フェーズ1:第19話 入学式直前、空のポスト
入学式の前日。おめでとうは、先に置いておく。
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入学式の前の校舎は、まだ「新しい」の匂いをしていない。
ワックスの匂いと、雑巾の水の匂いが混ざっているだけだ。廊下は光る。光るのに、誰も走らない。走らないから、靴の音が少しだけ大きい。少しだけ大きい音が、空の校舎ではやけに目立つ。
掲示板の前で、私は段ボールを一度だけ床に下ろした。腕がじん、として、次に息が入る。段ボールは軽い。軽いのに、運ぶ手順が多い。
「そこ、角。ぶつけると怒られるやつ」
横から声がした。足音より先に、声が来る。
「怒られるって、誰に」
「世界に」
同じ学年の子が、モップの柄を片手で回している。回すな。危ない。と思うのに、回している本人が落ち着いて見えるから、言わない。春手前は、言わないことも多い。
段ボールの側面に、太いマジックで書いてある。
応援ポスト。
字が太いのに、箱の中身は小さい。木の箱が一つ。小さいくせに、やたら目立つ。目立つのに、置き場所が難しい。廊下は流れがある。流れの真ん中に置いたら邪魔。端に寄せすぎたら見えない。見えないと、無かったことになる。
私は段ボールを開けて、木の箱をそっと持ち上げた。手のひらに、少しだけざらっとした感触が残る。新品の木は、まだ人の手に慣れていない。
掲示板の横。角のところ。ここがいつもの場所だ。
ポストがあると、足が止まる。止まるのに、幅が守られる。不思議な場所だ。人が多い日ほど、なぜか半歩ずつ譲り合う。半歩ずつ譲り合うのは、誰かが「ここだけは」って思っているからだと思う。
……って、まだ何も起きてないのに、私は勝手にそんなことを考えている。
「これ、ほんとに置くの?」
モップの子が聞いた。聞き方が軽い。軽いのに、目は真面目だ。
「置くよ。決まってる」
「決まってるのが怖いんじゃない」
それ、分かる。準備が決定になる瞬間の、あの感じ。書いたら戻れない気がする、あの感じ。
私は木の箱を掲示板の横に置いた。置いた瞬間、廊下の光が箱の角に当たって、変に綺麗に見えた。綺麗に見えると、触りたくなる。触りたくなると、誰かが使ってしまいそうで、少しだけ焦る。
まだ空だ。中身も、掲示も、何もない。
空なのに、置いたら「ここにある」になってしまう。
私のポケットの中で、紙が擦れた。折りたたんだ白い紙。昨日から入っている。入っているのに、出せていない。
紙には、たった一行だけ書くつもりだった。
“追伸だけは必ず。”
それだけでいいのに、ペンを持つと余計な言葉が増えた。
「困ったらここ」とか、「ひとりじゃない」とか。正しい言葉ほど、誰かを置いていく気がして、削った。削ると、空白が増える。空白が増えると怖い。怖いけど、空白がある方が人は入りやすい。
「貼る紙、持ってきた?」
モップの子が言った。
私は頷いて、でも紙は出さなかった。出さないのが、いまの負けだ。
「……どこに貼る」
「上。ここ。『触るな』って」
「触るな、は言わない」
言わない、って言いながら、私は箱を一回だけ撫でた。撫でたら落ち着く。落ち着いたら、やっと手順が見える。
貼るのは、箱そのものじゃなくて、掲示板の角だ。
箱は触られる。触られていい。触られないと使われない。だから「触るな」は違う。
違うけど、最初は触られたくない。矛盾する。
私はガムテープの端を探して、爪でカリカリした。見つからない。見つからないと、手が止まる。手が止まると、頭が忙しくなる。忙しくなると、空の校舎でも後ろの足音が聞こえてくる気がする。
「……テープ、どこ」
情けない声が出た。出た瞬間、モップの子が笑った。笑われたのに、嫌じゃない。笑いは、今の空気を軽くする。
「ここ。ほら」
差し出されたテープの端は、ちゃんと端が折ってあった。折ってあるだけで、世界は優しい。
「ありがとう」
「追伸?」
「まだ」
