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追伸は必ず。  作者: 科上悠羽


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フェーズ1:第2話 板の機嫌

中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。

どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。

返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。

共通しているのはひとつだけ。

“追伸だけは必ず。”

中学の下駄箱エリアは、朝と放課後だけ、少しだけ駅になる。


行き先の札はみんな同じ「教室」なのに、靴箱の前に立つ顔はばらばらで、置いていく息もばらばらで。だからその一角に、生徒会が勝手に置いた小さな掲示板は、いちばん駅っぽい場所になった。


『応援コーナー』

白地の見出し。下に、色の違う用紙の束。HELPとTHANKS。どっちも、角がほんの少し丸い。印刷のしかたが丁寧だと、それだけで「怒られない場所」みたいに見えるから不思議だ。


用紙の前に立つのは、たいてい二種類。


書きたい人と、書けないまま立ち尽くす人。


後者のほうが多い。毎朝、用紙の束は減らないのに、足は止まる。指先だけが動いて、戻っていく。たぶん、書く前に心が一回しゃがむ。そこから立ち上がるのは、わりと筋力がいる。


その日、しゃがんだままになった子がいた。


背中が小さい。制服の袖から覗く手が、靴ひもみたいに細い。上履きのかかとを踏んでいて、でもわざとじゃない感じ。靴箱の扉を開ける音が小さすぎて、逆に耳に残る。


彼女は、掲示板の前でしばらく立っていた。


HELPの束の上に、指を置いて、ひょいと持ち上げて、戻した。THANKSも同じようにやって、戻した。まるで用紙が熱いか冷たいか確かめるみたいに。


それから、たぶん決めた。右端にある小さい鉛筆を取って、手の甲で一回こすって、紙を一枚引いた。


HELP。淡い色。生徒会の印刷はいつもこの色で、目が痛くならない。


彼女は、息を吸うところから書いた。


『バレンタインのことがこわいです。

 みんな「作る」とか「渡す」とか言うけど、

 わたしは、どうしたらいいかわからないです。

 下手で笑われるのがこわいです。

 友だちに「いらない」って言われるのもこわいです。

 でも、なにもしないのも、あとでさみしくなりそうで、

 ずっと、お腹が変な感じです。』


最後の行で止まって、鉛筆を離した。紙に指先の形が残るくらい、力が入っていた。


署名欄には何も書かない。代わりに、右下に小さく「中1」とだけ書いた。それが、この掲示板のルールみたいになっている。名前を置かないことで、話だけが残る。話だけが生き残る。


彼女は紙をピンで留めようとして、うまく刺さらなくて、二回失敗した。三回目で刺さったとき、彼女の肩が、ほんのちょっと上がった。


そのまま、教室へ行った。


掲示板は、そこに残った。


昼休みの終わり頃、誰かが足を止めた。


上履きの音が大きい。走ってきたんだろう。ピンを一本抜いて、紙を引き寄せて、読む速度が速い。読み終わると、ふっと、鼻で笑った。悪い笑いじゃない。紙の緊張をほどくような笑い。


その子はTHANKSの束に手を伸ばしかけて、やめて、HELPを取った。


返事を書くときは、HELPに書く。ここでは、それが暗黙の了解になっている。


『中1へ。

 みんなが「作る」って言うの、正直うるさいよね。

 でもさ、「作らなきゃ」じゃなくて、「作ってみたい」なら、ちょっとだけやればいい。

 下手で笑われたら?

 笑ったやつのほうが下手だから気にすんな(経験談)。

 渡すのがこわいなら「渡す練習」していい?

