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ひー君は神さまになった

作者: 雪原ミラ
掲載日:2025/10/19



私とひー君が12歳になった頃、ひー君は神さまになった。





私が暮らす村には、とある風習がある。



村で真っ白い髪の子が生まれた場合、その子が12歳になった日から「生き神さま」として崇め奉る。



いつからそんな風習ができたのかは分からないけれど、村中の人がそれを信じていた。



私とひー君を除いて。



―――――――――



真夏の昼下がり、ジリジリ鳴く蝉の声を聴きながら、私とひー君は障子を開け放った部屋で溶けるように畳に寝そべっていた。




「あち〜。なぁ、陽菜乃(ひなの)。今からひとっ走りしてラムネ買ってきてくれん?」


「えぇ…。やだよ。ひー君が自分で買ってきたらいいじゃん。」


「は?バカお前、俺がラムネなんか買いに行ったら村中大騒ぎになるだろ。」



そう言ってひー君が汗でしっとりした絹糸のような髪を掻き上げながら私を睨んだ。



「でもさ~少しくらいなら大丈夫じゃない?ほら、村のお爺やお婆達って、ひー君には甘いし。」



「大丈夫じゃねぇよ。あいつら口調は甘くても、あとからクドクドうるせぇんだからな!?」




「じゃあ、神さまなんだから魔法?みたいなチカラでラムネ出したらいいじゃん。」



「そんなこと出来たら最初からお前に頼まねぇし。」



「へぇー。」



「なんだよ、そのどうでもよさそうな返事は。」



「……だって。暑くて頭あんま働かなくなってきた…。」



「あ?お前もしかして熱中症じゃねぇだろうな?」





そう言うと、ひー君が私に近づいてそっと私の額に自分の額を合わせた。




思春期の男女にこの距離はつらい。そう思って私は恥ずかしくなって身体を引いたけど、ひー君は力強く私の腰を引き戻した。


 


「こら。動くなよ。熱あるか分からないだろ。」





鼻先がぶつかりそうな距離でひー君が不満そうな表情で睨んでくる。




ひー君の顔が少しずつ近いてきて、彼のひんやりとした額と私の額が触れ合う。



小さな息遣いが聞こえるほど密着しているから、ひー君から男子特有の香りを感じて自然と身体がビクついてしまった。




ドクドクドク、と。



さっきから心臓が早鐘のようにうるさすぎて、今までジリジリ鳴いていた蝉の声も聴こえない。




ひー君が触れている腰から、熱いような冷たいような甘く痺れる感覚に襲われる。



ひー君に文句を伝えようと口を開くけど、頭には意味不明な言葉が浮かんでは消えていく。




どれくらい時間が経ったのか分からなくなるくらい、とても長い間、ひー君と触れ合っているように感じる。



頭が正常に働かない。





「ね、ねぇってば!もういいでしょ!?」




ようやく言葉が頭に浮かび、悲鳴に近い声を上げ、早くこの状況から逃げたくて身を捩る。




「ん…。熱はないな。」




ひー君はそう言うとなんの戸惑いもなく私から離れた。




私の気持ちなど構いもしないで。



私はそれが無性に腹立たしく思えて、今度は私がひー君を睨みつける。




「もう!ちょっとは空気読みなよ!いくら幼馴染みだからって距離感くらい考えてよね!」




「わるいわるい」とひー君は笑いながら肩をすくめた。



「……でも素の状態で話せるのってお前しかいないからさ。」



「……。」






ひー君はずるい。



ひー君がからかい、私が怒ると、いつも決まって淋しげに「私にしか素を出せないから」と言ってくる。






ひー君の淋しげな笑顔を見ながら、12歳で『生き神』にされてしまった彼の昔のことを思い出す。







12歳で『生き神』にされたひー君。




6年前、ひー君の12歳の誕生日を境に、彼の日常は一変してしまった。




それまで普通の男の子として生きてきたのに、突然に自由を奪われてしまった可哀想な幼馴染み。





サッカーが大好きで、友達と夜遅くまで遊び、親に叱られるのが日常だったのに。




今では誰もがひー君を『神さま』と呼び、遠巻きに眺めるだけ。




友達も、先生も、村の人たちも――両親さえ、よそよそしく接する。





ひー君は、辛くないのだろうか?