まだ、と言ったら、胸の奥が少しだけ急いだ。追伸は後回しにできない。できないから、いま焦っている。
テープで紙を貼ろうとして、私は最初にやらかした。
紙を貼る位置が高すぎた。掲示板の一番上。目線より上。背伸びが必要な高さ。背伸びすると手が震える。震えると、紙が斜めになる。斜めになった紙は、変に目立つ。
短い負け。しかも自分ひとりで。
「……それ、届く人少ない」
モップの子が、ちゃんと現実を言う。
「届かせたいなら、目線に置け」
その言い方が、ちょっとだけ格好良かった。腹が立たない。立たないのは、正しいからだ。
私は紙を剥がした。テープがビリ、と鳴って、静かな廊下に響いた。響いた音が、変に恥ずかしい。恥ずかしいけど、剥がす。剥がしたら修正できる。修正できるなら、負けは短いまま終わる。
紙は、掲示板の角の、ちょうど目線の高さに貼り直した。角が揃うように、指で端を押さえる。角が揃うと、息が整列する。整列した息のまま、私はやっとポケットから紙を出した。
白い紙。折り目。たった一行。
“追伸だけは必ず。”
それだけを貼るか、迷った。
迷うと、また余計な言葉が増える。増える前に、決める。決め方は、いつも手順だ。
私は紙を二つに折った。折ったら、外から読めなくなる。読めなくなると、掲示じゃなくなる。掲示じゃないなら、掲示なし、が守れる。守れるのに、置ける。
「何それ」
モップの子が覗き込む。
「中に入れる」
「空の箱に?」
「空だから入れる」
言ってみたら、自分でちょっと笑った。空だから入れる。変な理屈。変な理屈は、時々正しい。
箱の蓋を開ける。中はまだ木の匂いだけ。紙の匂いが一枚入ったら、少し変わる。
折った紙を、そっと底に置いた。底に置くと、すぐには見えない。見えないけど、ある。あるなら、今日の自分は前に進める。
蓋を閉めたあとも、私は箱から手を離せなかった。
手を離したら、全部が「置いたこと」になってしまう気がしたからだ。置いたことは、決定だ。決定は、ちょっと重い。
「……紙、入れとく?」
モップの子が言った。軽い声なのに、案は実務的だ。
箱の横に、小さい紙束とペンを置く。そういう設計は、たぶん優しい。探さなくていい。迷わなくていい。
でも、優しさは時々、怖い。置いたものが無くなったらどうする、とか。置いた瞬間に「使え」と言っているみたいで嫌だ、とか。
私は段ボールの底を探って、白いコピー用紙を数枚引っ張り出した。角が揃うと気持ちが整う。整うけど、整いすぎると緊張する。春手前は面倒だ。
ペンは……無い。
入れたはずのペンが、段ボールのどこにも見当たらない。手が止まる。止まった手が、だんだん冷たくなる。
「……ペン、どこ」
「置いたって言ったの、あなた」
「言っただけで置いてない」
「じゃあ置くな」
ツッコミが雑で助かる。雑だと、焦りの居場所ができる。
私は掃除用具入れの扉を開けて、棒とちりとりと、謎のバケツの隙間を探った。そこで見つかったのは、赤い油性ペンだった。赤。赤は目立つ。目立つのは、今いらない。
「赤しかない」
「赤でもいいじゃん」
「追伸が血の色になる」
「言い方」
笑ってから、二人とも「だめだな」と同時に言って、さらに笑った。笑える分だけ勝ちにする、ってこういうことだと思う。
結局、黒ペンはモップの子のポケットから出てきた。最初からそこにいたみたいに。世界は意地悪なのに、時々こういうのがある。
紙束と黒ペンを、箱の横じゃなく“箱の中”に入れた。外に出すと、使わない人にも圧になる。中に入れると、「必要な人だけが開ける」手順になる。
それでも、いきなり全部見えるのは怖いから、紙束は封筒に入れた。封筒の表に、小さく星だけ書く。印は仮置き。戻れる勇気。
封筒を入れて、蓋を閉める。閉める音が、さっきより少し落ち着いた気がした。
箱が、少しだけ「待合室」になった。
蓋を閉めた瞬間、遠くから足音が来た。
コン、コン、コン。上履きの軽い音。誰かが校舎に入ってくる音。春休みの校舎で、その音はやけに目立つ。
