71:小さな狩人②
「おにーさん。お部屋、行こっか。」
「……わかった。」
二人は揃って、席を立つ。
「おねーちゃんも。」
「ぁぅ……。」
ハヤトとカルリスティアは自分たちよりもずっと小さなその背中に、二階の奥の一室まで誘われる。先に入った二人の後ろで扉の鍵が閉められる音が、嫌なくらい耳に響く。
靴裏がわざらしく床を叩くかさ、かさという音の後で。恐る恐る振り返った先にいた妖しく微笑む彼女が、口を開く。
「おにーさんは何者?なんでボクたちの言葉が話せるの?」
鮮やかな茶色の眼光が不意に、僅かに紫がかった淡い青に煌めく。
ここで正直に答えなければ、平和的にこの部屋から出ることはできない。ハヤトはそう直感した。
「俺はこの世界とは別の世界から来た人間なんだ。女神様から、この世界の言葉を理解できる力を貰った。」
いわゆるご都合主義的な力だと思っていたこの力のデメリットを、ハヤトはようやく理解できた。
これまで接してきたのはオナー人ばかり。オナー人はオナー語を使う人々であり、彼らの社会で生活している間は問題など起こりようもない。
しかし、彼らの営みに混じって暮らす「そうでない人」と接する時。自分は全て日本語として理解して、かつ自然と話してしまっているがために、相手へ本当は何の言語で話しかけているのかを自覚できない。
こういったトラブルを自ら引き寄せてしまうのは、時と場合によっては身の安全すら危ぶまれる。
「おねーちゃんとも話せるんだ。」
「うん。たぶん、その力のおかげで。」
便利なのは、いい。まったく馴染みのない言語を覚える必要がないのもいい。
だが、災いを引き寄せてしまった。力の万能さが原因ではあるが、自身の油断もまた一因である。
「で、おねーちゃんは何者?」
「ぅ、その……。」
今度は話が通じている様子で、思えば途中までそうだった。とするとハルハルという幼女はその小さな体に見合わず、自身の故郷の言葉に加えてオナー語も使いこなせるということになる。
「……ごめん、カーリー。言っちゃっていいよ。」
紺碧の瞳を揺らしてこちらを見上げてきた少女の頭を、少年は優しく撫でてやる。
「……カルリスティア・オーラ・フィグマリーグ。フィグマリーグ侯爵の、娘。」
「えっ。フィグマリーグって、貴族の?」
カルリスティアは頷いて、ローブの下から紫色の布を取り出す。
「これが、証。フィグマリーグ侯爵家の、一員の。」
今度はハルハルが固まってしまう番だった。
異世界から来た、この世界の言葉を理解できる少年。フロリアーレ王国では知らぬ者のいない大貴族の令嬢。しがない傭兵として生活しているだけでは、決して出会うはずのない人物が目の前にいるのだ。無理もないだろう。
鮮やかな茶色の瞳があちこちへと彷徨って、可愛らしい栗色の短髪が槍の柄を触れる。しばらくの間それを繰り返してから、ハルハルは小さな口を再び開く。
「ボクはユニラ・ヤグマル・マイエ・ハルハル。」
「ゆに……?」
顔をしかめるハヤトに、ハルハルが半歩詰め寄る。
「ユニラ島の、ヤグマル村。マイエ族のハルハル。」
ユニラ・ヤグマル・マイエ・ハルハル。それが、彼女のフルネームのようだ。
「ぁ……あなたは、オヤジ人?」
カルリスティアが問いかけると、ハルハルは愛らしく頬を膨らませる。
「オイジージナ人、って呼んで。」
「ぁ、の……ごめん、なさい……。」
オヤジ人なのか、オイジージナ人なのか。事情をまったく知らないハヤトは首を傾げる。
