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75:必然的遭遇

 

 今朝は日差しがあって、どちらかと言えば暖かい方だった。


 沢の水と幾摘まみの塩、根菜と干し豆と干し肉のスープが、毛皮を巻いた寝袋の中にあっても冷えきってしまう体に染み込んでいくのを感じて、ようやく赤毛の女や少女たちの意識が覚める。

 食事を終えたら鍋で温めた沢の水に布切れを浸して、顔や首や足をよく拭う。これだけで一日歩き回って汗が滲んだ肌が清らかになった気分になれるし、背筋はしゃんと伸びて眼差しが鋭いモノへと変わる。


 リオンとハルハルが防具や荷物を整えている間に、カルリスティアの髪に櫛を通す。まともに洗ったのが五日前だとしても、櫛の歯にひっかかる感覚は無い。


 腰のベルトの小物入れには木の筆、墨壷、地図が入っている。それらはきちんと揃っていて、いつでも使える状態にある。

 手をかざして火が始末されたことを確認したハヤトは、背嚢に寝袋を括りつけて背負う。


 そうして今日も、彼らは森の奥へ入る。


 オナー大森林の奥部は文字通り、手付かずの自然が残されている。王族が「狩り」の場として使うこともあるほどで、巨木の枝と見紛うツノを左右に伸ばす雄鹿や目の覚めるような橙色の毛並みをたなびかせる狐、太い牙と四つ足を振りかざすよく肥えた猪が、我が物顔であちらからこちらへ跳ね駆ける。


 ロウネに近い所ではなかなか見つけられない奇蹄や偶蹄の足跡が、ここにはいくつも残されているのは、この冷たい空気が支配する季節になる頃にも「彼ら」を満足させられるからだろう。


 例えば、赤い毛並みを揺らす雌狼が先導する四人組の前にはしばしば、群れを引き連れた雌鹿が現れる。

 僅かに残る葉を食みながらこちらを睨んでくる彼らの横を過ぎて、四人は野薮の隙間を抜けていく。


 行きも帰りも、どの方向へ進むかはリオンとハルハルに任せきっている。どこを歩けば野営地やロウネに戻れるかを理解しているのは二人だけだ。

 それでも、白と茶色ばかりのろくに視界の利かないここでたった一つの目標を探し出す、最短距離の道筋であることには間違いない。


「これも奥に続いてやがる。」

「全部こんな感じだね。」


 木立と枝葉に目線を遮られ、見通すことの叶わない森の奥部へと続いている巨大な獣の痕跡。


 あまりにも大きい「それ」はヒトが故意に作った偽物にすら思えてしまうが。爪で土を抉った形状や足跡の縁に付いている毛からして、リオンもハルハルも「本物で間違いない。」と断言している。

 ハヤトは、その言葉を信じている。


 とはいえ。一歩、また一歩と森の中を歩くハヤトの目には代わり映えしない景色ばかりが映っている。


 木と、木と、それから木。薮と、薮と、それから薮。

 巨獣の痕跡や野獣の影がなければ、前も後ろも右も左もこの調子。冷たい空気が肌を刺し、緊張の糸が張っていなければあくびの一つや二つ漏らしてしまっていたはずだ。


 深みのある赤褐色の瞳はある程度の見分けがついているようで、あれは春にこういう花を咲かせるだとか、夏には甘い実を結ぶだとかを教えてくれる。教わったところで、憶えきれるものでもないが。

 これほど知識があって、特筆すべきことではないかのように兎を狩ってこれてしまうリオンを相手にして、なおも尾の先すら覗かせない謎の巨獣。


 一つ、また一つと地図に加わる印の数だけ、ハヤトの胸の中には心地の悪い熱が溜まっていっていた。違和感、と言い換えてもいいかもしれない。


 ただ、何に対する、どういった違和感なのかがわからないでいる。


 三つの印が地図に加わった頃。四人は森を流れる沢に臨む岩場で休息をとることにした。

 手頃な岩に尻を預け、ブーツを脱いで足を拭く。直接雪が入ってしまったわけでなくとも、革地に滲みた湿気が素肌を濡らしている。放置すれば体温が奪われるだけでなく、「雪焼け」……日本語で言う凍傷の危険すらある。


