2話
機体が砂地に着地すると、鉄のドアが油の軋む音とともに開いた。
すぐに吹き込んできたのは、乾いた熱風。
焼けるような日差しが上空から容赦なく降り注ぎ、目を開けるのもためらうほどだった。
空は異様なほど青く澄み、雲ひとつない。だが、清涼さは一切なかった。
砂の上に足を下ろすと、細かい粒子が靴の隙間に入り込む。
砂岩の多い地形で、風が吹くたびに砕けた岩粉や砂が舞い上がり、肌にまとわりつくようだった。
顔の皮膚にざらりと砂がこびりつくのを感じて、タマモは鬱陶しそうに眉を寄せ、ロングコートのフードを深く被った。
陽光を遮るにはそれしかなかった。
その時、遠くから一人の男がこちらに歩いてくるのが見えた。
豪奢な黒の軍服を纏い、金刺繍が陽の下で鈍く光る。
だがその風格には翳りがあり、腰に提げたロングソードの鞘は埃にまみれ、手入れも行き届いていない。
頬に刻まれた深い皺、伸び放題の髭、疲れ切った目元──彼が現地部隊の隊長であることは、その存在感からも明白だった。
彼は数歩前で立ち止まり、呼吸を整えるように肩を上下させた。
「状況は?」
タマモの声は低く、鋭い。
語気を強めることなく、それでいて一切の甘さを排した口調。指揮を握る者の声だった。
隊長は無言で頷くと、腰のポーチから筒状の機器を取り出した。
それは一見すると黒曜石でできた筒のようだが、彼の手が触れると中心部の水晶が青白く輝き、光が足元の地面に投影された。
砂の上に映し出されたのは、簡易的なホロマップ。
地形図、寺院の位置、顔写真、魔力の分析データ、複数のタグ──情報が淡い光で重ねられていく。
隊長は、目を細めながら報告を開始した。
無駄がなく、必要な情報だけを静かに切り出す。
「ターゲットは、北東2.3km先に位置する寺院を拠点に布教活動を展開。
建物の周囲には高ランクの魔石を所持した複数の魔術師及び対人地雷を確認、接近ルートの制限が必要。
最大の脅威はスエルの側近、サクレ。元は殺し屋で、現在は護衛兼指揮官。
前回の接触時、我が隊員に多数の死傷者。接近戦において極めて高リスクです」
言葉が途切れると、投影された顔写真のひとつ──髭を生やした中年の男が拡大された。
くすんだ茶髪、深い皺、冷酷そうな瞳。
右目の下に剣型の入れ墨が見える。
タマモは無言だった。
だがその横顔には、静かな火が灯っていた。彼女はホロマップを一瞥し、頷いた。それだけで十分だった。
クズハもまた、目を閉じたまま、わずかに顎を動かして意思を示す。
数秒の沈黙の後、タマモが口を開いた。
「全隊員を寺院の後方に回らせて。爆発物の処理と、負傷者の治療を最優先。前線には私たちだけで向かうわ」
隊長は一瞬、驚いたように眉を上げたが、すぐに姿勢を正して応じた。
「了解。各隊、即時展開。指定位置に向かい、待機」
無線を通じて号令が飛び、隊員たちが一斉に動き始めた。
灰色の装備に身を包んだ者たちが砂塵の中を散開していく。低く、速く、迷いのない動き。
その光景を背に、タマモは風を切って寺院の方向へと歩き出した。
足元に広がる乾いた大地を、黒いロングコートが風になびきながら進む。
隣を並ぶように、クズハが歩く。
目は閉じたまま。だが足取りは正確で、迷いがない。
「もっとスパッといきたいわね」
タマモがぼやくように言った。
「寺院は、国家指定の重要文化財です。破壊は厳禁ですよ」
クズハの返答は端的だったが、そこには呆れと釘を刺すような冷静さが混じっていた。
タマモはふっと鼻で笑い、小さくため息をついた。
「……はいはい。それじゃあ、いくわよ」
その言葉と共に、クズハの表情が一変する。まるで仮面をかぶり直すかのように、表情の緩みが一掃され、クズハは手をコートの内側に入れていた。