そう、ふと疑問に思って、ひー君に尋ねる。



「……ねぇ、ひー君はこの村から出たいとか思わないの?」




「ん~。昔は思った事あるけど。今はないな。」




「なんで?古臭い風習のせいで勝手に神さまにされたのに?嫌じゃないの!?」




思わず声を荒らげる私に、ひー君は困った様子で頭を掻いた。


「そりゃ本当は嫌だけどさ、そうしねぇと村のみんなが困るって言うから仕方ないだろ?それに、長老達と約束してるんだ。神さまになったら俺の1番叶えたい願いを叶えてくれるってさ。」




「約束?約束って?」




「それは来年、俺達が高校を卒業したら分かる…かもな?」




ニカッと嬉しそうな顔でひー君は笑う。



けど、どこか不安げにも私には見えた。





―――――――――




その日から私はひー君の言った願い事について考える事が多くなった。





(ひー君の1番叶えたい願いってなんだろう。昔は神さまにはならないってよく言っていたから、神さまを辞めて村を出る事かな?)




学校の休み時間、空欄の進路希望書を前に、ひー君の願いを考えては、シャープペンシルで進路希望の紙にぐるぐる円を描いていた。





(高校を卒業して、ひー君が村を出たら、私はどうなるんだろう…?

)




その時、私はひー君の傍にいられるのだろうか。





(それにしても、幼馴染みの私にも話さないなんて、ひー君らしくない。)




私達は小さい頃からいつも一緒にいて、村中の人から立場を(わきま)えなさいと言われても絶対に態度を変えることはなかったし、なんでも話してきたと思っていたのに。



私は持っていたシャープペンシルを強く握りしめる。



(私に相談しても無駄って思ってるのか?)



私はつい「アンニャロウ」と呟きながら、持っていたシャープペンシルで何度も机を叩く。




「陽菜乃?なに1人でぶつくさ言ってんの?」



「ん?えっ、ひー君!」




突然のひー君の登場にシャープペンシルを落としそうになる。





「なんで学校にいるの?」





「なんでって…俺が自分の学校にいたらおかしいか?」



「駄目じゃないけど、ひー君って神さまの務めで、学校来てなかったよね?」




「あー。進路希望だけは形だけでも出してくれって言われたから出しに来た。ついでにお前の様子も見に来た。」




ひー君はニヤッと笑い、進路希望の紙をヒラヒラと泳がせながら言う。


 


「授業受けなくても単位免除されてるのに、進路希望は出さなくちゃいけないの?」




「んま、大人の都合ってやつじゃないっすかぁ?てか人をズルしてるような言い方すんなよ。ちゃんと家で勉強もしてるし、テストも受けに来てるんだぞ?」




困った顔をするひー君を見て、いつものお返しとばかりにからかう。



「え〜でもズルいと思う。特別扱いは正直羨まし…。」




(しまった!)




