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勇者ヒイロの英雄譚  作者: 千里
六章 勇者ヒイロの英雄譚
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44. 新たなる魔王の誕生

 その日も、いつもと変わらぬ一日であった。

 執務室に向かい、余の代わりに魔族の上に立つ勇者であった男の姿を見て、背負っていた責務が他者に移っていたことを思い出す。

「魔王代理様、こちらが本日のお仕事です」

「ありがとうございます、ザブンザブさん」

「感謝されるほどのことではございません。それと、こちらは婚姻届です。ご記入ください」

「しませんよ」

 余の側近であった頃のザブンザブはあのような冗談を言わなかった。冗談ではない可能性もあるが、少なくとも、余とはあのように会話を交わすことなどなかった。勇者であった男が魔族の上に立つようになってからの方が、以前よりも魔王城に漂う空気が軽くなっていた。

「羨ましそうに眺めておりますが、何か思うところがございましたかのう。魔王様」

「ガギンゴギンか、羨ましいなど思っていない。奴がこの国を統治し始めてから、民の間に笑顔が増えたように思えてな」

「そんなこと気にする必要なんてないのでしょうな。勇者とあなた様、統治者としてどちらの方が優れているか、なんて比べることではありませぬ」

「そうか」

 ガギンゴギンの励ましの声を聞いても劣等感は消えず。

「それで、お前は何のためにここに来た?」

「おお、忘れておりました。なに、大したことではございませぬ。最近やって来たあの集団が同胞を困らせているようで、その相談でございます」

「ああ、奴らか」

 元人間でありながら魔族の肉体を望んで得た奇特な者共、人目をはばかることなく翼や角に触れてくる常識知らず、どうにもここ最近は、その者共についての相談が勇者であった男のもとに寄せられることが多かった。

 その光景をぼんやりと眺めたまま余暇を過ごしていると伝令がやってくる。

「勇者様の仲間が来ているようです」

「あら、それってあの二人?それともガナン?」

「聖女と獣人の二人です」

「久しぶりに会いに行こうかしら」

 いつの間にかやって来た魔法使いの女の提案で話が進む。

「万が一、奴らが魔王様に敵意を持っていた場合に備えて先に行かせてもらいます」

「お前ひとりで先に行くのは心配だから、俺も行くか」

「あたしも先に行くわ。つもり話もあるしね」

 ビューブオとアチーチと魔法使いの女が先に行く。騒がしい話し声が遠ざかっていく中、余は少し遅れて向かう。


 ガギンゴギンの重さに耐えられる馬車などなく、歩いて向かう。道中では、ガギンゴギンとザブンザブが何も話さないせいで、勇者であった男も話さない。わざわざ楽しき語り合う必要などないが、この場を逃せば奴と語る機会を失する。その前に何かを伝えなければならない。そんな予感に駆られる。しかし、話をしようにも奴と二人きりで話したのは一年前が最後で、何を語るべきか。

 そこで思いついたのは、母が余に教えた人類への恨みの正しさについてであった。

「余の母について、お前は知っているか」

「ガギンゴギンさんから少し」

「そうか。…余の母は、誰よりもお優しい方だった。余を愛し、魔族の未来を憂い、すべての者の心に寄り添うことが出来るお方だった。だからこそ、母は魔族の歴史をただの歴史だと思えなかった」

 勇者であった男は疑問符を浮かべ、ガギンゴギンは痛ましい顔をし、ザブンザブの表情からは特に何も読み取れなかった。

「戦う力を持たぬ国民の死を大切な隣人を失ったかのように悼み、勇敢に戦った同胞の死を己が配偶者が殺されたかのように嘆き、歴史に語られる子供の死をまるで我が子の死のように悲しむ」

 母は優しすぎた。彼女のように、激しい憎悪に身を焼かれて心を病ませる存在を生み出すことはまかりならぬ。

「人間と魔族が敵対関係にないならば、母のような存在を生み出さないためにも、人間への深い憎しみの歴史を誰かに伝えるつもりはない。しかし、努々忘れるな。余は人間への憎しみを決して忘れぬ。お前たち人間が再び魔族を滅ぼさんとしたとき、そのときは余がお前たちを滅ぼす」

 以前は思考を止めて人類を滅ぼさんとしていたが、今は違う。人間に対して憎悪を抱いていることには変わりないが、勇者であった男が生きている限りは待ってやってもいいと思えた。

