フェーズ1:第1話 豆まき前夜
中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。
どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。
返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。
共通しているのはひとつだけ。
“追伸だけは必ず。”
教室の隅、掃除用具入れのとなりに、段ボール箱が置かれていた。
油性ペンででかでかと「応援ポスト」。生徒会の字は、なぜかいつも元気がいい。
横の紙には二つだけ。
HELP:いま困ってること。
THANKS:助かったこと。
※返事は誰でも書いていい。追伸だけは必ず書く。
「追伸って、なんだよ……」
私は小声でつぶやいて、プリントの山に目を落としたふりをした。
節分まで、あと四日。
うちの中学は、なぜか節分に妙に気合いが入る。体育館で学年ごとに豆まき。各クラスから「鬼」役が出る。保健室の先生は毎年、「豆、喉に詰まらせないでね」と本気の顔で注意する。
そういう行事は、楽しいはずなのに。
「入れる?」
斜め前の七海が、私の視線の先を見てニヤッとした。
「入れない。私、困ってないし」
言い終わった瞬間、胸の奥がちくっとした。困ってない、じゃない。困ってるって言うのが、嫌なだけ。
持久走の記録が落ちた。
部活で、走り込みの最後に私だけ置いていかれた。
「最近元気なくない?」と、優しい言い方で刺された。
家では弟の前だけ平気なふりをして、夜になるとスマホで他人の“頑張ってる”を見て勝手に息が苦しくなる。
豆みたいにころころして、拾いきれない。
昼休み、プリントを配り終えた担任が言った。
「節分当日、体調悪い人は早めに言えよー。あと、今年も“追伸ルール”は守ってくれ。投げっぱなしはだめだぞ」
言い方がやけに慣れている。担任の佐久間先生は、去年別の学年で受け持ってたらしい。
追伸ルール、学校公認なんだ……。
私は机の中からメモ帳を一枚ちぎった。
HELPのほうに近づく。心臓が、ばかみたいに騒ぐ。
書いたのは、ほんの一行。
『豆まきの日、休みたい』
それだけ書いて、箱の隙間に滑り込ませた。
入れた瞬間、世界が少しだけ静かになった気がした。
追伸だけは必ず。
迷って、最後に小さく付け足す。
『追伸:休みたいのは、私が弱いからですか』
自分の字が震えていて、私は笑った。
笑えたのが、ちょっと悔しかった。
*
放課後。
部活のミーティングは、言葉が全部、石みたいに重かった。
「次のタイム測定、全員更新ね」
先輩は悪くない。期待されているのは嬉しい。なのに、嬉しさが怖い。
帰り道、風が冷たくて、制服の袖口が痛い。
コンビニの前で七海に追いつかれた。
「ねえ、あのポストさ」
「……何」
「追伸ルール、好き。なんかさ、最後に本音が出るじゃん」
七海は笑うと、目尻がやわらかくなる。私はその顔を見て、勝手に息が楽になるのが悔しい。
「七海は、入れたの?」
「入れた入れた。昨日、HELP」
「え、何」
「それは秘密。返事きたら見せる」
小走りで先に行ってしまう背中が、軽い。ああいう軽さが、いまの私には遠い。
家に着くと、弟が玄関で豆を振っていた。
「ねえ姉ちゃん! 今年の鬼はだれ?」
「知らないよ……」
「俺、鬼やりたい!」
「小学生は体育館入れないし」
「じゃあ家で鬼やる!」
弟は勝手に盛り上がっている。私はその勢いに押されて、少しだけ笑った。笑えるなら、まだ大丈夫。そう思いたい。
夜、布団に入ると、スマホが光った。部活のグループ。先輩がランメニューを送ってきている。
既読をつけるだけで、胸がきゅっとなる。
休みたい。
でも休んだら、次が怖い。
その“次”がどんどん増えて、今の自分を押しつぶす。
私はベッドの上で、ポストに入れた紙のことを思い出した。
返事は誰でも書ける。
だから、怖い。
だから、少しだけ期待してしまう。
*
次の日の朝。
教室に入ると、応援ポストの横に小さな箱が増えていた。「返事用」と書いてある。生徒会、仕事が早い。
ポストの横には、返事の紙がクリップで留められていることがあるらしい。七海が言っていた。
私の机に座っても、心はポストの前に置きっぱなしだ。
休み時間、誰もいないのを見計らって、ポストの横をちらりと見た。
クリップが一つ。
心臓が跳ねた。
でも、その紙の端に書いてある名前が違う。
『七海へ』
七海のだ。私じゃない。私は勝手に、ほっとして、勝手に、がっかりした。
昼休み。七海は返事の紙を持って戻ってきた。
「見て見て」
紙には丸い字でこう書いてある。
『HELP:授業中、眠すぎる。どうしたらいい』
『返事:寝ろ(でもたぶん無理だから、目薬)』
『追伸:先生にばれない範囲でね』
「誰これ、雑!」
七海が笑い転げる。私もつられて笑ってしまった。
笑うと、胸の奥の石が少しだけ転がる。
「返事って、こういうのもありなんだ……」
「ありでしょ。追伸が優しいじゃん」
七海は紙を大事そうにたたんで、筆箱の裏に入れた。
その仕草が妙に真剣で、私はふと、七海も七海なりに“助かった”んだと気づく。
放課後。
私はまたポストを見た。クリップが二つに増えている。
