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追伸は必ず。  作者: 科上悠羽


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フェーズ1:第16話 新しい名前、呼べない

中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。

どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。

返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。

共通しているのはひとつだけ。

“追伸だけは必ず。”


---


 新しい名前は、口の中で一回転してから出てくる。


 春の手前の廊下は、掲示物が増える。次の学年のこと、提出物のこと、部活のこと。貼り紙が増えるほど、人の歩幅は細かくなる。立ち止まる場所が増えるからだ。

 それと一緒に、「名前」が増える。新しいクラスの名簿、委員の当番表、部活の役割表。紙に印刷された名前は、きちんと読めるのに、口に出すと別物になる。


 掲示板の前は今日も少し混んでいて、流れがゆるやかに曲がっている。その曲がり角に、応援ポストがある。板の前だけ、みんなの足がちょっと丁寧になる。

 丁寧になる理由は、たぶん「呼び方」だ。春手前は、呼び方が勝手に変わろうとする。変わろうとするのに、口が追いつかない。


 HELPは二枚。どちらも白い紙で、角が揃っている。揃っているのに、字が小さくて急いでいる。


【HELP】

新しい呼び方を教えてもらったのに、呼べない。

照れるとかじゃなくて、口が固まる。

どうしたら自然になる?


【HELP】

名字じゃなくて名前で呼んでって言われた。

「うん」って言ったのに、次から言えない。

言えないまま時間が過ぎて、変な感じ。


 紙の前で、誰かが喉を鳴らした。飴を舐める時みたいな音。新しい名前は、甘いのに引っかかる。


 最初の返事は太い字だった。勢いがあるのに、押しつけない。


【返事】

呼べないなら、いきなり“本番”にしない。


①まず紙に書く(メモで渡す)

②次に小声で一回だけ言う(相手の耳元じゃなく自分のノートに向けて)

③最後に普通の声で言う

追伸:声の大きさは、階段で上げていい。


 声の大きさを階段で上げる。言い方が可笑しくて、板の前の空気が少しだけほどけた。段階があると、怖さは小さくなる。


 次の返事は筆圧が軽い。行間が広い。呼吸も広くなる。


【返事】

“自然に”は、だいたい練習の結果。


口が固まる人は、目が合うと固まりやすい。

だから最初は、目じゃなくて「肩」か「靴」を見て呼ぶ。

追伸:視線をずらすのは逃げじゃなく手順。


 肩を見る。靴を見る。そんなことで?と思うのに、そんなことほど効くのが学校だ。廊下は目が多い。目が多いと、口が固まる。


 価値観が違う返事も来た。字が四角く、箇条書きがきっちりしている。


【返事】

呼び方は“中間”を作っていい。


名字→名字+さん→名前+さん→名前(呼び捨て)

階段を一段ずつ。

追伸:いきなり最上段に立たなくていい。


 最上段。階段が続いていると思うと、少しだけ楽だ。いまは二段目でいい。二段目でも、景色は変わる。


 もう一枚、丸い字の返事。少し斜めで、急いで貼った感じがある。


【返事】

言えないまま時間が過ぎるのがいちばん苦しい。

だから“言えない宣言”を先にする。


『ごめん、練習中。次は言う』

これを一回だけ言う。

追伸:宣言は、変じゃなくて親切。


 練習中。宣言。恥ずかしさに名前をつけると、恥ずかしさが少しだけ座る。


 さらに細い字の返事が重なった。短い。現場向きだ。


【返事】

呼べない日は、呼びたい気持ちを“合図”で先に渡す。


・相手のノートに小さく名前を書く

・スタンプみたいに丸をつける

・次に声で言う

追伸:先に渡しておくと、本番が軽い。


 最後にもう一枚、返事が増えた。字が太く、短い言葉が並ぶ。


【返事】

名前の前に“助走”を置く。


『ねえ』→(一拍)→名前

『ちょっと』→(一拍)→名前

追伸:助走があると、声が出やすい。


 もう一枚、返事が増えた。字は細いけど、結論が早い。現場で使えるやつ。


【返事】

“呼び返し”を使う。

相手があなたを呼んだ直後に、同じ呼び方で返す。

(返事の勢いに乗る)


例:

相手『おーい、〇〇』→あなた『〇〇、なに?』


これを一回でも通すと、口が「この並び」を覚える。

自分から呼ぶのが難しい日は、先に相手に一回呼んでもらっていい。

追伸:一回目は復唱で十分。復唱は練習に見えない。


 板の前で、誰かが小さく「ねえ」を口の中で転がしていた。転がせたら、半分勝ちだ。


 その日の現場は、まさに“本番”が多い日だった。


 放課後、教室の前でクラスの人たちが固まっている。席替えの話をしているのか、新学期の話をしているのか、どっちとも言えない話をしている。どっちとも言えない話の中に、呼び方の話が混ざる。

 机の上には、配られたばかりの小さいラベルシールが散らばっていた。次の学年に持ち上がる教材のためのやつだ。自分の名前を書く。名前は書ける。書けるのに、呼べない。


 「来年さ、呼び方変えない?」

 軽い声で言われると、軽く返事をしてしまう。

 「うん、いいよ」

 言った瞬間は、ほんとうに“いいよ”だ。

 でも次の瞬間、口の中で新しい名前がぐるぐる回り始める。回り始めると、出てこない。出てこないから、笑いでごまかしそうになる。


 その夜、家の机の端でラベルシールを見つけて、妙にドキッとした。

 白い四角に、黒い名前。自分の名前。相手の名前じゃないのに、名前の四角は心臓を叩く。

 机の端に、返事の手順を置く。紙に書く。小声。普通の声。

 普通の声がいちばん難しいから、まず小声からにする。


 スマホのメモに、相手の新しい呼び方だけを打ってみた。

 打てた。消した。打てた。消した。

 画面は、何回も同じ文字を出しては消す。点滅するカーソルが「言え」と言う。

 そのうち、タイピングの音が恥ずかしくなって、机の端をトントン叩いた。助走の代わりに。


 翌日。

 廊下で向こうから相手が来る。手を振られる。振り返す。ここが本番だ。

 ここで呼べたら、たぶん全部が少し楽になる。


 なのに、喉が固まった。口が動かない。新しい名前が、口の中で一回転して、二回転して、まだ出てこない。

 短い負けだ。しかも相手は待っている顔をしていない。普通の顔をしている。普通だから余計に怖い。普通な時間にだけ、うまく混ざりたい。


 そこで、返事の「肩を見る」を思い出した。

 目を見ない。肩。肩の縫い目。制服の線。そこに視線を置いて、息を吐く。

 深呼吸じゃない。「ふー」だけ。


 助走も置く。

 「ねえ」

 言えた。ねえ、は言える。ねえ、の次が怖い。


 「……えっと」

 えっと、は逃げ道になりやすい。えっと、を長引かせたら終わる。


 だから、言えない宣言を使う。

 「ごめん、練習中。次は言う」

 言った瞬間、相手の顔が一回だけ柔らかくなった。

 「なにそれ」

 笑われた。笑われたのに、嫌じゃない。笑いが先に出ると、空気が軽い。

 そのまま昼休みになった。購買の列は相変わらずゆるく蛇行して、パンの袋がガサガサ鳴る。列の途中で、相手がふいにこちらを見て、わざと大きめの声を出した。

 「おーい、〇〇」

 呼ばれた瞬間、体が先に反応した。声はまだ遅れてくるのに、首はもう向いている。返事の“呼び返し”が、ここで効く。

 「〇〇……なに」

 言えた。言えたのに、最後が疑問文みたいに弱い。弱いのが悔しくて、もう一回言い直したくなる。

 相手が笑って、パンの袋を振った。

 「ほら、言えてる」

 「今のは、呼ばれたから」

 「じゃ、もう一回呼ぶ」

 「やめて」

 やめて、の声だけは元気だ。元気な拒否は、なぜか出る。二人で笑って、列が一歩進んだ。


 列の前の方で誰かが名前を呼び間違えて、別の人が手を上げた。「こっち」。間違いを修正する動作が、今日の廊下のあちこちで起きている。名前も、点数も、予定も、春手前はよく転ぶ。転んだら立てばいいだけだと、体が教えてくる。