「カーリー。オヤジ人とか、オイジージナ人っていうのは何?」
カルリスティアは紺碧の瞳に幼女を映すが、当人はそっぽを向いている。
「え、と……ライラク大陸のみ、南にある、『オヤジ列島』。そ、そこから来た人、たちが、『オヤジ人』って呼ばれ、てる。」
「ハルハルたち的には、オイジージナ人って呼んでほしいの?」
「ボクたちの言葉『島々の声』で、『島々の民』って意味。だから、オイジージナ人。」
この国でマグリ人がマグリ人と呼ばれているのと、まあまあ似たような経緯だろう。
本人たちがオイジージナ人と自称していたとしても、事情を知らないオナー人からすればオヤジ列島と呼ぶ場所から来たのだから、オヤジ人と呼ぶ。それだけと言えば、それだけのことだ。
オヤジ列島から来たオイジージナ人で、狩りの心得があり、人懐っこさと狡猾さを兼ね備える、槍を携えたボクっ子褐色幼女。
__めっちゃキャラ濃いな、この子。
やさぐれ姉貴キャラのリオンや、陰キャラ引きこもりお嬢様のカルリスティアも大概だが。このハルハルという少女もかなり特徴的な人柄をしている。
率直に言って、非常に興味がある。
「ハルハル、俺と一緒に巨獣を探しに行かない?」
仄暗い黒に染まった瞳に射抜かれて、鮮やかな茶色の瞳が微かに震える。
まるで雨に打たれた体を火が焚かれた暖炉で温めながら、細い肩を震わせる小さな子どものように。
ふと、茶色の瞳がどこかへ向く。
「……ホントはね。ボク、寒いの苦手なんだ。」
南にある島が故郷の彼女にとって、この国の空気は冷たすぎるのか。繰り糸が切れてしまった木偶のように、ハルハルの細い肩から力が抜ける。
比喩ではないのかもしれないとも、少年は思う。
年上の男を相手にして言葉で押し勝つということが、彼女の心身にどれだけの圧力を及ぼしていたのか。詰められた側にとっては理解し難い。
ハヤトはしばらく茶色の瞳を見遣る。そうしておもむろに肩から垂らしていたマントを外して、体を窄めてしまった小さな女の子にそっと差し出した。
「これ、あげる。」
「いいの?」
ハヤトはしっかりと頷く。
「もう一人の仲間にも買ったんだけど、要らないって言うから。俺はそっちを使うよ。」
寂しそうに眉を寄せ、けれど口元には穏やかな笑みを浮かべて。ハヤトはハルハルがマントを受け取ったその時まで、彼女の瞳を覗きつづけた。
大人にとってやや小さいそれは、小人の背丈には十分な長さがあった。肩から背中に下げてもちょうど腰の辺りまで覆われて、左右の端で胸と腹を包めるほどに。
幼女はただ、厚手の布を握る自身の小さな手をぼんやりと見つめている。
「……ボクで、いいの?」
茶色の瞳が、潤む。
黒い髪の少年が。穏やかに微笑んで目線を合わせてくれる人が、そこにいる。
「君が必要なんだ。少しの間でもいいから、俺に預けてほしい。」
仄暗い黒に染まった瞳の奥で滾り燃える、炎の灯火に当てられて。寒さに震えていた狡猾な小蛇の頬に柔らかい熱が分かれ移る。
「俺たちでデッカい夢を追いかけよう、ハルハル。」
瞬くような間隙で、僅かに紫がかった淡い青に煌めく瞳。
「……うん、いいよ。にいちゃんの手伝い、してあげる!」
オイジージナ人の少女傭兵、ハルハル。
小さな体に詰まった大きな可能性が少年の手のひらの中で熱を帯びながら、どく、どくと耳障りな脈動で両の足を震わせていた。
「お前なぁ……。」
まあ、その後。荷物を抱えて「燭台の長屋」に戻ってきた赤毛の女が、床に下ろした荷物の代わりに頭を抱えたのは言うまでもないのだが。