一つは誰かの。もう一つは……。
『豆まきの日、休みたい へ』
私のだ。
手が震えて、紙がうまくつかめない。
周りには誰もいない。なのに、見られている気がして、顔が熱くなる。
私は紙を机の陰に隠すようにして、そっと開いた。
『返事:休みたい日は、休んでいい』
あまりにまっすぐで、思わず笑ってしまった。そんなの、知ってる。知ってるのにできないから困ってるんだ。
でも、その次の行で、笑いが止まった。
『ただ、「休む」を“逃げ”にしない方法があるよ。
休む理由をひとつだけ、言葉にしておく。
それができたら、休んだ日は“準備の日”になる』
文字は丁寧で、余白がきれい。
返事を書いた人の指先が見える気がした。
そして最後に。
『追伸:弱いから休みたい、じゃなくて、弱いまま頑張ってるから休みたくなる。
君はもう、頑張ってる側だよ』
私は紙を見たまま固まった。
誰が書いたのか、分からない。
同級生かもしれない。先輩かもしれない。極稀に先生も書く、と聞いた。字がきれいすぎて、先生っぽい気もする。
でも、名前がないからこそ、逃げ道がない。
これは“私”に向けた言葉だ。
頑張ってる側。
その言葉が、胸の奥でふわっとほどけた。
涙が出そうになって、私は慌てて鼻をすすった。泣くと暗くなる。今日の私は、暗くなりたくない。
私はメモ帳を開いた。
“休む理由をひとつだけ、言葉にする”。
書けるだろうか。
書けるとしたら、何だ。
『追伸:休みたい理由は、みんなの前で元気なふりをするのが下手だからです』
書いて、私は「うわ、下手って何」と自分に突っ込んだ。
下手って、技能かよ。
笑ってしまった。小さく、でも確かに。
その夜、私は母に言った。
「節分の日、体育館の前にちょっとだけ休める場所ない? 途中で気持ち悪くなったら、保健室行く」
母は驚いた顔をして、それから「言えたね」と言った。
私は「別に」と言いながら、心のどこかで小さく拍手した。
言えた。たったこれだけ。たったこれだけが、今日の前進。
*
節分当日。二月三日。
体育館は豆の匂いと、歓声の予告でむわっとしていた。
各クラスの鬼が整列している。段ボールの角を切って作った角は、なぜか毎年完成度が高い。
「おい、鬼、こっち向けー!」
男子がはしゃぐ。
私は笑っているふりをしながら、胸の内側に手を当てた。心臓はまだ騒がしい。でも昨日よりは、騒ぎ方が“知ってるやつ”になっている。
豆が配られた。
掌にころころと転がる小さな丸が、やけに頼りない。
「豆って、武器として弱すぎない?」
七海が真顔で言う。
「……確かに」
「せめて、もうちょい質量が」
「危険になるよ」
私は思わず笑った。七海も笑う。笑えると、空気が薄くならない。
開始の合図。
「鬼は外ー!」
「福は内ー!」
豆が飛ぶ。鬼がわざと大げさに倒れる。先生が「痛い痛い」と棒読みで言う。体育館が一気に明るくなる。
その瞬間だけ、私は自分の“頑張らなきゃ”を忘れられた。
……でも、途中で胸がきゅっとなった。
走り込みの最後の苦しさに似ている。
私は息を吸って、吐いて、七海にだけ小声で言った。
「ちょっと、保健室、行ってくる」
「うん。行ってら」
七海は軽く手を振った。
“重くしない”って、優しさだ。私はその優しさに救われる。
廊下は静かで、冷たい。
保健室の前で、私は立ち止まった。
ドアノブに手をかけて、思った。
休む理由をひとつだけ、言葉にする。
私はもう、それを書いた。
だからこれは逃げじゃなく、準備の日。
中に入ると、保健室の先生が顔を上げた。
「あら、豆アレルギー?」
「違います」
「じゃあ、鬼アレルギー?」
「それは……あるかもしれません」
先生が笑った。私も笑ってしまった。
笑えるなら、たぶん大丈夫。
ベッドに座って、私はスマホを見ないことにした。代わりに、ポケットから小さな紙を出す。
応援ポストの返事の紙。もう何度も読み返して、角が少し丸くなっている。
戻る前に、私はもう一枚、メモ帳をちぎった。
THANKSに入れる紙だ。
『THANKS:豆まきの日、休みたかった人へ返事をくれた人へ。助かりました。
今日は途中で一回、休みます。
追伸:豆は武器として弱いけど、言葉はけっこう効く』
最後の一行を書いた瞬間、自分で自分に笑ってしまった。
誰かに読まれたら恥ずかしい。けど、追伸ルールがあるから、仕方ない。
仕方ないことにして、私は書けた。
教室に戻ると、七海が豆を一粒、指先でつまんで差し出してきた。
「おかえり。福、残しておいた」
「それ、ほこりついてない?」
「福はほこりに強い」
「何それ」
二人で笑った。体育館のざわめきの中で、笑いがちゃんと自分の声になった。
豆は武器として弱い。
でも、弱いものだって、続けば形になる。
私は掌の豆を見て、そっと息を吐いた。
今日の私の“頑張り方”は、たぶんこれでいい。
——追伸。
帰りに、応援ポストを通りがかったら、段ボールの横に新しい紙が貼られていた。
「追伸だけは必ず書く。
※追伸が書けないときは、顔文字でも可」
誰だ、そんな改定をしたのは。
私は声を殺して笑った。
追伸ルールは、今日もちゃんと、私を軽くしてくれる。
頑張る人ほど、追伸に救われる。
最低でも週一更新です。