ひー君を追い詰めるような質問をしてしまったと気づいた時には、もう遅い。





さっきまで教室を満たしていた笑い声やざわめきが、一瞬で消え去っていた。





異変に気づいた私が周囲を見渡すと、私達を遠巻きに見る同級生たちの冷たいの目。突き刺すような目。無表情な目。



普段の同級生たちとは違う、親しみを全く感じられない視線に背筋が凍る。




みんなの視線を感じて、自分の軽率な言葉を後悔し、急いでひー君に謝った。





「あ、あのひー君、ごめ「特別扱いねぇ……。」




私の言葉を遮ってひー君は呟き、溜め息をついて辺りを睨みつけるように見渡す。



「おい、陽菜乃。」





ひー君の声に、恐怖で身体が強張った瞬間、額にピシッと痛みが走った。





「痛っ!」



「お前が俺を、俺がお前を特別扱いする。それでいいだろ?」





おどけたように、ニヤッとひー君は笑ったけど、目が少し真剣だった。




私は額を押さえながら、ひー君の軽い笑顔に胸を撫で下ろす。





ひー君の軽い笑顔の瞬間、さっきまで冷たい目で見ていた同級生たちが、なにもなかったかのように動き出す。



私はひー君の影響力にゾッとした。




ひー君はもう一度私ににっこりと笑いかけると、用事は終わったとばかりに「じゃあまた後でな〜」と手をひらひらとさせて教室から出て行く。




残された私は、足下の感触さえも分からなくなりながら、残りの学校の時間が早く終わることをただただ祈るしかなかった。






―――――――――






春。桜の花びらが舞い、畔道や遠くの山々の色が青緑に戻り始めた頃、私達の村では祭りが開かれる。




神寄(かみよせ)祭り。




その名の通り、神さまを呼び寄せる祭りだ。




毎年行われるこの祭りは、昔からこの土地を守っているとされる山の神を祭司の身体に呼び寄せて貢ぎ物を送り、日頃の感謝を込め、五穀豊穣と地元産業のさらなる発展を神に祈る。