 水筒の中身には大分の余裕があり、補給の必要はない。清らかな冷水が丸い石の転がる川底を滑っていく眺めを肴にして、のんきに傾けていられる。ついでに塩気がキツイ干し肉を口に放り込んで、塩味と臭みと硬さを和らげながら噛んでいるだけで、不思議と体も心も落ち着いてくる。


「カーリー、櫛貸して。」

「うん。」


 それから、細い手が肩掛け鞄から取り出した櫛で銀色の髪を梳かすのも休憩の度にやっている。実のところはやる必要こそないのだが、思わず触れたくなってしまう彼女の髪に触れていられる、都合のいい言い訳でしかない。

 まあ、本人も当人も満足そうな笑みを浮かべているのだから、それでいいのだろう。


 休憩を終えた四人は再び歩き出す。沢の流れに沿って上流へ向かい、ある所で北上していく流れと別れて東へつま先を向ける。

 もう一つ、東へ向かう痕跡を地図に記したハヤトは、リオンとハルハルが周囲を見渡していることに気がついた。


「どうしたの?」


 声をかけるも、二人はしばらく目線をどこかへ向けたまま。


「森が静かだ。」


 森はどこだって静かではないか、と思ったハヤトはその通りに聞き返す。


「見ただろ、鹿やら猪やらが動きまわってやがるの。」


 ああ、とハヤトは内心で唸る。

 地図から目を離して、二人に習うように周辺へ巡らせる。

 相も変わらず静かな森だが、どこを見ても何者の気配も感じない。


 そう、()()()()()()


 歩いているだけで鹿の群れと出会うような豊かな森で、獣たちが残すはずの痕跡、食べ残し、折れた枝……そういった「ここにいた」という予感が、無い。


 横を見遣ると、深みのある赤褐色の瞳がぎらついている。

 鮮やかな茶色の瞳も、絶えず周りを睨みつけている。

 ここで留まるか、前へ進むか。


「俺はどうしたらいい?」


 木々の奥の、その奥へ眼を置いたまま。赤毛の女は口を開いた。


「食うか、食われるかだ。」


 肌を撫で斬る山おろし。空にたなびく赤毛の長髪。

 彼女が覗く「深奥」を、少年もまた覗いていた。





 もう何度見たかわからない地図からして、日没までに野営地へ戻れるギリギリの距離を歩いた。今日も東へ向かう痕跡が見つかるばかりで、ヤツの影は一縷も拝むことができなかった。