指先が、黒い柄の刀の持ち手に触れる。
「では、陽動を行います。お母様はいつも通りでお願いします」
クズハの声は、乾ききった風に混じっても澄んでいた。
左手に握るのは、漆黒の鞘に納まった刀。その重みを身体で覚えた彼女は、盲目のまま閉じられた瞼は一歩も揺るがず、まるで神託を受ける巫女のように静かだった。
その表情には明確な感情の起伏はない。しかし、鞘を持つ指先にかすかな緊張が走り、巻き上がる砂に眉がほんのわずかに寄ったことが、悪環境への倦怠を雄弁に物語っていた。
「クズハ、この天気、嫌でしょ?」
タマモが言葉を投げる。それは疑問形ではあったが、語調は確信に満ちていた。
フードの影に隠れたその表情は、母親としての余裕と信頼に満ちた穏やかな笑み。
「……分かりますか?」
クズハが聞き返す。盲目である彼女は、相手の感情を音や空気の変化から読み取る。その問いは、確認ではなく、一種の試しだった。
「当然よ。十五歳のティーンエイジャーなんて、全部分かるわ」
タマモの返答は、どこか肩をすくめるような軽さを含んでいたが、その実、彼女の中にある膨大な経験値の上に成り立つ“理解”の重さを持っていた。
根底にあるのは真摯な理解。娘を想う母親の目は、決して曇らない。
「……乾燥がすごいですよね」
クズハがぽつりと呟いた。
普段は冷静な彼女も、年齢相応に肌荒れを気にしているのだ。戦場でもその感覚は失っていない。
「こんな砂混じりの風が毎日だったら、絶対化粧水が足りませんよ」と言いたげな、わずかに口を尖らせた表情。気怠さと、それでも前へ進まなければならない覚悟が滲む。
「じゃあ、さっさと終わらせましょ」
タマモの声が終わる前に、クズハの身体が宙へと躍った。
動作に無駄はなく、重力を裏切るような跳躍。蝶の羽ばたきのように滑らかで、空気抵抗すら撫でるような軌道を描く。
その動きに一切の予備動作はない。目を閉じたまま、感覚だけで空間を読む。
跳躍の頂点に到達した瞬間──
四方八方から魔力弾が解き放たれた。
火、水、氷、雷、風、土──
属性魔力が結晶化した高ランクの魔石の産物は、質量と加速力を持ち、もはや術ではなく“砲撃”に等しい。
しかしクズハは空中で揺れ動く枝のように身体を撓らせ、まるで“跳弾”の軌跡を読んでいるかのようにすべてを躱す。
一歩間違えれば即死の状況。しかし、彼女は知覚に頼らずに“読む”。
風の動き、魔力の痕跡、そして敵の殺気を肌で感じ、躱す。
空中の立体戦闘でそれをやってのけるのは、熟練どころか“天性”と呼べる資質だった。
その陽動は、完璧だった。
タマモはその刹那を逃さず動いた。
地雷が仕込まれた地面は、不用意に足を踏み入れれば即座に起爆する。
起爆までは0.01秒。それでも、タマモにとっては十分だった。足が地を離れる頃には爆発の炎が背後に揺れていた。
風の流れを読み、術式の死角を突いて寺院外縁部まで走り抜ける。
爆風に気づいた複数の魔術師たちが応戦の構えを見せる──だが、それは遅すぎた。
抜刀。
タマモの白柄の刀が一閃するたび、魔術師が一人、二人と崩れ落ちる。術式を詠唱する間すら与えられないその速度。
身体を守る防壁も、詠唱支援も意味を成さない。
斬られた魔術師の魔力結晶が空中で砕け、砂に還る。
タマモの足は止まらない。
《これは“掃討”じゃない、あくまで“通過”》
その意識がある限り、彼女は“雑魚”に構っている暇などなかった。
空中で炎を切り裂き、水をすり抜け、雷をいなしたクズハがようやく着地した時──
地面の震動が止まり、空気が静まっていた。
寺院の正門前に立つタマモの背中は、陽光の中で静かに揺れていた。
「術士は頼むわね、クズハ」
フードの奥で、タマモの目が細められる。
そして静かに、刀を納めた音だけが、寺院に木霊した。