村は近隣よりずっと裕福で、祭りのご利益を求めて観光客が押し寄せ、中にはテレビで観たことあるような著名な人物まで来る事もある。



その為、村の人たちは目を輝かせてその準備に奔走するが、私はそれがどうしても信じられない。



村の人達曰く、ひー君の『神さま』のおかげらしいけど、私はそれが素直に喜べない。




ひー君がその中心にいると思うと、とても複雑な気持ちだ。




それなのに、ひー君が『神さま』になってから6年、私はこの古臭い祭りの手伝いを押し付けられている。





理由は簡単、大好きな幼馴染みのひー君に「一緒にやってくれ」って頼まれたから、断れなくて手伝ってるだけ。




ひー君も12歳で『神さま』になってからは、祭りの祭神として振る舞うようになった。




昔、祭りの手伝いが嫌だとひー君に愚痴ったけど、「お前がいないと心細い」って寂しそうに笑われて、それ以来文句は言えなくなった。









祭りの準備でバタバタする中、ひー君がいつもの調子で声をかけてきた。





「陽菜乃。悪いけど、そろそろ舞の時間だから化粧してくれね?俺やっぱりこれ自分でするの苦手だわ。」




「はいはい、ちょっと待ってて。この祭具運んだら手伝うから。」




私は箱を抱えて祭具殿を後にした。





―――――――――




「あれ、陽菜乃ちゃんかい?」




祭具殿から神楽殿へ向かう途中、村長さんたちに声を掛けられた。




「村長さんに長老会のお爺様、お婆様!お久しぶりです。」



祭具殿から神楽殿に向かう途中で呼び止められた私は、内心「めんどくさいな」と思いながら、

村のお偉いさん方に笑顔で会釈する。




「祭具を運んでんのかい?忙しいのに呼び止めて悪いねぇ。」


村長さんがニコニコ笑いながら、頭を掻く。



「まぁ、神社の方も忙しそうですし。私も暇だったので。」



嘘だ。本当は他の子達と同じように、ひー君と屋台をまわって射的やリンゴ飴を食べてみたかった。






そう思っていても、本当はひー君と屋台を回りたいなんて言えず、ぎこちなく笑顔を作る。






「偉いねぇ。陽菜乃ちゃんは今18歳だったね、そろそろ嫁ぐんかい?」



「嫁ぐ…ってなんです?」





村長さんの言葉の意味が分からずポカンとしていると、横の長老のお婆さんがケラケラ笑った。





「おや、陽菜乃ちゃん。ひー君とええ仲なんやろ?『生き神様』のお気に入りやきね?」




「い…いやいやいや!私達はそんなんじゃないです!ただの幼馴染みです!」



「あんれ?…それじゃ約束が違うこつなっとうねぇ。」



さっきまでにこやかだった婆様が、顔を顰める。




「約束は守らにゃあ。これは大切な村のしきたりじゃき。」



婆様の声が低くなって、胸がざわついた。



粘っこい視線が体中に絡みつき、蛇に睨まれた蛙のようにその視線から目を離せなくなる。



「あの…わ、私。」



声が震えて言葉が詰まる。




婆様がさらに問い詰めるように口を開いた時、ひー君の苛立った声がして、張り詰めた空気が一気に和らいだ。



「村長さん達なにしてんの?」




「ひー君!」



「…坊かい。ちょうど良かった。約束の話、どうなっとる?」



婆様が目を細めた。




「…今その話しなくちゃいかんか?今日は大事な祭りの日だろ。」




ひー君がイラッとした声で返すのを、ドキドキしながら聞いていた。





「そうは言っても、坊が約束を違えようとしとるん思ってなぁ。」





「約束破ろうとなんかしてねぇよ。…それにあん時俺は伝えたはずだが?」




ひー君はバツが悪そうに頭を掻きながら話すと、その様子に村長が「あっ」と目を光らせ、ひー君とお婆様の間に割って入った。




「馬っ鹿!婆さん、野暮なこつ聞いちゃいかんばい!ほれ…。」




村長が婆様になにやら耳打ちすると、さっきの不穏な空気は消え、婆様はまた笑顔に戻る。



「あぁ、そういう…いかんねぇ。歳取るとなんでも急かしちまう。陽菜乃ちゃんも悪かったねぇ。」


婆様がケラケラ笑いながら言うけど、何か裏がありそうでモヤッとした。




「い、いえ。」


 


急に空気が変わって、わけも分からず言葉に詰まってると、私の肩をひー君が支えてくれた。



「じゃあ、俺達まだ祭りの準備が終わってねぇから。」




「ああ、坊。すまんかったねぇ。祭り、楽しみにしとるでね。」




そう言ってその場を後にする村長さん達を見えなくなるまで見送ると、私はホッと息を吐いた。




「き、緊張した〜。」




「陽菜乃、大丈夫か?」




「私は大丈夫。それよりひー君ありがと!よくここにいるのが分かったね。」




「陽菜乃が遅ぇから、村の奴らに絡まれてんじゃねぇかと思って駆けつけたら、案の定だろ?んで、なに話してたんだ?」



「それが、よく分かんないんだよね。ひー君の約束がどうとか言ってたんだけど。」




怪訝な顔で言うと、ひー君が一瞬目を逸らした。




「ふーん。で、約束の内容は聞いたのか?」




「聞いてないけど……。ひー君は教えてくれるの?」




婆様たちの約束の話が気になって、ちょっとドキドキしながら聞いた。




「……いや、まだナイショ。言ったらもう後には引けねぇから。」



ひー君がニヤッと笑って目を逸らす。


婆様の『嫁ぐ』とか『約束』の話って、ひー君と私の…なんて、勝手に想像してドキドキしたけど、ひー君はまだ言わないつもりらしい。


それがなんだかモヤモヤする。





「それより化粧、ほら。」




私は神楽殿の準備部屋で、ひー君から漆塗りの化粧箱を受け取ると中からいくつかの化粧品を取り出す。




「ひー君、目閉じて。」



「ん。」



目を閉じてこちらに顔を差し出すひー君。



陶器のような白い肌にそっと触れた。



血が通っていないと錯覚してしまいそうなほど透き通った肌に私が、私だけが今からひー君に化粧を施せるという事に仄かな喜びを覚える。




「ひー君、今から化粧するからそのまま動かないでね。」



「ん、分かった。」



ひー君は、まるで幼い子が母親に全てを委ねるように頷いた。



私は白粉の入れ物を開けて、青白い肌に白を塗る。


次に筆を手に取ると眉墨を筆先に染み込ませ髪と同じ白銀の眉毛に灰色を乗せ、目尻には朱色で縁取り、目を強調させる。



目元の細かい調整が終わったら、最後に唇に紅をさす。



正直、これが1番緊張する。



「ひー君、口紅塗るから顎貸して。」



ひー君が言われるままに私の手に顎を乗せる。



その姿が喉を掻いてもらいたい大きな犬に見えて可愛らしい。



私は左手を顎に添えたまま、紅を塗る細筆を手に取った。



震える指先でゆっくりとひー君の薄い唇に紅をさす。



息を止めて、唇の端から端まで丁寧に。ゆっくり、ゆっくりと。



時折聞こえる吐息を感じながら、できるだけ無心であるように努めた。



「でき…た。」



そう私が言うと、パッと目を開けたひー君と目が合う。



無表情のままのひー君が、私をじっと見つめてくる。



ひー君の普段の儚げな雰囲気は、化粧によって年齢を超えた色気と迫力に変わり、私の目はひー君に釘付けになった。




「ひー君?」



私の呼び掛けに反応がなく、ひー君の顔がさらに近づく。



だんだんと顔が近づくにつれ、白粉の匂いが鼻腔をくすぐり、ひー君の熱のこもった吐息が、優しく顔を撫でる。



その一息ひとつひとつが、少しずつ私の中に小さな火を灯して全身に燃え広がっていく。



今のままでいたい自分と先に進みたい気持ちがせめぎ合い、勝手に涙腺が緩む。




(ねぇ、ひー君は私の事、どう思ってるの?)



