい。
*
放課後、家に帰ると、台所がもう甘い匂いだった。
姉がいる。中等部二年。家の中で一番「準備期間が楽しい人」。
「紬、帰った? エプロンそこ!」
姉は私の顔も見ないで言った。ボウルが三つ、泡立て器が二本、なぜか計量スプーンが行方不明。
「何してんの」
「試作。試作大事。失敗は許されない」
失敗って、そこまで重大?
私は笑いそうになって、飲み込んだ。姉は真剣だ。真剣な人を茶化すと、空気が濁る。それも知ってる。
そこへ、弟が滑り込んできた。二年生。
目がきらきらしている。犬みたいに。
「味見する!」
第一声が、それ。
「しない。まだ混ぜてない」
「混ぜたら味見する!」
「味見は一回だけね」
姉がさらっと言う。「一回だけ」の言い方が、すでに百回目みたいに慣れている。
弟は「やった!」と拳を握った。味見が、戦いの勝利みたい。
姉が材料を並べる。板チョコ、バター、砂糖、ココア、トッピングのカラフルな粒。
弟の目が粒に吸い込まれる。
「これ、ぜんぶのせる!」
「のせない。姉ちゃんが作るのは、食べるためじゃなくて、渡すためのものだから」
姉が言った。
弟は一瞬止まって、それから首をかしげた。
「渡すと食べれないの?」
「食べれるけど、渡したら手元にないでしょ」
「じゃあ、味見はだいじ」
「そこに戻るんだ」
私は笑ってしまった。
弟はいつも、最短距離で結論に飛ぶ。
大事なのは味見。みたいな顔で。
でも、渡すためのもの。
その言葉が、私の胸に引っかかった。
渡す。
誰に。
渡さないなら、私は変?
台所の角の冷蔵庫に、姉が貼っている買い物メモがある。
「板チョコ追加」「ラッピング」「型」
準備って、やる人には楽しいのだろう。やらない人には、ただの圧だ。
私はエプロンをつけたまま、玄関の方へ行った。
「どこ行くの」
「ちょっと、掲示板」
姉は「ふーん」と言った。弟は「味見する!」と叫んだ。今はまだだ。
*
小等部の下駄箱の掲示板には、相変わらずHELPが一枚貼ってあった。朝見たやつ。
その隣に、白い返事の紙が増えている。誰かが返したんだ。
私はこっそり、近づいた。
返事は短かった。
『返事:きかれたら「ひみつ」って言っていいよ。
「ひみつ」は、へんじゃない。
追伸:どうしてもこわい日は、話題を「好きなおかし」にずらしてもOK』
ずらしてもOK。
その一言が、やけに優しい。
私は、白い紙の下の小さな印を見た。
名前じゃない。丸っこいスタンプで「保健室」とだけ押してある。
(先生……?)
先生って、ちゃんとこういう返事を書くんだ。
しかも説教じゃない。技をくれる。
私は、胸が少し軽くなったのに、同時に変な悔しさが湧いた。
「ひみつ」って言っていい。
それ、私が思いつきたかった。
でも、思いつかなかった。
だから、こういう場所がある。
私は、ピンクのHELP用紙を一枚取った。生徒会が置いている束から。
ペンを持つ手が、なぜか温かい。
書くのは、HELPじゃなくていい。
THANKSでもいい。
でも今日は、まだ答えが出てないから——HELPにした。
『HELP:友だちに「どうする?」って聞かれると、こまる
追伸:知ってるふりをして、笑うのがくせです』
自分で書いて、自分にツッコミたくなった。
くせです、って。自己紹介かよ。
でも、書いたら、ちょっとだけ笑えた。
笑えたなら、今日はそれでいい。
私はその紙を、掲示板の端のポケットに入れた。
ポケットには「HELP(小等部)」とある。生徒会、仕事が丁寧。
*
台所に戻ると、弟がすでにチョコの匂いに負けていた。
ボウルの縁についたチョコを、指ですくって舐めている。
「味見、まだ一回って言ったよね」
姉が静かに言う。
「これは……予告味見!」
弟が胸を張った。予告味見。そんな言葉、どこで覚えた。
「予告って何」
「ほんばんのまえに、ならしてる」
私は声を殺して笑った。
姉は眉間にしわを寄せたまま、でも口元がちょっとだけ緩んだ。
怒りたいのに、理屈が変で笑いが先に来てしまう。弟はそういうところが強い。
「じゃあ、味見係さん」
姉が観念したように言う。「一回だけね。ほんとに」
「やったー!」
弟はスプーン一杯のチョコをもらって、ものすごく真剣に舐めた。舐め終わって、唇の端にチョコがついているのに気づかない。
「どう?」
姉が聞く。
弟は、もごもごしながら、世界を救う顔で言った。
「……これ、しあわせのあじ」
姉が吹き出した。私も吹き出した。
弟は「なに?」と不満そうに頬をふくらませた。チョコのひげができている。
私はティッシュで弟の口元を拭きながら、思った。
しあわせの味、って言えるの、ずるい。
でも、ずるいのに、救われる。
渡すためのもの。
渡すかどうか。
私が決める。決められないなら、「ひみつ」でもいい。
私は、さっき書いたHELPの追伸を思い出して、少しだけ恥ずかしくなった。
知ってるふり。笑う。
でも、知ってるふりをやめる練習も、こうやってできるのかもしれない。
翌朝、下駄箱の掲示板を見るのが、少しだけ楽しみになった。
誰かの返事が来ても来なくても、私はもう、ひとつ言い方を持っている。
——追伸。
弟はその夜、寝る前に言った。
「ねえ、紬。チョコってさ、あげなくてもいい?」
「……いいんじゃない?」
「じゃあ、おれ、味見だけする」
「それは、それでどうなの」
弟は満足そうに笑って、布団にもぐった。
私は思わず笑ってしまった。
笑えるなら、たぶん大丈夫。少なくとも、今日は。
頑張る人ほど、追伸に救われる。
最低週一更新です。