 教室に戻って、相手がノートを広げた。昨日、合図で名前を書いた場所が、ちょうど視界に入る。

 「ここ、書いてくれたやつ」

 指でトン、と叩かれて、喉が一回だけ詰まった。でも詰まったままでも、合図は先に渡っている。詰まったら、助走を置けばいい。

 「ねえ、〇〇……」

 声が小さくて、相手がわざと耳を寄せるふりをした。

 「聞こえなーい」

 そのわざとらしさに、こっちが吹き出した。吹き出した勢いで、もう一回言える。

 「〇〇」

 笑いは、声の背中を押す。押すけど、押しつけじゃない。ちょうどいい。


 でも、宣言したら次は言わないといけない。言わないと、宣言が“逃げ”になる。宣言は親切だから、親切のまま回収したい。


 次のチャンスは、階段の手前だった。人が減速する場所。減速すると声が届く。

 相手が横に並ぶ。並んだ瞬間、心臓が一回だけ早くなる。

 ここだ、と思う。思った瞬間に怖くなる。


 だから段階を使う。

 中間を作る。名前+さん。いきなり最上段に立たない。

 口の中で一回だけ練習する。声は出さない。舌だけ動かす。


 「……〇〇さん」

 声が出た。出たのに、音が小さすぎて自分でも聞き返したい。

 相手が首を傾げる。

 「ん?」

 ここで沈むと、今日が終わる。沈む前に修正する。短い負けを短いまま回収する。


 「……ちがう、ごめん。もう一回」

 言ってから、ノートじゃなく自分の指先を見る。視線を落とす。息を吐く。

 そして合図を使う。相手のノートの端を、指でトンと叩く。そこに小さく、名前を書いたことを思い出させるみたいに。

 「〇〇」

 今度は、ちゃんと聞こえる声で言えた。


 相手が一瞬だけ止まって、それから笑った。

 「今、言えたじゃん」

 「……言えた」

 「じゃ、もう一回」

 相手がそう言って、わざと軽く促す。押してないのに、手を引っ張ってくれる感じ。


 「〇〇」

 二回目は、少しだけ自然だった。自然は練習の結果。ほんとだった。

 言えた勢いで、調子に乗ってもう一回言おうとして、喉がまた固まりかけた。春手前の喉は気まぐれだ。

 そこで相手が、先に助走をくれた。

「ねえ」

 呼び返されると、こっちの声も出る。

 「ねえ、〇〇」

 自分でも可笑しくて、二人で笑った。階段の手前で笑うの、だいぶ平和だ。


 帰り道、応援ポストの前を通る時、板にTHANKSが増えていた。紙の端が少しだけ丸まっている。貼る手が急いでいたのかもしれない。急いだのに貼りに来た。そこが勝ちだ。


【THANKS】

呼べないってHELPを書いたら、段階があるって返事が来た。

名字→名前+さん→名前、って階段が見えたら楽になった。

最初は「練習中」って言ったら笑われて、空気が軽かった。

笑われたから、次の一回が言えた。

言えたあと、帰り道の足が軽かった。


【THANKS】

目を見ると固まる、が当たってた。

肩を見たら、ほんとに口が動いた。

助走で「ねえ」だけ先に言ったら、続きが出た。

小声で一回言ってから本番にしたら、二回目が自然だった。

自然って、練習だった。


【THANKS】

一回、声が小さすぎて「ん?」って言われて死にかけた。

でも「もう一回」って言えたら戻れた。

相手が「じゃもう一回」って言ってくれて、押されないのに背中が動いた。

合図ノートをトンを挟んだら、声が出やすかった。

笑って終われたのが、いちばん助かった。


【THANKS】

「言えない宣言」をしたら、変な空気にならなかった。

宣言が親切って言葉が好き。

宣言したから、回収したくなって本番ができた。

逃げじゃなく整列、って感じがした。


 板の前でそれを読んだ誰かが、指で小さく階段を作るみたいに、机の端をトントンと叩いた。段階、段階、と。

 別の誰かは、助走の「ねえ」を小声で練習して、隣に聞こえてしまい、二人で同時に咳払いをした。咳払いは便利だ。空気を切り替えてくれる。


 新しい名前は、最初は重い。重いのに、軽く言いたい。矛盾するから口が固まる。

 でも段階があるなら、重さは少しずつ薄くできる。薄くなったら、やっと“普通”に混ざれる。


 最後に、白い返事が一枚だけ増えていた。字は小さいのに、最後の一行だけ太い。


【返事】

呼べた日は、呼び方が変わったんじゃなくて、あなたの距離が一段近づいた日。

だから照れていい。固まってもいい。

追伸:固まったら、階段の手前で言えばいい。


 階段の手前。減速する場所。

 また新しい季節が来ても、呼び方の練習場所は、ちゃんと残っている。


 帰りの廊下で、誰かが小さく言った。

 「……明日も、呼ぶ」

 隣の人が、笑って返す。

 「うん。階段の手前で」


 今日の終わりは、少しだけ可笑しい。

 可笑しい終わりは、明日へ続く。


---


頑張る人ほど、追伸に救われる。

追伸は週1以上、基本は14時更新

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