自分に蓋をしていた気持ちが、熱に浮かされて零れ落ちそうになる。



(ひー君も私と同じ気持ち。だと思ってもいいんだよね?)




ひー君の唇が私の唇とそっと触れ合う――。





そう思った瞬間。





「はい。ここまで。」


 


パチンッと額が弾かれる。




「痛っ!?」




「や〜い、引っかかった!陽菜乃ちゃんてばエッチなんだから〜。」





ニヤッと笑うひー君と、なにが起きたのか理解できずに固まる私。




「……。」




また、からかわれた。



「陽菜乃?」



「……私、帰る。」



「え、ちょっと待って!ごめん、悪ふざけしすぎた!」



「……もういいよ。」



「違うんだって!陽菜乃を怒らせるつもりじゃなかったんだ。」



「だから!もういいってば!!今回の件で踏ん切りがついたよ。私、この祭りが終わったら上京するから。そしたら、ひー君ともお別れだしね。」




「待てよ、上京?なにそれ?聞いてない。」




「高校を卒業したら村から出る予定だったから。ずっと悩んでたけど、これを最後に私達もう会うのやめよ。」



「は?」



ひー君の顔を見ないように立ち上がり、襖の取っ手に手を掛けると、後ろからひー君の声が聞こえる。



いつもより低くどこか震えているような聞き慣れないその声に振り向くと、ひー君が立っていた。




普段は柔らかい笑顔を浮かべる彼の目が、今は異様にぎらつき、まるで光を吸い込んだような深い闇がその瞳に宿り、私を見据える。





「はっ、待てよ。俺を…置いて行くのか?」




そうポツリと呟くひー君の口元は、笑みの形を保とうとしているのに唇の端が微かに引きつり、歪んでいる。




「なぁ、陽菜乃。頼むから行かないでくれよ…。」



縋り付くような声と共にひー君の両手は、力なく垂れ下がりながらも私を掴むか悩みように指先が小刻みに震えている。



「お前がいなくなったら、俺…どうしたらいいんだ…?」



ひー君の声はさらに低くなり、言葉の端々が絶望に濡れて顔には笑みを貼り付けながら、目だけが狂おしいほどに私を追い求めている。



ひー君は一歩近づき、その動きはぎこちなく、まるで壊れかけた人形のように思えた。




「ひっ!」

 



私は見慣れない彼の異常な姿に、喉から小さな叫び声を漏らす。




心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が背筋を伝う。




もうここにいられない――本能がそう叫ぶ。私は震える手で襖を乱暴に引き開け、畳を蹴るようにして駆け出した。




「陽菜乃、待てよ!」

 