私たちは、反射で半歩ずれた。掲示板の前の幅を作る動き。習慣みたいに体が覚えている。半歩ずれると、堂々と立っていられる。
曲がり角から現れたのは、新しい制服の人だった。まだ折り目がきちんとしていて、肩が少しだけ硬い。肩が硬いのは、緊張している証拠だ。
相手は掲示板を見て、木の箱を見て、目線を一度だけ落とした。落とした目線が、箱の前で止まる。
止まったのに、手は伸びない。
伸びない手は、だいたい優しい。優しい人ほど、怖い。触ったら間違える気がするから。間違えるのが怖いから、触れない。
その人は、箱の前で一回だけ咳払いをした。咳払いは便利だ。空気を切り替えてくれる。切り替えた空気の中で、相手がぽつりと言った。
「……これ、使っていいんですか」
声が小さい。小さい声は、拾う側の手順がいる。
モップの子が、私より先に動いた。モップはもう持っていない。両手が空いている。空いている手は、相手に優しい。
でも、近づきすぎない。半歩の距離で止まる。押さない優しさ。
「うん。使っていい」
それだけ。説明しない。説明すると重くなる。重くなると、余計に手が止まる。
「……まだ、何も入ってない?」
「まだ」
私が言った。まだ、と言いながら、胸の奥が少しだけ騒がしい。まだ、が長いと怖い。でも、まだ、があるから準備できる。
新しい制服の人は、少しだけ笑った。笑うと肩が柔らかくなる。柔らかくなった肩が、箱に近づいた。
近づいたのに、やっぱり手は伸びない。
「……書くの、緊張しますね」
その言葉に、私は思わず頷いた。書くのが怖い。決定になるのがしんどい。そういう気持ちは、誰のものでもある。
だから、今日の答えは短くする。短い答えは、押さない。
「緊張していいです」
言った瞬間、モップの子が横で小さく吹いた。
「それ、返事として雑」
「雑でいい日もある」
「雑すぎ」
「段階、あるから」
言い返したら、二人とも少し笑った。笑うと、場が軽くなる。軽くなった場は、新しい人の足を一歩動かす。
新しい制服の人が、箱の蓋に指をかけた。かけたのに、止まった。止まったら、こちらも待つ。急かさない。急かすと、書けない。
その人は、蓋を開けて、中を覗いた。空。空なのに、覗いた目が少し柔らかい。柔らかい目は、たぶん「ここに置いていい」って思った目だ。
そのまま、蓋を閉めた。閉めた音が、カタン、と小さい。小さい音が、今日の勝ちみたいに聞こえた。
勝ちは大勝ちじゃなくていい。前よりマシ、で十分だ。
「……また来ます」
新しい制服の人が言った。
また来ます、は、今日いちばん強い言葉だ。来る場所がある人の言葉。
「うん。待ってる」
モップの子が言った。待ってる、の声が妙に自然で、少しだけ腹が立った。自分はまだ、追伸一行を箱に隠しただけなのに。
新しい制服の人が去って、廊下にまた静けさが戻った。戻った静けさの中で、私は箱を一回だけ軽く叩いた。トントン。机の端を叩くみたいに。合図。始める合図と、終わる合図が同じ音なのは、たぶん便利だ。
「……中に入れた紙、なに書いた」
モップの子が聞く。
「秘密」
「秘密って言うと、気になる」
「じゃ、追伸」
「追伸って言うと、もっと気になる」
口だけのやり取りで笑って、二人で掲示板の前を整えた。テープの端を折る。紙の角を揃える。箱の位置を、ほんの数センチだけ寄せる。数センチで、幅が守られる。
廊下の光が、箱の角をもう一回だけ白くした。
白い角は、ちょっとだけ未来みたいだ。未来は眩しい。眩しいから、目線を落として、手順だけ見る。
入学式は、もうすぐだ。
その前に、この箱が「ここにある」を覚えてくれたらいい。
覚えてくれたら、誰かが半歩ずれる。
半歩ずれたら、今日の私たちは勝ちだ。
追伸:空のままでも、置いておく。そこから始まる。
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明日は明日で大丈夫。今日は深呼吸で勝ち。




