川口の惑星 〜 Genesis 〜
私の名前は鈴木恵。
とっても名前の平凡な27歳のOLだ。
特技はキーボードのブラインドタッチ。
それくらいしか胸を張って言えることがない。
会社では経理部に所属していて、毎日パソコンと数字とメールに囲まれている。
誰が見ても普通、どこから見ても普通。朝は電車に揺られ、昼はコンビニのサラダチキン、夜はYouTubeを見ながら晩酌。
この生活を「退屈」と呼ぶ人もいるかもしれないけれど、私はそこそこ気に入っていた。波風が立たないことが、いちばんの幸せだと思っていたから。
――その日までは。
朝、出社してパソコンを立ち上げた瞬間、見慣れたデスクトップに一つだけ、知らないアイコンが増えていた。
「memo.txt」
ただのメモ帳ファイル。作成者の名前は「SUZUKI MEGUMI」。私だ。
ファイルの日付は“明日の”午前8時になっている。
「……誰のいたずら?」
クリックして開くと、一行だけ文字が書かれていた。
> 小鳥遊さんを助けてあげて! 今日の終業ベルのあと
指先が、一瞬で冷たくなった。
「おはよー、鈴木さん!」
ぽんと肩を叩かれるのと同時に、後ろから心を明るくしてくれるような声がして、振り向くと、その小鳥遊さんの笑顔があった。
いつもながら美人さんだ。さすがは社内のアイドル。私の憧れでもある。
「どうしたの?」
顔にへんなものでもついているかのように、不思議そうに私を見る。動揺が顔に出ていただろうか。「なんでもない」と笑顔で取り繕って、私は開いていたメッセージを隠した。
「昨日はお疲れ様でした。楽しかったね!」
昨夜は同僚四人で居酒屋に集まって女子会をした。その時のことをかわいい顔で話す彼女に、私は見惚れた。
こんなかわいいひとの名前が『小鳥遊和』だなんて──
羨ましいな──
物騒なタカがいないから、小鳥が遊べる……それゆえの『小鳥遊』、そんなかわいい光景を強調するような下の名前の『和』──
私もそんな名前がよかった。
……でも、たとえ私がもらったとしても、私には似合わない。名前負けしてしまう。
このひとについているからこそ魅力的なのだ、この名前は。
いつものように終業ベルが鳴った。
「みんな」
すぐに山田部長が立ち上がり、言った。
「今日は残業はなしだ」
「えー? いいんですか?」
「今日、ノー残業デーじゃないですよね?」
「やり残した仕事があるんですけど?」
「いいんだ。その代わり、これから全員少し残ってくれ。みんなでミーティングルームへ行こう」
「えー? 何するんですか?」
「残業じゃないのー、それ?」
「大事な話がある」
そう口にした部長の表情が、どこか苦しそうだった。
ミーティングルームに入ると、三人の屈強そうな男たちに守られるようにして、知らない女性が先に来ていて座っていた。どこか胡散臭い感じのする、教祖様みたいな白い絹の着物に派手な勾玉のネックレスをつけた、五十歳くらいのひとだ。
「全員集まりましてございます」
最後の一人がドアを閉め、部長が深々と頭を下げると、胡散臭い女性が偉そうに立ち上がった。こっちをキッ! と向くと、頭につけている熊手みたいな金の冠に『川口』と書いてあった。
「私の名は『川口河口湖』──。全人類の支配者川口太郎さまのしもべでございます」
みんながざわざわした。
「……は?」
「全人類の支配者て……」
「何の茶番?」
私も何かの冗談だと思って、笑おうとしたけど、その時になって思い出した。今朝のおかしなメッセージのことを……。
胡散臭いおばさんは厳かに、言った。
「明日より『全人類川口化計画』が実行に移されます。
明日の朝になったら地球の全人類の名前は『川口』に統一されます」
ははははは、と部長を除くみんなで笑った。
「全人類が川口て……」
「それは大変」
「アメリカ人とかも名前が川口になるんですかぁ?」
「もちろんよ」
おばさんは胸を張って告げた。
「世界で一番夜が明けるのが早い国──キリバス共和国では既に全国民が川口姓になっています。スマートフォンで確認してみなさい」
みんなで確認し、一斉に顔色を変えた。
あっちこっちのネットニュースで『キリバスの全国民が川口姓になった』ことと、『川口による地球征服』が報じられていた。
「こんなバカな」
「川口による横暴だ!」
「川口にあらずんば人にあらず!」
威厳を見せつけながら、おばさんが大声で叫ぶ。
「川口姓を受け入れない者は以後人間として見なされない! ならば、あなた方はどうしますか!?」
みんながおばさんの語気に押され、小声で言う。
「な……、なります」
「川口になります」
「川口でいいです」
私もみんなと一緒だった。
鈴木恵でも川口恵でも、どっちでもいい。
ただ平和に暮らしていけさえするのなら──