背後でひー君の声が追いかけてくる。




その声は、まるで私を引きずり戻そうとするかのように足下に絡みつくが、それでも振り返る余裕なんてなかった。







どれだけ走ったのか、足元の感覚も曖昧なまま、家までの道を靴も履かずに駆け続けた。




泥と小石を踏みしめて痛みに耐えながら、ただ家を目指す。




息が切れ、膝が震える頃、ようやく見慣れた自宅の玄関にたどり着いた。




泥だらけの靴下だけで、呆然と玄関立ち尽くしている私を、出迎えた母は静かに見つめる。




母の目には心配と疑問が浮かんでいたが、言葉を発さず、そっと私を家に迎え入れてくれた。




「お風呂、沸いてるよ。入っておいで。」





母の声は落ち着いていて、いつもより少し柔らかだった。



私の震える姿を見て、そっと寄り添うような響きがあった。



言葉を返す力もなく、私は小さく頷き、よろめく足で家の中へ進んだ。




脱衣場で泥だらけの服を脱ぎ捨てると、足の裏の痛みと冷たさがようやく意識に入る。




風呂場でシャワーを浴び、こびりついた泥と汗を流す。



湯船に浸かると、じんわりと体が温まり、張り詰めていた心が少しずつほぐれ始めた。




だが、頭の奥ではひー君のぎらついた目と震える声がまだ響いている。



そんな状況の中、玄関の方から大きな叫び声と重い物音が聞こえてきた。



誰かが言い争っているような、荒々しい物音。心臓が再び締め付けられる。


そして、聞き覚えのある声がはっきりと響いた。




「陽菜乃と話させてくれ!」





ひー君の声だった。




その叫びは、まるで玄関のドアを叩き割らんばかりの勢いだった。




私の身体は湯船の中で凍りつき、冷水をかぶったようにガタガタと震えた。



恐怖が一瞬で蘇り、湯の温もりもどこかへ消えていく。

 




しばらくすると、玄関の方から低い話し声が断続的に聞こえてきた。



ひー君の声に混じって、父の落ち着いた声と、時折母の短い言葉が響く。



どんな話をしているのかはわからなかったが、ひー君の声は次第に抑えられ、声が途切れた。



それでも、私の心はざわついたままだった。



やがて、話し声がぴたりと止み、家の中が不気味な静寂に包まれた。



湯船の中で縮こまっていた私は、その静けさに逆に違和感を覚える。




聞き耳を立ててもなにも聞こえない。



話し合いが終わったような、でも何か落ち着かない空気が漂っている。




恐る恐る湯船から上がり、急いで体を拭いて脱衣場に置いてあったタオルで髪を包んだ。




脱衣場の隅に、母が用意してくれたのだろう、清潔な服が畳まれていた。




震える手で着替えを済ませ、リビングに向かうと、両親がソファーに座っている。




母の顔には、さっきの優しさとは違う、どこか重い表情が浮かんでおり、父は堅い表情のまま俯いていた。




「陽菜乃、ひー君と村長さん達が来てたよ。」




母は静かに、しかしはっきりと告げる言葉に、胸の奥で再び冷たいものが広がる。




ひー君と村長さんたちが何を言いに来たのか、母の表情から何を読み取ればいいのか、そんな考えがぐるぐると頭の中を駆け巡った。




母は一瞬、目を伏せ、深く息をついた後、私をまっすぐに見つめる。



「陽菜乃、お父さんと話し合ったんだけどね…今日中に家を出なさい。」



その言葉に、頭が真っ白になった。



父が顔を上げ、口を開きかけたが、すぐに唇を噛んでまた俯いた。



母の目は潤んでいるように見えたが、声は揺るがなかった。



「家に帰って来た時の陽菜乃の様子、…どう見てもおかしかった。それに、家を訪ねてきた『生き神』の子と話して分かったけど 、貴女に異常なくらいに執着していたわ。それに村長さんたちも『生き神』の子に従っている様子だった。」



母の言葉に今日のひー君や村長さん達の異常な行動がフラッシュバックする。



村長さん達の異様な目付きに会話、ひー君の歪んだ笑顔と異様な姿で追い縋る姿。すべてが異常で、思い出すたびに背筋が凍る。




肩を抱きしめ、震えを抑えようとしていると、母が立ち上がり、私の肩をそっと撫でた。その手は温かく、まるで私の恐怖を静かに包み込むように優しい。




そんな私と母の様子を、父は黙って見つめていたが、やがて彼は重い足取りでタンスに歩み寄り、引き出しから封筒を取り出すと、テーブルに置く。封筒の厚みから、かなりの額の現金が入っているのが分かった。




父は低い声で、しかしはっきりと口を開いた。



「陽菜乃、よく聞きなさい。本来なら高校を卒業してから東京に行くって話だったが、今すぐ準備して夜のバスで村を出なさい。」



その言葉に、心臓が締め付けられるように痛んだ。



村の重苦しい空気、ひー君の狂気を帯びた目、村長たちの不気味な視線が頭をよぎり、息が詰まりそうになる。



でも、両親を置いていくなんて考えられない。




「でも、お父さんとお母さんは!?このままこの村にいたら村の人達から迫害されるかもしれないよ!?」




父は一瞬目を伏せ、唇を噛むと、ゆっくり顔を上げ、疲れ切ったような声で言った。




「……残念だが、この村のしきたりは私たちには変えられないし、父さんと母さんは村を出る勇気もない。でも、陽菜乃にはまだ別の道がある。私たちにかまわず、行きなさい。」




「嫌だよ!」私は叫び、涙が溢れ出した。喉が詰まり、言葉が震える。




「お父さんとお母さんも一緒にいてくれなきゃ!それに村の人達たちが異常なの知ってるよね!?村の人たち、みんなおかしいよ!