 自分に渡す。机の引き出しに入れる。放課後に自分で食べる。

 それでもバレンタインは成立する。

 友だちには、手紙でもいい。

 チョコじゃなくても、THANKSでもいい。

 あと、お腹変な感じ、めっちゃわかる。胃がバレンタインに反抗してる。

 胃と仲直りしようぜ。』


最後に、右下に小さく「中2」と書いて、ピンで留めた。ピンの刺し方がうまい。慣れている手つきだ。


走ってきた足音は、帰りは歩きになっていた。


その日の放課後、掲示板の前は少し混んだ。


バレンタインという言葉が、校舎の空気に混ざりはじめている。換気扇の音と同じくらい自然に、「どうする?」が飛ぶ。


掲示板を見に来る子も増える。見に来るだけで、書く子は少ない。でも、今日は違った。HELPの紙が、いつの間にか三枚増えていた。


『中1へ。

 わたしも中1のとき、何もできなかったよ。

 「何もできなかった自分」を、あとで責めるのがいちばんきつかった。

 だから、できることを小さくするのがおすすめ。

 チョコひとつを「作る」じゃなくて、

 チョコひとつを「並べる」でもいい。

 市販のチョコを買って、可愛い紙に包むだけでも、すごい。

 包むのが難しいなら、袋に入れてリボン結ぶだけでもいい。

 「自分が自分を責めない」ほうが勝ち。

 中3より。』


『中1へ。

 わたしは「渡す」が無理だったから、

 THANKSの紙に「いつもありがとう」だけ書いて貼った。

 そしたら、相手が返事くれた。

 チョコなくても、心は渡る。

 たぶん、バレンタインってそういう日。

 中2(女子)』


『中1へ。

 胃が反抗してるのわかる。

 わたしは前日から胃が「やめろ」って言う。

 だから当日は「胃に優しい」を優先する。

 あったかいお茶、持っていけ。

 胃が落ち着くと、心も落ち着く(たぶん)。

 中2(胃仲間)』


“胃仲間”の字を見た瞬間、読み手の誰かが吹いた。

吹いたのが伝染して、もうひとりが笑った。

笑いは、掲示板の前を一瞬だけ軽くする。


笑っていい場所に、なった。


翌朝。


中1の彼女は、また掲示板の前で立っていた。


昨日の紙が、増えている。自分のHELPの下に、返事がぶら下がっている。ピンの位置が少しずれていて、紙の端がひらひらしている。紙が生き物みたいだ。


彼女は、返事をひとつずつ読んだ。


「胃と仲直りしようぜ」で、口角が一ミリだけ上がった。自分でも気づかないくらい小さな、でも確かな変化。


読み終えると、彼女は用紙の束を見た。

THANKSを、取った。


今度は手が震えていなかった。かわりに、肩がちょっとだけ上がっている。昨日と同じ“上がり方”だ。


鉛筆を持って、書き始めた。


『返事くれた人へ。

 読んでくれてありがとうございました。

 「自分に渡す」って、天才だと思いました。

 それなら、失敗しても、わたししか見ない。

 「笑ったやつのほうが下手」も、勇気が出ました。

 胃仲間も、いました。

 胃が反抗してるの、わたしだけじゃないって知って、

 ちょっと笑えました。

 今日、帰りにチョコを見てみます。

 買うだけでもいいって書いてあって、助かりました。

 わたし、たぶん、包むのは苦手です。

 でも、袋ならいけるかもしれないです。

 ありがとうございました。』


最後に、右下へ。


「中1」


それだけ書いて、ピンで留めた。

昨日は三回かかったのに、今日は一回で刺さった。


その瞬間、背後から声がした。


「……あ、貼れた?」


生徒会の腕章をつけた先輩が、紙束を抱えて立っていた。補充係だろう。用紙の束が減っているかを確認する、いつもの仕事の顔。


彼女はびくっとして、でも逃げなかった。


「はい……」


「えら。ピン、刺すの最初むずいんだよね。昨日、刺さらなかったでしょ」


見られてた。と思って、顔が熱くなる。逃げ道を探す視線が、靴箱の扉の取っ手で止まる。


生徒会の先輩は、にやっと笑った。からかう笑いじゃない。昨日の駅の空気を知ってる笑い。


「大丈夫。掲示板、刺さらない日は刺さらない。板が機嫌悪い」


「板……?」


「うん。板。生徒会の中でそう言ってる。今日は機嫌いいっぽい」


それ、笑っていいやつだ、と彼女の胃が判断したらしい。

彼女は、ふっと笑った。声は出ない。でも笑った。


「……板、機嫌、いい」


「いいね。じゃ、今日の板は勝ち。ほら、用紙補充しとくね。胃仲間が増えるかもしれないし」


「増えたら……困ります」


「困るけど、笑える」


先輩はさらっと言って、束を整えた。HELPの束の角がぴしっと揃う。掲示板が、また少し駅らしくなる。


彼女は、そのまま教室へ向かった。


足音が、昨日より軽かった。

上履きのかかとも、踏んでいなかった。


その日の放課後、掲示板には新しい紙が一枚増えていた。


HELPでもTHANKSでもない。生徒会が用意した用紙じゃない。小さなメモ用紙。誰かが勝手に貼ったんだろう。


『板へ。

 今日も機嫌よくいてくれてありがとう。』


署名はない。


その下に、小さく。


『追伸:胃に勝った。』


誰かが読んで吹いて、隣の子が「板ってなに」って聞いて、説明する声が少し大きくなって、笑いがもう一回起きた。


駅に、また電車が来たみたいに。

頑張る人ほど、追伸に救われる。

最低週一更新です。

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