 そんなわずかな変化を自覚する余の姿を見て、奴は笑みを浮かべる。

「要するに、魔族の人たちを不幸にしたくないってことだろ?」

「下らぬ妄言を垂れ流すな」

 こちらの心を見透かしたかのような物言いが不愉快だった。だが、その言葉が的外れだと思えず、懐かしい感情が蘇る。小さい頃に抱いていた感情、人類も魔族も、平和にしたい。そんな甘さを未だに抱いていたのだろうか。

「安心してくれ。お前にそんなことさせない。もう、誰も殺させない」

 聞こえてきた言葉に勇者であった男の顔を見ると、奴は笑顔から一転して真剣な表情でこちらを見る。返す言葉は見つからなかった。


 それからさらに少し歩き、やって来た獣人と聖女の二人のもとに辿り着く。かつて助けられた恩があったが、感謝をうまく伝えられず。

「何を迷っている。人は人の国に帰るが良い。先ほども言ったように、魔族が人間に対して抱く恨みは少しずつ薄れていくだろう。お前がいなくとも問題ない」

 感謝もうまく伝えられないのだ、当然のように、他人の背中を押すような言葉もうまく伝えることが出来ず、そこが奴との差だと自覚させられる。何も伝えられないまま聖女たちも去っていき、勇者であった男も去っていくかに思われたが、奴は再び振り返る。

「イブリース、お前が人類に対してしてきた行いは許されないかもしれないけれど、以前よりも優しくなって、今みたいに背中を押してくれたことを僕は忘れない。

 だから、二度と死のうとするな。ガギンゴギンがお前を正しく導こうとしたように、国民がお前のことを慕っていたように、アチーチたちがお前のために戦ったように、お前を助けてくれる人はたくさんいる。その人たちを悲しませるなよ。…まあ、僕が言えた義理ではないかもしれないけれど」

「言われなくともそのつもりだ」

 初めからそのつもりではあったが、奴に言われたことでもう二度とあのような愚行は犯すまいと固く決意させられる。悔しいが、奴の方がよほど人を励ますのがうまい。

「そっか。それじゃあ、俺の緋色っていう名前の由来を知っているか?」

「知るはずなかろう」

「そうだよな。それじゃあ、次にお前とこうやって取り留めのない話をするときが来たら、そのときに教えるよ」

「好きにするが良い」

 勇者であった男はいたずらっぽい笑顔で約束を取り付けてきたが、興味などなかった。しかし、大切なことはそこではないのだろう。奴は信じているのだ、次に会うときも敵対することはないと。

「魔王様、城に戻りましょう」

「ああ」

 去ってゆく奴の背中を見送ってから帰路に着く。


「ヒイロがいなくなるってことは、魔王様が魔王様に戻るってことですよね?」

「何を言っておる。そんなことできるはずなかろう」

 城に戻る道中で聞かれたアチーチの何気ない質問に窮する。今までならば、余こそ魔王に相応しいと即座に答えたことだろう。しかし、勇者であった男が余の代わりに魔族の上に立っていた姿のせいで、余には相応しくないと思えてならなかった。奴のように部下を慮ることもできず、奴のようにうまくまとめることもできない。

「儂はしかと聞いておりました。御母君の話を語るあなた様の言葉の中には、かつてのように魔族のことを思う心が存在していたことを。あなた様が再び魔王となることを反対する者は居りませぬ」

 余を幼い頃より知るガギンゴギンが相応しいと言ったことに安堵してしまう。

『お前が知らないだけで、お前はいろいろな部分で救われているはずだ』

「気に食わぬ」

 心の底から気に食わぬ。奴の言葉を実感していることも、奴の言葉に影響を受けていることも、その変化を受け入れている己自身も。しかし、今はそんなことは忘れて、再び余が魔王になることを思う。

「お前たちが、それでも余が魔王として民を導けると信じているのならば、今度こそ、魔族を守るために生きると誓おう」

 余の決意が否定されることはなかった。多くの者が、余が再び上に立つことを受け入れた。

「ですが、同じ名前であることはいかがなさいましょうか。魔王様が生きておられることが知れ渡ってしまえば、何らかの支障があるのでは?」

「それについては問題ない。代わりの名前として相応しいものを考えてある。

 アザゼル、それが余の新しき名だ」

「それは何とも。懐かしき名前ですな」

 人類に敵意を感じさせないために古い名前を使うなど、以前の余であればありえなかったであろうに、共生の道を模索しているのは奴から影響を与えられた結果なのだろう。

 死に瀕した余が救われるきっかけとなった者、怒りや恨みに支配されていた余に異なる考え方を植え付けた者、苦しむ魔族を救おうとした者。奴が平和な未来を実現させなければ、今度こそ余がすべてを支配する。だが、そのような日が来るとは思っていない心からは目を逸らす。

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