こんな村にいたら、下手したら殺されちゃうかもしれない!!それに…それに…。」




母の目が潤みながらも首を振って私の言葉を遮る。




そして父は深く息を吐き、テーブルの封筒をそっと私のほうへ押した。



「それでも、だ。父さんと母さんがここに残れば、村の連中にしばらくはお前がいないと気付かれないかもしれない。数日でも時間が稼げれば、お前は安全な場所にたどり着ける。」



父の声には、諦めと決意が混じっていた。




母は私の肩を強く握り、意を決して静かに話す。




「陽菜乃、あんたはまだ若い。この村のしきたりに縛られなくていい。行って、自由に生きなさい。」



その言葉は優しかったが、どこか断ち切るような響きがあった。



私は両親の顔を見つめ、恐怖と感謝が胸の中で絡み合い、涙で視界が滲む。




しばらくして、「分かった」と震える声でそう答えると、母は小さく頷き、大きな旅行カバンを私の手に握らせた。




「急いで準備しなさい。バス停まで送るから。」




―――――――――




母の言葉に従い、私は急いで部屋に戻り、必要最低限の荷物をカバンに詰めた。



心臓はまだ激しく鼓動し、ひー君のぎらついた目が頭から離れない。




母が静かに玄関で待っていて、父は外套を手に私を軽く抱きしめた。



 

「気をつけろ。村の連中に見つからないように静かにな。この辺りはまだ寒いから暖かくして行くんだぞ。」



父は村の人が様子を見に来るかもと、万が一に備えて自宅に残ることになった。



これが父との最後の会話になるかもしれないと涙ぐんでいると、「さぁ、もう行きなさい」と父に背中を押される。




母の導きで、家の裏口からそっと外に出ると、春先で未だに冷たい夜気が肌を突き刺す。




母が小さな懐中電灯を手に、細い路地を指差した。




「あそこを通って、畑の裏を抜けるわよ。」




私は頷き、母の後に続いて闇の中を進んだ。




足音を殺し、物陰に身を隠しながら、村の家々の窓から漏れる光を避けた。



遠くで犬の遠吠えが聞こえ、背筋に冷や汗が流れる。




恐怖で足が竦みそうになる度に、母の手が私の腕を強く握り、引き戻してくれた。



畑の縁を抜け、ようやくバス停の小さな待合所が見えたとき、母は立ち止まり、私の顔をじっと見つめた。



「陽菜乃、東京に着いたら、このメールアドレスに連絡してちょうだい。それから、もうこの村に帰って来ては駄目よ。」



その声は震えていたが、力強かった。



私は涙を堪え、頷くことしかできなかった。母は私の手を一度強く握り、闇の中へ戻って行った。




バス停のベンチに座り、カバンを胸に強く抱える。少しすると、遠くからバスのエンジン音が近づいてくるのが聞こえる。



夜行バスがバス停に到着し、ドアが開くと、私は急いで乗り込んだ。



車内は薄暗く、乗客は私1人だった。窓際の席に座り、バスが動き出すと、ようやく胸を撫で下ろす。



村の暗い輪郭が遠ざかり、ひー君の声や村長の目から解放された安堵がじわじわと広がる。



でも、すぐに両親の顔が浮かんだ。





村に残った両親がどうなるのか、村人たちの異様な雰囲気に耐えられるのか?