「野営地で一晩休んで、それからロウネに戻ろう。」


 遠くを見遣るリオンは口の端から「ああ。」とだけ漏らし、ハルハルとカルリスティアは小さく頷く。

 こうして二度目の大森林探索も、「成果」を得るだけで終わった。


 行きと同じくリオンが先導する形で森を歩く四人の足取りは、どこか重い。

 見つけられなかったことへの落胆か。幻想が現実にならなかったことへの安堵か。あるいは、両方。

 それぞれの心中を占める感情がいずれかなど、黒い髪の少年には量りようもなかったが。


 一つだけ確かなことは、この胸の奥に沸々と煮える熱情がまだ残っているということ。

 何度でも、何度でも。謎の巨獣を見つけ出し、首を狩る。


 全てはカルリスティアを魔法使いとして「完成」させるために。


 何度でも、戻ってくる。

 みちり、と枝を踏み折る音が耳に響くこの森の、どこかにいるはずの巨獣すらも踏みつけて、さらなる「力」を手にするために。


 三歩、四歩と雪混じりの土を潰す両の足は、力強い。

 そうして左右に揺れる一つまとめにした赤毛の長髪を追っていたハヤトは、はて、と内心で首を傾げた。


 足元に、枝などあっただろうか。


 リオンとハルハルが同時に足を止めたのは、ハヤトが振り返ろうとして歩調を緩めたのとちょうど同じタイミングだった。

 ただ、後ろへ体を翻したのはハルハルの方がほんの少しだけ早かった。


 ふるふると震える栗色の髪の、その向こう。ずっと奥まで乱れ並ぶ木々の間隙。大人の背丈よりも高い所から。


 二粒の真黒い眼光が、こちらを覗いていた。


 時が止まったしまったかのような、しばしの静寂。それを打ち破ったのは甲高い声色で発された、随分と聞き慣れたはずのやさぐれボイスだった。


「走れッ!!」


 忘れていた呼吸が戻ったハヤトは、細く白い手を力いっぱいに攫った。


 走る、走る、走る。野薮を押し退け、泥にも似た地面を蹴って。

 赤毛の女も、黒い髪の少年も、栗色の髪の幼女も、揃ったペースで木々の隙間を切り裂いて、大森林を抜けていく。樹木があっけなく圧し折られ、泥が宙へ投げ飛ばされても。身の毛もよだつ野獣の吐息を背負って。


「ぁっ。はぁっ、はぁっ。うぅ……!」


 ただ、一人。少年に手を引かれる銀色の髪の少女の足元はあまりにも頼りなく、覚束ない。このままでは彼女が真っ先に力尽きる。

 そこからの男の判断は、恐ろしく早かった。


「カーリー!杖ちゃんと握って!」


 ほんのひと時、動きが止まった隙にカルリスティアは両手で黒薔薇の魔杖をこれでもかと抱え込む。

 直後、少女の細い体が両足と首から浮き上がる。膝の裏と首の後ろを少年の腕が支えていることに彼女が気づく前に、二人の体が一息で加速する。


 一人で走っていた時よりも、ずっと確かなステップで。ハヤトはリオンとハルハルを追走する。


「リオンッ!なんで急にアイツがッ?!」


 ボルトが装填されたクロスボウを肩に担ぎながら時折、背後へ意識を差し向けるリオンは牙のような八重歯を引ん剝く。


「誘い込まれたんだよアイツにッ!」


 誘い込まれた……その言葉を聞いた瞬間、ハヤトの頭の中で印と印が一本の直線で繋がった。


 次々と見つかる痕跡は、ヒトの興味を「その先」へ向けさせる。東へ向かう痕跡はヒトの目線を森の奥だけに集め、やがて野心的な一隊は無謀にも踏み込む。

 木々が視界を遮り、野薮が足元を不確かにする大森林の奥部へ。

 疲労し、落胆し、安全な所に帰るべく背中を差し出す。


 その瞬間を、時機を、油断を。

 ヤツはたった一つのこの時を、淡々と狙っていたのだ。


 こうしてまんまと「罠」にかかる間抜け共が現れるまで。


「だが森ン中だ!いくらデカブツでも、追いつける道理はねぇッ!」


 リオンの言葉通り、背後にいるヤツが立てる騒音が近づいている気配はない。いくら巨体に任せて木立を薙ぎ払えるとしても、隙間を駆け抜けられる人間には追いつけないようだ。


「今から戦うヨユーなんてないよっ!」

「ああッ!今日はこのまま森ィ使って振りきって__」


 視界が、開ける。

 聞こえてくる沢のせせらぎ。秩序的な水面を乱す音。尾鰭が水を蹴る音。

 四人は悟り、ゆっくりと振り返る。


「……そういうこッか!」


 目前には、ヤツがいる。


 丸い耳、茶色っぽい毛皮、黒い鼻、真黒い瞳。

 両腕で作る円ほどの太さをした、恐るべき四つ足。

 五本の指にずらりと並ぶ、黒い鋭爪。

 丸い毛玉の代わりに尻から伸びる、光沢のある鱗を生やした蛇の頭。

 短い首と筋骨隆々とした肩口を覆う、蛇鱗のたてがみ。

 ナイフよりも幅広な牙を見せてこちらを睨む、とんがった顔。


 幻想の集合体などではなかった。ファンタジーの産物などでもなかった。


 それは間違いなく、「謎の巨獣」そのものであった。


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