「嫌です!」
姿勢よく手を挙げ、そう言ったのは、小鳥遊さんだった。
おばさんが彼女を睨みつけ、聞く。
「ほう……。川口を拒否する理由を述べなさい」
「私は私の名前が好きですし、愛着もあります」
小鳥遊さんはみんなの目を覚まさせようというように、オーバーな動作で訴えた。
「みんなもそうだよね? ずっと使ってきた、自分の名前に愛着、あるよね?」
みんながモゴモゴ言った。
「べ、べつに……」
「ないことはないけど……」
「べつに川口でも……」
「今は多様性の時代です!」
小鳥遊さんはおばさんのほうを振り返ると、さらに主張した。
「色んな名前があったほうが楽しいし、何より区別がつきます! 全人類が川口になるなんて、まるでそんなの、人間をみんなニワトリにして管理するようなことだわ!」
「みなさん」
おばさんの顔色が、険しくなった。
「その女性は人間ではありません。川口にあらずんば人にあらず! 豚です! みんなでその豚を殺しなさい!」
何を言ってるんだ? という顔をみんなで見合わせた。
「殺しなさい! 拒否する者は川口ではないと判断し、そいつも豚と見なして処分します!」
おばさんを守るように取り囲んでいた男たちが、ムキムキの筋肉を動かして、どこからか武器を取り出した。マシンガンだった。それを私たちに突きつける。
小鳥遊さんに惚れているという噂のある、一人の男性社員が、真っ先に動いた。小鳥遊さんの首を後ろから掴むと、強く締めつける。
小鳥遊さんが悲鳴をあげて苦しむけど、誰も助けるひとはいなかった。
次々と、さっきまで仲のよかった同僚たちが、小鳥遊さんに暴力をふるう。
お腹を蹴りつけ、顔を殴り、ついでのように胸を触る──
「安心しなさい」
おばさんが、小鳥遊さんに言った。
「殺した後は美味しく食べてあげるわ。そこのみんなでね」
小鳥遊さんの悲鳴が、長くミーティングルームに響き渡った。
私は手を出さなかった。
でも、何もできなかった……。
アパートの部屋に帰った時には疲れ果てていた。
小鳥遊さんを見殺しにしてしまったことが、心を激しく疲弊させていた。
でも、私に何ができただろう──?
このまま流されるしかないじゃない。
全人類が川口になるのなら、私も大人しく、それに従って──
「メグ」
キッチンの暗がりから女性の声がしたので、飛び上がりかけた。
見ると、知らないひとがそこにいて、非難するような目で私を見ている。黒い戦闘服みたいなものに身を包んだ、ショートカットの、私と同年代くらいの女性だった。
「小鳥遊さんを見殺しにしたのね? あなた、川口になるつもり?」
「だ……、誰……?」
「そっか……。あなたはまだ私を知らないのよね」
女性は浮かべていた殺気のようなものを仕舞うと、名乗った。
「私は菊池。菊池リオンよ。未来のあなたの仲間」
「み……、未来……?」
「今朝のメッセージを見たでしょう? あれは未来のあなたが送ったものだったのよ? あなたともあろうものが、あれを理解できないとは思わなかった……」
わけがわからなかったけど、胸の奥で痛むものがあった。
そう、私は、彼女だけは川口にしないでほしいと心から願っていた。
小鳥遊和なんて、彼女に似合ってる名前を、取り上げないでほしかった。
「でも……私は、ただの、何の取り柄もないOLだし……」
「何を言ってるの!?」
菊池リオンが眉を吊り上げた。
「あなたは戦士なのよ? 未来のあなたは特技のブラインドタッチを武器に川口と戦ってるの!」
「ブラインドタッチでどうやって……!?」
「とにかく……未来のあなたが来て小鳥遊さんを助けられたらよかったんだけど、タイムパラドックスが起きるからそれは出来なかった。私は今の時間軸でもやつらに指名手配されてるから手を出せない。今のあなただけが頼りだったのに……」
私はリオンに聞いた。
「また時間を戻すことはできる?」
「できるわ。それが私の能力だもの。ただし限界はある。永遠にやり直すことはできないわ」
「あの文面じゃわからない! わかるわけがない! もっと長文で伝えないと──!」
「チャンスは2秒よ」
リオンの顔に緊張が走る。
「2秒であなたは、昨日の自分にメッセージを書かなければならない。できる?」
やるしかない──
私は何が何でも、小鳥遊さんを救いたい。
2秒で長文が書けるよう、特技のブラインドタッチに磨きをかけるしかない!
次の朝、目覚めると、私は川口になっていた。
私だけではない、世界のすべてのひとの苗字が、川口になっていた。
これを変えられるのは、きっと私とリオンだけだ。
小鳥遊さんを救い、世界を川口の魔の手から救うのだ。
私たちの闘いは、始まったばかりだ!
よし! これでおちゃけが飲める!(๑•̀ㅂ•́)و✧