そう考えるだけで胸が締め付けられ、持っていたカバンに額を押し付けて目を閉じた。








どれくらい時間が経っただろう。



ふと窓の外を見ると、バスが走る道が見慣れない景色に移り変わっていた。




東京に向かうはずの高速道路とは違い、狭い山道をくねくねと進んでいる。




木々の影が不気味に揺れ、遠くにちらつく光が異様に感じられた。



運転手は無言で、あまりにも静かすぎる。不安が胸を締め付け、カバンを握る手が汗ばむ。



「運転手さん、このバスは東京行きのはずですよね?」と声をかけようとしたが、喉がカラカラで音が出ない。


そんな中、バスが急に減速し、停車した。




ドアが開き、冷たい風が車内に流れ込む。




外を見ると、薄暗い空の下、バス停らしき場所に人影が立っていた。




心臓が跳ね上がる。




そこには、ひー君がいた。




歪んだ笑顔を浮かべ、心底嬉しそうに手を振っている。



その後ろには、村長や村人たちが並び、揃って不気味な笑みを浮かべていた。



まるで私を待ち構えていたかのように、皆の目が異様に光り、口元が一斉に動いた。



「陽菜乃、迎えに来たよ。さぁ、戻って婚礼の準備を始めよう!」




その瞬間、恐怖が全身を貫き、叫び声すら喉に詰まった。








―――――――――





気が付くと、私は村の神社の儀式殿にいた。



薄暗い灯りに照らされ、色とりどりの花で飾られた祭壇の前で、白い着物に身を包まれている。



喜びにざわめく村人たちの声が遠く聞こえ、異様な空気が肌を刺す。





私の隣には、ひー君が立っていた。




黒い紋付袴に身を包み、顔にはあの歪んだ笑顔が貼りついている。だが、その目は狂おしいほどに輝き、私を一瞬たりとも離さない。




「陽菜乃、ようやくだ。」



ひー君の声は低く、どこか震えていた。



「ほんとは俺、お前が受け入れてくれるまで、東京の方に進学しても、卒業まで我慢しようと思ってたんだ。でも、お前がもう戻って来ないかもしれないって気付いて、居ても立ってもいられなくなってさ。馬鹿だよなぁ、俺。」




…今更、そんな泣きそうな顔して笑わないで。




「もっと早く俺の気持ちを伝えたらよかった。でもこれでずっと一緒にいるんだよ。もうどこにも行かせない。」



彼の手が私の手を握り、その指先は異様に冷たく、まるで私の全ての熱を吸い取るかのようだった。



村人たちの視線が一斉に私たちに向けられ、村長の不気味な笑みが祭壇の向こうで揺れている。


ひー君は私の耳元で囁いた。


「お前は俺のものだ。そして俺も、お前だけのものだ。」



その言葉は愛情のようでいて、執着の蜘蛛の糸のように白く、私の胸に絡みつく。





私は顔を伏せ、唇を噛んだ。




恐怖と絶望が胸を締め付け、両親を置いてきた罪悪感が重くのしかかる。




村のしきたり、ひー君の異常な愛、全てが私を飲み込むようだ。




だが、その思いと裏腹に心の奥底で仄暗い温もりもまた芽生えていた。




ひー君のぎらついた目には、私を必要とする切実な思いがあった。




この村で、誰かにこんなにも求められることは、どこかで私の孤独を埋めるような、歪んだ安心感を与える。




悲痛な面持ちで俯きながら、なぜか涙がこぼれる。



その涙は、恐怖と諦めなのか、それともこの異常な世界で初めて感じた『居場所』への安堵なのか、自分でも分からなかった。





村人たちの拍手が響き、婚礼の儀式が始まる。





ひー君の手が私の肩を抱き、祭壇の前で一歩踏み出す。




すると、儀式殿の奥の間から、雅楽の演奏が静かに流れ始める。




私はひー君を見つめ、ひー君も穏やかな笑顔で見つめ返してくる。



「ほら。」と私の手を大事そうに支えながら前へ、前へと導いていく。




私は、その姿にいつか見た光を思い出す。



眩しいくらいに光輝く姿に焦がれていた日々を。



私は、心の底で揺れる焼け付くような感情に身を委ねる。




村の人たちや、ひー君だけじゃない。




私もまた()()だったのだ。




「ひー君。」




「ん。なに?」




「今年の夏はラムネ、一緒に買いに行こうね。」



私の言葉にひー君は面をくらったように固まり、泣きそうになっている。



その姿がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。



そしたら今度はひー君が目を拭いながら、私につられて笑った。



「おう。約束、な!」









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